焼と帝室技芸員―三代清風與平―
現代の日本には「人間国宝」と呼ばれる人々がいる。実際は文部科学大臣によって指定される「重要無形文化財保持者」が言葉としてわかりにくかったのだろう、いつしかその名前で呼ばれるようになった。伝統芸能の世界で優れた技能をもつ様々な専門家が選ばれ、それぞれの技能の保全を目的に後進の指導や海外への情報発信を担っている。
陶芸の分野でも他の芸能分野と同じく「人間国宝」が存在し、これまでに計30名以上が認定されてきた。[1] 京都からは初代の人間国宝として1955年に「色絵磁器」の分野で富本憲吉が選ばれ、以後数名が任命されている。
この制度ができたのは第二次世界大戦後のこと。ではそれ以前はこのような制度はなかったのかと言うと、そうではない。戦前には「人間国宝」の前身ともいえる「帝室技芸員(ていしつぎげいいん)」と呼ばれる芸術家たちがいた。
1890年(明治23)に施行された美術工芸家の保護政策の中で、国を代表する技術をもった芸術家を指定し年金の支給を支給することが決められた。天皇や皇族のために室内装飾を目的とする調度品を制作する役割も担当した彼らは、日本の文化を守り、次世代に伝える仕事も担っていた。
横山大観、竹内栖鳳、黒田清輝、富岡鉄斎、梅原龍三郎など、明治から戦前を代表する芸術家79名が帝室技芸員に任命されている。
陶芸界からもこの名誉ある立場に選ばれたが、約60年間の歴史の中で、三代清風與平(与平)、初代宮川香山、初代伊東陶山、初代諏訪蘇山、板谷波山の5名しかいない。前述の「人間国宝」に選ばれた陶芸家が64年間で30名以上いることと比べると、帝室技芸員になるのは人間国宝になるよりも遥かに難しかったことがわかるのである。
帝室技芸員となった陶芸家5名のうち、板谷波山を除く4名は京焼に関わりの深い人物である。
三代清風与平、初代伊東陶山、初代諏訪蘇山は近代の京焼を代表する陶工であるし、初代宮川香山は、京都から横浜に出て横浜真葛焼を創始した。現在は京都というより、貿易港として栄えた横浜の戦前の歴史を代表する芸術家として知られている。東京国立博物館所蔵の《褐釉蟹貼付台付鉢》[2] が代表作として知られ、2016年に『没後100年宮川香山展』が東京・大阪・愛知の三か所で開催された。宮川家の本家である宮川香斎家は現在も京都で精力的に活動されている。[3]
今回はその5人の中でも、1893年(明治26)に帝室技芸員になった三代清風與平(せいふうよへい:1851-1914)について少し詳しく紹介したい。陶芸界からの初の帝室技芸員であり、近代の京焼の発展に重要な役割を果たしたにも関わらず、悲しいことに全国的にはきわめて知名度が低いからだ。
実は京焼の陶家で、元々の出身地が京都という家は少ない。現在の東京のように、江戸時代の京都には全国各地から優秀な人材が集まってくる場所だった。その例にもれず、三代清風与平は現在の兵庫県姫路市大塩町出身である。
名は岡田平橘(おかだへいきち)といい、父の岡田良平(?~1878)は代々続く醤油醸造業を営み、儒者として、そして円山派の花鳥画の腕でも知られる人物だったという。
平橘は子供の頃から絵が好きで絵師になることを希望した。
そこで、大阪で文人画家として頭角をあらわしていた田能村小虎(たのむらしょうこ:1814-1907、後の田能村直入)に弟子入りすることになった。「京焼と煎茶」の回にも書いたが、田能村小虎といえば、大阪の桜宮で青湾茶会という大煎茶会を主催したことで知られる文人画家である。京阪地方で花開いていた煎茶や文人文化の中心で絵画を学ぶだけではなく、煎茶道具の名品に接したことだろう。後に煎茶道具の制作は彼の活動の一つの柱となるが、その素養を当時最高の環境で養ったといえるのである。
大阪で修業して2年が経ったころ、大病を患った平橘は療養のために大塩に戻った。春になり病気は完治したが、両親は病の再発を恐れて大阪に戻りたいという彼の願いを聞き入れない。
そんな時、京都と大塩を行き来する陶磁器商が岡田家を訪れ、京都の清風家が、絵や陶器の好な子を養子にしたいと望んでいるという。
そうして平橘は時代が明治にかわる2年前(1866)の夏、上京し清風家に養子に入ったのである。
清風家は江戸時代の終わり頃に開業した清水坂の陶家である。初代は金沢に生まれ、文政年間に京都の有名陶工である仁阿弥道八(1783-1855)に弟子入りした。後にその才能を認められ独立を許されて初代清風與平を名乗る。
師の仁阿弥道八から名付けられたと思われる名「清風」とは、唐の詩人 盧同(ろどう:?-835)の「茶歌」の一節「七椀喫不得也唯覚両腋習習清風生」に由来している。盧同が友人から新茶を貰い、それを淹れて一碗目から飲み進めると、様々な変化が体におこるという内容である。六碗を飲み終わると両腋から習習(シューシュー)と清風が出て、その風に乗って仙人の住むという蓬莱山に飛んでいくという結末。
