第四回 明治時代の外国人にとっての「京焼」

明治時代の外国人にとっての「京焼」

先日のこと女子学生に「京焼と聞いて何を思い出すか」と聞いてみた。すると、皆さすがに陶磁器であるというのはわかったようだが、そこで言葉が詰まってどう答えていいか困ってしまう。仕方ないので、「陶器ですか?それとも磁器ですか?」と尋ねると、皆「磁器」との答え、そして、「きれいな絵が描かれている磁器のイメージです」というのが、一番多い答えだった。おそらく、色絵の磁器を思い浮かべているのだろう。

 

1: 初代伊東陶山《色絵鳳凰文鉢》1917~1920年、個人蔵
1: 初代伊東陶山《色絵鳳凰文鉢》1917~1920年、個人蔵

前回は「京焼とは何か?」という悩ましい問題に私なりに答えてみた。その中で、「京焼」という言葉が一般的に使われるようになったのは戦前・戦後の頃なのでそれほど古い事ではないということをお伝えした。そうすると、明治時代に海外で京都の陶磁器を収集していた外国人にしてみても、当初は「京焼」という区分を持っていたわけではなかったということがわかる。

あらためて述べる必要もないかもしれないが、明治期は欧米諸国で日本陶磁器が蒐集の対象となった。日本の陶磁器を収集する上において、日本国中にあまたある窯を種類分けしなければいけない。そこで、海外では当初は万国博覧会に出品された区分で論じられたようだ。

以前紹介した1875年(明治8)に出版のボウズの『Keramic Art of Japan』(1875年)という本を見てみよう。目次にはその当時、ボウズが理解していた日本陶磁器の勢力図を垣間見ることができる。Hizen(肥前・佐賀県)に始まり、次がSatsuma(薩摩・鹿児島県)、Kaga(加賀・石川県)と続き、Kyoto(京都)が登場するのは四番目である。その次はOwari(尾張・愛知県)で以下はMinor Provinces(地方)となり、Awaji(淡路・淡路島)、Bizen(備前・岡山県)等、23の産地が続く。

肥前が1位となっているのは、有田焼、鍋島焼があり、江戸時代から広くヨーロッパで愛好されているので当然といえば当然である。次にくる薩摩は、いわゆる薩摩焼が輸出で大成功をしていた時のことなので、地位もそれを象徴している。その後に、赤絵金襴手の輸出で台頭してきていた九谷焼の石川県、そして、薩摩焼の人気にあやかった京薩摩 の輸出で成功しはじめていた京都という順番。こうして見ると、当時の欧米人の日本陶磁器に対する格付けがよくわかる。

では、この本の京都に関する記述の中でどのように種類分けされているのかというのも面白い。ボウズは京都の陶磁器を3種類に分類している。それは「楽焼」、「粟田焼」、「磁器」なのである。前回は「楽焼」が江戸時代から明治時代にかけての日本人にとっての「京焼」であったというお話をしたが、明治初期のイギリス人コレクターにとっても「楽焼」こそが「京焼」を代表するものであるとされているのだ。

 

 

京都の陶磁器の代表は楽茶碗

2: 丹山青海《色絵龍文蓋付壺》高34cm、明治前期、個人蔵
2: 丹山青海《色絵龍文蓋付壺》高34cm、明治前期、個人蔵

ここでいう楽焼とは、楽家代々の楽焼に限らず、京都の陶工が制作した楽焼という意味である。数ある日本の陶磁器の中でも、欧米の人々にとってこの楽焼との出会いは印象深いものだっただろう。日本には「茶の儀式 (Tea Ceremony)」という謎の風習があり、そこで使われる道具は極めて高価なものだと紹介されていたからである。ひとつひとつが手で成形された楽焼の容貌は、更に彼らを驚かせた。既に産業革命を果たしていた欧米では、規格化された磁器の大量生産が基本。そこに、技術的には何の変哲もなく、規格化などとはおよそ無縁の楽茶碗が「高価」、それも時に一国一城と変わらない程の価値となると知ったのである。

こうして、欧米で京都の陶磁器について書かれた京焼の章にはまず楽焼が紹介されるようになった。京都府立総合資料館にある明治五年に粟田焼の陶工丹山(たんざん)青海(せいかい) (1813~1886)が著した『陶器辨解』では、二種類の焼物が図解されているが、それは「楽焼」と煎茶用の「急須」であるというのも、「楽焼」が京焼であるとされていたことの証明になるだろう。しかしながら、所々の歴史的な事情があり現在の京焼には楽焼を含めないのが一般的となっている。ただ海外を相手にするのならば、今後は楽焼を前面に出して京焼を売り込むというのはどうかと考えさせられてしまう。

 

 

 

 

清水焼

3: 六代錦光山宗兵衛《色絵草花文蓋付鉢》、明治前期、個人蔵
3: 六代錦光山宗兵衛《色絵草花文蓋付鉢》、明治前期、個人蔵

楽焼の次に語られるのが、粟田焼と磁器である。粟田焼とは京都の粟田口周辺で制作された陶器で、細かくひびの入った釉薬の上に赤、青、緑、金で装飾がされている。磁器とは清水・五条坂地域で生産されていた清水焼のことである。ボウズの時代にはまだ清水焼という言葉が英国まで達して居なかったのだろう。現在、京焼と併用して使われることが多いこの清水焼という言葉。明治時代の外国人はどのように理解していたかを見てみよう。

1875年のこのボウズの京都の陶磁器の種類分けは、1901年に出版されたフランシス・ブリンクリー(1841~1912)の『Japan: Its History Arts and Literature, Volume III Keramic Art』にも受け継がれている。しかし、 ボウズの本から26年も経過しているので、その内容はとても詳しくなっている。特に本の最後に掲載されている全国の陶工の銘印のリストは貴重なものだ。

この本には清水焼の定義とも呼べる一文が掲載されている。直訳するとこうである。

 

4: ブリンクリー『Japan』扉頁
4: ブリンクリー『Japan』扉頁

粟田、岩倉、御菩薩以外の京都の陶磁器は清水焼という範疇に含まれる。これらは清水坂、五条坂という名で知られ、都の東に位置する地域で生産されている。この地域の歴史は個々の作家の記録である。以前はこれらの通りには工場と呼べるものは存在しなかった。そこはただ、多くが小規模で国内向け製品を生産する陶工たちの家がある地域なのである。[i]

 

ここでブリンクリーは清水坂・五条坂には様々なスタイルで活動する小規模の個人作家の集まりだと述べている。この当時の外国人はすでに清水焼とはスタイルを指しているのではなく、ただその地域を指しているにすぎない言葉だとわかっているようだ。

こうして見てみると「京焼」や「清水焼」ということばは、ただ生産した地域を指しているだけの言葉だと分かっていただけたのではないだろうか。簡単に言えば、Made in KyotoやMade in Kiyomizuというただそれだけの事なのである。だからこそ、京焼の歴史は、仁清・乾山・木米など、日本を代表する個人陶工が綺羅星のごとく登場、それぞれの陶工のお話が中心に語られてきたのである。

 

5-1~5-5: 「京焼陶工の落款印章」ブリンクリー『Japan』付録
5-1~5-5: 「京焼陶工の落款印章」ブリンクリー『Japan』付録
5-1~5-5: 「京焼陶工の落款印章」ブリンクリー『Japan』付録
5-1~5-5: 「京焼陶工の落款印章」ブリンクリー『Japan』付録

 

 

 

[i] Captain F. Brinkley, Japan: Its History Arts and Literature, Volume III Keramic Art, J. B. Millet Company: Boston and Tokyo, 1901, p. 209

著者 : 前崎 信也