第一回 京焼の今

忘れられた明治の京焼

1.初代清風與平「色絵桜花文蓋物」、江戸時代後期(1828-57)、高10.5 cm、最大径 13.8 cm、高台径 6.3 cm、個人蔵
1.初代清風與平「色絵桜花文蓋物」、江戸時代後期(1828-57)、高10.5 cm、最大径 13.8 cm、高台径 6.3 cm、個人蔵

京都で造られたやきもののことを「京焼(きょうやき)」という。江戸時代以降、高級な茶道具や食器を中心とし、みやこの生活を彩ったやきもの。「京焼」はかつて人々から羨望のまなざしをもって使われた特別な言葉だった。しかし、今の若者はその言葉を聞いてもピンとはこないようだ。京焼を代表する陶工として有名な野々村仁清(生没年未詳)や尾形乾山(1663-1743)という名前を出してみたところで、大抵は「聞いたことはあります」というような、つれない返事がかえってくるだけである。

3年半の間イギリスで日本陶磁器の研究をしていた私にとって、多くの日本人が京焼を知らないことは驚きである。日本の明治時代にあたる19世紀後半の欧米では、日本の陶磁器が人気を集めた。中でも京都は日本を代表する陶磁器の産地として紹介され、京焼は積極的な蒐集の対象になっていた。その結果、イギリスの大英博物館、フランスのギメ美術館、アメリカのボストン美術館など、世界を代表する欧米の多くの博物館には相当な数の京焼が収蔵されているのである。

太平洋戦争によって一旦は下火になった日本陶磁器の収集は、1980年代頃から改めて注目され、外国人コレクターは近年増加傾向にある。陶磁器研究者という職業柄、彼らと話をする機会がよくあるのだが、そんな時に彼らが口を揃えて言うのは「明治の京焼は日本での評価が低すぎる」ということ。そして、「京都のどこに行けば明治の京焼を見ることができるのか」という質問である。

明治の京焼の情報は少ない。1昭和54年(1979)に京都府立総合資料館で開催された『明治の京焼』展以来、このテーマに注目した展覧会はない。なぜこれほど文化に理解のある京都で明治の京焼はこれほどまでに無視されてきたのだろうか。この問題の一因に、日本の博物館行政と京都の文化行政がある。京都には京都国立博物館と京都国立近代美術館というふたつの国立の研究機関が存在する。研究対象の住み分けがあり、基本的に博物館は明治初期までを、近代美術館は明治晩期からを展示や研究の主な対象としている。こうして、日本文化の情報発信の中心である国立博物館では、明治時代をひとまとまりとして発信することがなかなかに難しいのである。

愛知県や岐阜県、佐賀県や兵庫県など、陶磁器産業が盛んな地域には専門の美術館・博物館があり、古代から現代につながる陶磁史の研究発信を続けている。しかし、京都にはそういった施設も存在しない。これは文化遺産があまりにも多すぎるという、京都特有の嬉しくも悩ましい問題に起因している。これまでの京都の文化政策は、やはりロマンを感じさせられる平安時代から室町時代が中心だ。一方、京焼が繁栄した江戸から明治はあたらしすぎる。そして、工芸の分野でも染織や金工、漆などあらゆる分野の製品の産地である京都だからこそ、陶磁器だけをえこひいきするわけにはいかないということなのだろう。こうして、かつて国内でも海外でも人気を博した京焼は、さみしいことに次代を担う若者達に知られる機会が圧倒的に少ない。海外コレクターから注目され、京都文化発信のためのツールとして高い可能性をもっているにもかかわらずである。

京都陶磁器協会

2.清水七兵衛「染付山水図花瓶」幕末~明治前期、高さ29.6 cm、最大径18.0cm、David Hyatt King Collection
2.清水七兵衛「染付山水図花瓶」幕末~明治前期、高さ29.6 cm、最大径18.0cm、David Hyatt King Collection

明治の京焼についての全6回のコラムを依頼されたのは一昨年のことだ。迷うことなくふたつ返事でお受けした訳であるが、それには理由がある。京都陶磁器協会の歴史を遡ると明治19年(1886)に設立された京都陶磁器商工組合にたどりつく。2組合創設の背景は、明治14年から17年迄続いた国内外の不況で京焼が大打撃を受けたことだった。この4年間の総生産額はそれまでの半額近くにまで落ち込み、多くの陶家が廃業に追い込まれたという。3そこで地域内の製陶家、陶画家、問屋が一体となって京都の窯業の新興を図り、組合が設立されたのである。

