寺尾智文

2014.08.07 更新

  「昔に作られた良い物を見て、そこから学び取り、自分の作品に生かすことができるかというのが、私の一貫した作品造りのテーマです。」と、寺尾さんは熱く語られる。
寺尾さんは高校卒業後の1年後、京都府立陶工高等技術専門校の図案科に入られ1年間、陶磁器の絵付を学ばれた。訓練校修了後は、寺尾さんが生まれ育った地元の窯元二軒に、それぞれ4年間ずつ、染付の絵付職人として計8年、従事された。
「独立後も、当初は染付の仕事を主にやっていましたが、染付だけに限定すると、絵の題材も限られてくるので、絵付の技法も、絵の題材も染付以外の物に新たな分野を求めるようになりました。」
染付の代表的な模様には祥瑞があり、絵の題材としての代表的なものは山水図などがあるが、絵付技法を染付に限定すると、どうしても、それらの題材に限られてしまうということがある。自ら描きたい絵があること以外に、染付の作品となると、市場の方からそういう題材の物が求められるということがあるからだ。
そういったジレンマに悩んだ結果、寺尾さんが自分自身の作品のテーマとして、巡り会ったのが「シルクロード」であった。

 

 

  「もともと、ペルシャにまつわるものが好きでしたし、シルクロードを題材にと考えついたとき、インスピレーションを受けたと思いました。それから、シルクロードをテーマに染付の呉須の絵の具だけでなく、上絵の具も使った絵を作品に描くようになりました。」
インスピレーションを受けたからといっても、一朝一夕に、すぐにでもシルクロードの絵を作品に描けるものではない。染付職人として8年間の経験で培われた絵付の技術、寺尾さんご自身が持っておられる天性の絵心とでも言うのか、絵付師としての確立された技術がないと、作品に生かせるもではないだろう。寺尾さんは、陶磁器の絵付だけでなく、普通に紙に描かれる絵も実に、見事な絵を描かれる。
寺尾さんが絵を描かれた、掛け軸などを見せていただいたが、それらを見ると焼き物の絵付師というだけではない。寺尾さんは正に、絵心を持った絵師なのだと痛感する。
作品を収納する木箱にも、寺尾さんは絵を施されることがあるが、こうなると、焼き物の作品だけでなく、それを入れた木箱も含めて、寺尾さんのすばらしい作品となる。
寺尾さんによって、シルクロードをテーマに描かれた作品は、今までにない、他にもない作品として、確固たる高い評価を各方面から得ている。
「あるとき、足立美術館で開催していた北大路魯山人作品展を一人で観に行った時があったのですが、一人だけで観に行ったので、何時間もかけて、何回も繰り返し魯山人の作品をじっくり観たんです。そのとき、魯山人作品のバリエーションの豊富さにまず、驚きましたし、こんなに様々な作品を魯山人は残しているのに、どれを見てもそのすばらしさに感動し、なんで、こんなにも良い物が作れたのだろうという思いに辿り着きました。それで、魯山人が書いた本をいくつも読みあさってみると、魯山人は、自分が良いと思ったあらゆる骨董を買い集めていたらしく、それらの骨董を時間があればいつも、何時間でも眺めていたらしいです。どうやら、魯山人はそうやって眺めていた骨董から得たものを作品に生かしていたようです。」

 

 

 魯山人の作品に心打たれた寺尾さんは、昔に作られた良い物から学び、自分の作品に生かすことを、この頃から強くご自身の作品造りのテーマとして持たれるようになったそうだ。
「昔の良い物から学び、それを作品に生かそうとした陶磁器の名匠は魯山人だけではありません。濱田庄司や荒川豊三、河井寬次郎などの昭和を代表する名工も同じことをしていました。私もまた、そういった先人から倣おうという思いです。」
江戸時代前期に、京焼の祖でもある野々村仁清や尾形乾山などの琳派と呼ばれる名工が現れる。

 

 