腋から風が出て飛んでいく光景を想像するとなかなかシュールだが、この「茶歌」は日本の煎茶文化の根幹であり、それを象徴するのが「清風」なのである。そこから名付けられていることからも分かるように、清風家はその創業時から、当時の煎茶文化の流行を背景とした煎茶道具を専門とする陶家であった。
陶磁器に絵付けをする画工として修業を始めた平橘は、自主的に素材の準備から窯焚きに至るまでの経験を積み、6年程で陶器製造の全ての工程を習得するまでになったという。
この努力を認めた二代清風は、平橘の独立を認めることとした。
この独立から約15年間の彼が三代清風与平を名乗るまでの経緯は複雑なので割愛するが、この間に新開清山→清風靖山(せいふうせいざん)→三代清風與平(号:晟山(せいざん))と名前が変わる。
詳細について興味がおありの方は以前詳しく書いたことがあるのでそちらを見ていただきたい。[4]
そこからの清風與平の活躍は驚くべきものだ。[5]
当時の技術ではまだ難しかった様々な色を発色する釉薬を国産の材料だけでつくり出し「百花錦」と名付けた。他にも「太白磁」は温かみのある象牙色の白磁、穏やかな緑色をたたえる「秘色釉」という青磁という具合に次々と新しい技術・釉薬を発表。
国内外の博覧会・展覧会で受賞を続けた。1890年(明治23)の第三回内国勧業博覧会で妙技一等賞を受賞したことで全国に名前を知られるようになる。このことが評価されたのだろうが、1893年(明治26)に陶工として初の、それも四十代前半で帝室技芸員となる。その2年後には京都の陶磁器業の発展に貢献したことに対して、これも陶工として史上初の緑綬褒章を受章している。
そして清風の名は日本陶磁器に注目が集まっていた欧米にも万国博覧会への出品を通じて広がった。東京国立博物館に所蔵されている《白磁蝶牡丹文大壺》はシカゴ万国博覧会の受賞作品として知られており、明治時代の京焼で初めて重要文化財に指定された。
当時の彼の作品への注目を表すかのように、イギリスの大英博物館には約20点[6]、アメリカのボストン美術館には12点[7]、珍しいところではミシガン大学美術館に36点[8]など、各国の博物館・美術館に三代清風與平の作品は所蔵されているのである。
これだけ評価をされた三代清風与平であるが、国内で知られている作品数は多いとは言えない。近年、近代陶磁の研究が進み、住友コレクションをはじめとする個人コレクションに優品が多く存在することが知られるようになった。
しかし、宮内庁や東京国立博物館といった以前から知られている作品を含めても、その数はまだまだ少ない。もしも、お宅に「清風」や「大日本清風製」という銘が入った作品がおありの方は是非ご連絡いただければと思う。
[1] http://www.nihonkogeikai.or.jp/kokuho?bunya=1&honor=kokuhou&keyword=&page_num=1
[2] http://www.emuseum.jp/detail/100519/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=7&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=9&num=4
[3] http://www.makuzu-yaki.jp/
[4]前崎信也編『没後100年 大塩が生んだ京焼の名工 三代清風与平』 (株)キャッチボール、2014年、前﨑信也「帝室技芸員としての三代清風与平」『近代陶磁』17号, pp7-18
[5] 三代清風與平の陶芸家としての経歴は以下の文献に詳しい。中ノ堂一信「三代清風與平の陶芸」(吉田耕三他『現代日本の陶芸 第一巻 現代陶芸のあけぼの』講談社、一九八五年、一二五~一二八頁)、中ノ堂一信「三代清風与平」(中ノ堂一信『近代日本の陶芸家』河原書店、一九九七年、五八~六五頁)、岡本隆志「三代清風與平について(一)」(宮内庁三の丸尚蔵館編『三の丸尚蔵館年報・紀要』第一一号、二〇〇四年、四五―五四頁)、岡本隆志「三代清風與平について(二)」(宮内庁三の丸尚蔵館編『三の丸尚蔵館年報・紀要』一二号、二〇〇五年、七七~六三頁)、岡本隆志「三代清風與平について(三)1900年パリ万国博覧会出品作をめぐって」(三の丸尚蔵館編『三の丸尚蔵館年報・紀要』一四号、二〇〇七年、五四~四七頁)
[6] http://www.britishmuseum.org/research/collection_online/search.aspx?searchText=seifu+yohei+III&images=true
[7] http://www.mfa.org/collections/search?search_api_views_fulltext=Seifu%20Yohei%20III&f[0]=field_checkbox%3A1
[8] https://exchange.umma.umich.edu/quick_search/query?q=Seif%C3%BB+Yohei+III&op=Submit
著者 : 前崎信也