近年、京焼に限らず、あらゆる工芸の分野でその存続が危ぶまれるような危機的状態に陥っている。バブル崩壊やリーマンショック後の不況を考慮すれば、明治19年の状況と似てはいないだろうか。ならば、日本全国はもとより、世界に改めて京焼を広めて行くための発信の拠点として京都陶磁器協会ほどふさわしい場はないだろう。

 

 

京焼、海を渡る

3.七代錦光山宗兵衛、錦光山和雄氏所蔵
3.七代錦光山宗兵衛、錦光山和雄氏所蔵

このコラムでは、明治の京焼について書こうと思う。なぜなら、京都の文化を海外に発進するために、これほどふさわしい素材は他に見当たらないからだ。先程も述べたように、海外には既に相当な数の京焼が渡っている。例えば、明治時代の京焼を代表する陶業家として知られる七代錦光山宗兵衛(1868-1927)は、最盛期に年間30万個の陶器を生産し、その大半を輸出していた。そしてその一部は珍重され、現在も明治時代の日本文化を象徴するもののひとつとして博物館や美術館で展示されている。

 

 

 

 

4.ジェームス・ロード・ボウズ
4.ジェームス・ロード・ボウズ

19世紀後半、アメリカやヨーロッパで日本陶磁器が語られるときには、有田や瀬戸、九谷や薩摩と並んで京都の陶磁器が必ず紹介された。例えば、イギリスを代表する陶磁器コレクターであったジェームス・ロード・ボウズ James Lord Bowes(1834-1899)(→Wikipedia:James Lord Bowes)は、その著書の中で京焼の特長について述べている。彼によると、京都の陶工は皆「一流」であり、時代の趣味に沿った高級で特別な製品を生産しているとする。そして、日本政府が出品をした1873年のウィーン万博を例に京焼の日本での評価の高さを説明する。有田や瀬戸の同じような製品と比べて、京焼には4倍もの値段がつけられていたというのである。4

 

 

5.ボウズKeramic Art of Japan (London Henry Sotheran & Co., 1881) 表紙
5.ボウズKeramic Art of Japan (London Henry Sotheran & Co., 1881) 表紙
6.ボウズKeramic Art of Japan p.199
6.ボウズKeramic Art of Japan p.199
7.ボウズKeramic Art of Japan 京焼挿図
7.ボウズKeramic Art of Japan 京焼挿図

 

 

 

 

 

 



当時の欧米では、異国の文物を収集して展示する博物館が流行していた。彼らからしてみれば、まさに極東の小国である日本の文物は、好奇心をくすぐる最高の蒐集対象だ。安政5年(1858)の開港まで、欧米人が知る事のできた日本の情報といえば、長崎の出島に医師として勤務したケンペル(1651-1716)の『日本誌』(1727)や、シーボルト(1796-1866)の『日本』(1832-82)といった書物のみ。開国後、徐々に日本の情報が明らかになっていくと、彼らが「Mikado」と呼ぶ歴代の天皇が長年住した「Miyako」で生産される、日本最高の陶磁器に注目が集まるのは当然のことだったのである。

(続く)


1.明治の京焼に関する研究として、中ノ堂一信氏による諸研究がある。本コラムの内容も中ノ堂氏の研究に拠るところが大きい。中ノ堂一信『近代日本の陶芸家』(河原書店、1997年)など。

2.京都陶磁器商工組合は、明治33年に京都陶磁器商工同業組合となる。そして、昭和9年(1934)に商工分離されて京都陶磁器工業組合となった。商工組合はこれをうけて昭和11年(1936)に廃止されている。京都陶磁器工業組合は、戦時下の京都陶磁器統制組合を経て、昭和28年(1953)に現在の京都陶磁器協会となった。

3.藤岡幸二編『京焼百年の歩み』(京都陶磁器協会、1962年)付表一統計表、第3表1及び2。黒田譲『名家歴訪録 上』(1901年)332頁。

4.George Ashdown Audsley and James Lord Bowes, Ceramic Art of Japan, London: Henry Sotheran & Co., 1881, p. 119 and 125.

 

著者 : 前﨑信也