 「仁清や乾山など、彼らの作品は、それまでにはなかった新たなオリジナリティーを作り出していたものです。その凄さにまず脱帽します。そして、それらの作品を見て、そこから学び取り、自分なりに自身の作品に生かしたものを作ろうとしてやってみると、その過程でまた、なるほど、こういうことがあったのかというような発見がいくつもあるんです。そうやって一つ一つ、自分のものにしていくという感じです。」
寺尾さんのこの話を聞いたとき、私は高校時代の恩師の言葉を思い出した。「自分がすぐさま理解できない色々な事象に出くわしたとき、それがわからないからといって、考えることをやめてはいけません。一番、大切なのは、なんでそうなったのかということを自分で考えることなのです。」という言葉だ。

 

 

 私は、この言葉が今でも強く残っている。昔の良いものと向き合い、とりあえずは、模倣して作るだけでも得られるものは必ずあるはずだ。同じ物になるようにと作っている過程で、なんでこういう作品になったのかということを考えることで、見えてくるものがあるのだと思う。
寺尾さんは、時間があると骨董店に足を運び、気に入ったものでしかも、自身の作品に役立ちそうなものを見つけると、購入して収集もされているらしい。
「骨董店の店主から、昔の茶盌のデザインだけをそのままそっくり写して作ったようなものは必要とされなくなっていると言われます。昔の良いものから吸収したものをベースに、なにか自分なりのものをプラスして、今までにない良品を作らないと勝負になりません。でも、このなにかをプラスするということが、一番難しいのですがね。」
言われるとおり、作り手にすれば、自分なりの何かをプラスという作業が正に、作り手としての仕事そのものなのだが、これが難しい。しかし、これを怠っては、作り手としての存在意義をも否定することになってしまうのかもしれない。

 

 

  「昔の良いものからデザインだけでなく、作品の雰囲気と作風を学び、自分なりの個性をプラスしていく。このことを怠らずに向き合っていく限り、焼き物の世界においても、この先の展望は見いだせると思います。実際に、そういう作品を求めている方は大勢いますから。」
陶磁器が売れなくなっている現在、廃業を余儀なくされる陶磁器事業者は少なくない。しかしながら、寺尾さんが言われるように、過去の良品に真摯に向き合い、個性を見出せる作品造りを怠らなければ、将来においても、陶業界で活動を続けられるに違いない。ある意味、今は陶業界においても、淘汰の時代なのかもしれない。
寺尾さんは、定期的に大丸百貨店で個展、香川県高松市にある興願寺というお寺で個展をされている。
「京都のようにお寺がたくさんある土地柄ではないからでしょうか、個展をさせていただいている高松市の興願寺は、地域の方々にとって存在が大きくて、文化の発信地であり、心のよりどころとでも言えるお寺なのです、ですので、地域の人が気軽にお寺に出入りされています。お寺と地域の密着度が高いとでも言いましょうか。個展開催の間は、お寺に泊めてくださって、食事も用意してくださいますので、とてもありがたいです。個展の前になると、お寺の方から作品に関して、色々な意見をいただきます。」
寺尾さんは、その人柄も含めて、作品と共に愛される存在なのだろうと感じる。焼き物に取り組むその真摯な仕事ぶりが、これからも寺尾さんの作品に表現されていくのだろう。

 

 

 

寺尾陶象

1955年 京都に生まれる
1975年 京都府立陶工高等技術専門校修了
吉田瑞泉窯にて修業
1979年 大野瑞昭窯にて修業
長期技術者講座日本画作品展知事賞受賞
1981年・1985年 日本南画院秀作賞受賞
1983年 京都東山に陶象窯を開窯する
1990年 淡交社主催「’90明日への茶道美術公募展」入選 御祝いに裏千家鵬雲斎前御家元より御箱書を頂戴する
1992年 淡交社主催「’92淡交社ビエンナーレ茶道美術展」入選
1994年 大阪朝日ギャラリーにて個展開催
1996年 京焼・清水焼伝統工芸士に認定される
1998年~2002年・2004年 京焼・清水焼展受賞
2006年~2010年・2012年 京焼・清水焼展受賞
2000年・2003年・2006年 大丸京都店にて個展開催
2009年・2013年 大丸京都店にて個展開催
2001年 横浜高島屋・日本橋高島屋にて個展開催
2002年・2005年 大丸神戸店にて個展開催
2004年 東急本店にて個展開催
2005年 広島福屋八丁堀店にて個展開催
2008年 大丸東京店にて個展開催
2010年・2012年 高松市興願寺にて個展開催

陶象窯 寺尾智文

〒606-0953 京都市東山区今熊野南日吉町44-1
TEL/FAX 075-541-3888

 

