第五回京焼と煎茶  後編

第5回京焼と煎茶  前編

 

煎茶の大流行

6.	田能村直入題画《急須》高:7.7 cm、田能村直入旧蔵資料、京都市立芸術大学芸術資料館蔵
6. 田能村直入題画《急須》高:7.7 cm、田能村直入旧蔵資料、京都市立芸術大学芸術資料館蔵

 幕末期の関西で煎茶がいかに流行していたかを表す出来事に青湾茶会がある。現在は「桜の通り抜け」で有名な大阪造幣局からほど近い桜宮。
そこで文久2年(1862)、日本の煎茶の祖として知られる売茶翁の百回忌を記念して提唱された茶会が催された。主催したのは後に京都府画学校(京都市立芸術大学の前身)の初代校長となる田能村直入(1814~1907)である。茶席は天・地・人と題された3つの茶会で7席ずつの全21席。それぞれを4、5人が担当するため、おおよそ100名が茶を淹れる。
 結果として会には1200人以上が参加したが、参加できなかった人が数千人もいたのだという。[1] 
 動乱の時代のように思われる幕末期においても、これだけの数の人が大阪で茶会を楽しんでいたとは驚きである。

 流行は関西に限ったことというわけでもなさそうである。1857年2月24日、初代駐日領事のタウンゼント・ハリス(1804~1878)は、下田奉行の井上清直(1809~1868)から接待を受けた。

7.	「第七席 風生」田能村直入編『青湾茶会図録 地』河内屋吉兵衛 他、1862年、提供:国立国会図書館デジタルコレクション
7. 「第七席 風生」田能村直入編『青湾茶会図録 地』河内屋吉兵衛 他、1862年、提供:国立国会図書館デジタルコレクション

その時の様子を日記に以下のように記している。

 「食事が終わると、信濃守[井上]は、私が見たことのない、かわいらしいおもちゃのような茶を淹れる道具を持ち出した。よくできた簡素な木製のケースで、それを開けると、お湯を沸かすための小さなコンロ、ティーポットと二つのカップ、茶の入った容器、ティーポットとカップのためのコースター、茶さじ、水に入れる前に火の上で茶葉を温める興味深い機械を並べた。 そして信濃守は湯を沸かし、茶を計って火で焙り、急須に入れ、沸いた湯をその上に注ぎ入れ、その後、茶碗に注いで私に手渡した。」[2]

 この時使われた煎茶道具一式は食事の後に井上からハリスに贈られ、現在はボストンのピーボディ・エセックス博物館に所蔵されている。
 急須と茶碗は永楽の銘があり、永楽保全の作であると考えられている。[3] 国賓であるハリスをもてなすために、煎茶がふるまわれていることからも、当時の煎茶文化の全国的な流行を知ることができる。
幕末の京都では武家社会の混乱により茶の湯の道具の需要が徐々に衰えたのだが、京阪を中心とする裕福な町人層からの煎茶道具への需要はかわらず続いたようだ。

8.	初代清風與平《染付唐子文水注》個人蔵
8. 初代清風與平《染付唐子文水注》個人蔵

 初代清風与平(1803~1861)、初代清水七兵衛(1818~1891)、初代真葛香斎(1819~1865)など、この頃に一家を創始した京焼陶工の多くも、現存作品から見る限り、その主力製品は煎茶道具だったと言って間違いはない。

 

 

 

明治時代の煎茶道具

9.	三代清風與平《珊瑚釉小花瓶》個人蔵
9. 三代清風與平《珊瑚釉小花瓶》個人蔵

 十五代将軍徳川慶喜から明治天皇へ政権を返上した大政奉還(1868)の後、京都の工芸界は多くの困難に直面したと言われている。明治天皇と公家の東京への移住や、廃藩置県による武家の没落、廃仏毀釈による寺社仏閣の困窮により、多くの工芸品に対する需要が失われた。しかし、京阪を中心とする裕福な町人層からの煎茶道具への需要は止まることはなく、煎茶の人気は変わらず続いたようだ。

 明治期に清水・五条坂で活躍した陶工は皆、煎茶の道具を制作している。では、江戸時代との違いは何かといえば、それは優れた中国清朝の磁器に接する機会が増えたということだろう。江戸時代の日本の煎茶道具がお手本としたのは明代・清代の民窯、つまり中国の一般市場に向けて作られたものであり、質が良いものではなかった。それが明治時代になり、海外との自由な交易の道が開かれる。その時中国は清朝末期の混乱の時代であり、お金さえあれば皇帝が使っていたような歴史的作品を手にすることさえできるようになっていた。
 つまり、写すことのできるお手本の種類が格段に増えたのである。

10.	初代三浦竹泉《釉下彩蝶牡丹文花瓶》David Hyatt King Collection
10. 初代三浦竹泉《釉下彩蝶牡丹文花瓶》David Hyatt King Collection

 更に、欧米から新しい技術も導入された。明治初期にはドイツから輸入したエナメル顔料でこれまでになかった多彩な表現が可能になった。皇室の御用品を制作したとされる幹山伝七(1821~1890)の作品は当時の色絵磁器の最高峰とされており、三代清水六兵衛らもカラフルな絵付けを施した作品を遺している。
 このように、明治時代になると清朝の中国磁器を手本とした作品や、新たな技術を使ったさまざまな色絵をほどこした作品が増える。その中から、三代清風与平(1851-1914)や初代三浦竹泉(1853-1915)ら、新奇な煎茶道具の制作で有名になる陶工も生まれていくのである。

 

海外コレクション所蔵の煎茶道具

 海外の陶磁器コレクションはちょうど煎茶が流行していた時代に収集されたものが少なくない。そういうわけで、実は海外の美術館・博物館にも多くの煎茶道具が収蔵されている。しかし、そんな作品が展示されているのを見ることは珍しい。
これはひとえに日本人が、江戸時代の後期から明治時代にかけての煎茶文化の大切さを発信してこなかったことが原因といえる。その結果として、この時期の京焼は「よくわからないもの」であるという印象を生み、歴史的な評価を低いものとし続ける理由となってきた。京焼、特に清水・五条坂の歴史を考える上で、煎茶の流行とその道具の生産が果たした役割。それが今後、日本陶磁史における大切な歴史として広まっていくことを願ってやまない。

 

[1] 田能村直入編『青湾茶会図録』1863年

[2] Harris, Townsend. The Complete Journal of Townsend Harris: First American Consul and Minister to Japan, Revised Edition. Rutland, Vermont; Tokyo, Charles E. Tuttle Company, 1959, 307-308. 日本語訳は筆者による。

[3] 佃一可「ハリスに送った茶道具発見―幕末の日米交渉の証人」朝日新聞夕刊、2016年9月12日、14面。

著者 : 前崎信也