 

 

 

 

 

 

小野多美枝

2014.05.13 更新

 幕末から明治初期にかけて、当時の京都で京薩摩なる焼き物が焼かれていた時代があったのをご存じだろうか。その京薩摩を現代に蘇らせるべく、小野多美枝さんは作陶を続けておられる。
京薩摩の元となった薩摩焼は、19世紀後半の1867年に開催されたパリ万博や1873年にオーストリア、当時のハンガリー帝国の首都ウィーンで開かれた国際博覧会で日本の出品物の一つとして、出品されたのをきっかけに、その豪華絢爛さと細密さで、当時のヨーロッパの人々に爆発的な人気を得て、ヨーロッパにおけるジャポニズム振興の一役を担ったといえる。

京薩摩は、当時ヨーロッパでブームとなっていた薩摩焼を、京都で模倣し、作っていたものであるが、薩摩のものよりも、より伝統的な日本のデザインを意識して焼かれていた、都の華麗さが加味されたものと言えるものであった。
そんな京薩摩の作陶をされている小野さんは、学生時代は陶器そのものには興味がなかったという。
「私は、高校は商業科に通っていました。でも、商業科の生徒なのに自分は事務仕事が性に合わないと思うようになって・・、元々、絵を描くことが好きでしたから、高校の美術の先生に絵を描く仕事がしたいと相談したら、先生のお知り合いにたまたま窯元の方がおられて、その窯元に就職することになったんです。」と、小野さんは、焼き物の世界に入られたいきさつを言われる。

 

 

 

 

 「念願の絵を描く仕事で窯元に入ったのですが、この窯元でやっている仕事は薄々ながら、真正なる伝統工芸ではないと思うようになりました。それまで、伝統工芸とはなにかということも知らなかったのに不思議ですよね、もっと古いものをやりたいという気持ちに変わっていったのです。」
焼き物の世界に入られた初期の頃から、小野さんは、真の意味での伝統工芸的なもの、昔に作られた工芸的に崇高なものへのこだわりを持っておられたのかもしれない。
「そのような思いから、違う窯元へ移りました。しかし、その窯元では、また、工業的な技術による焼き物も多く作られていて、伝統工芸を求めていた私の思いからずれていました。そんなとき、初めて京都府陶工職業訓練校の存在を知ったのです。」
高校の商業科を卒業してすぐに、全くの畑違いの焼き物の世界に入り、絵付けの仕事を経験した小野さんだったが、真の伝統工芸を求める思いから、窯元を辞めて陶芸の絵付けの基本を改めて学ぶため陶工訓練校に入校された。

「学校を出てからすぐに陶工訓練校に入ったのではなく、窯元で絵付けの経験があってから訓練校の図案科に入りましたから、教えてもらうこと一つ一つが経験の基盤上にあったので吸収が早かったですね。今から思えば、それが良かったと思います。」
陶工訓練校の図案科では、染め付けの修学をなされたことから、訓練校修了後は、染め付けを専門とする窯元に、絵付師として就業されることになる。

 

 

 清水焼の染め付けの窯元で数年、絵付けの職人として陶業に就かれ、その後、独立されて、個人として絵付けの仕事を請け負われていたころ、友人の誘いで、京都府南丹市にある「TASK・京都伝統工芸大学校」で絵付けの講師をされるようになった。
「その頃はまだ、学校も開設したばかりだったので、陶芸の絵付けの講師は私一人で、1年間だけ染め付けを教えていたのですが、2年目、3年目になった時、学生が一気に増えましたので、染め付けだけでなく色絵も教えてほしいとの要望が学校から出るようになりました。それまで私は、染め付けの専門だったので、それこそ、生徒と共に学ぶような感じで、色絵のほうも勉強していきました。」
染め付けを専門とされていた頃は、染め付けこそ陶磁器の絵付けの王道であって、筆一本、ゴスの絵の具一色で極めていくというような、考えがあったと小野さんは言われる。だが、運命に導かれるように小野さんは、色絵の世界へも入ることとなり、やがて、その色絵を極める人生を歩まれることになるのである。

 

 

 

 

  「学校からの要望で色絵を始めるようになりましたが、正直なところ始めの頃は、あまり色絵には興味がありませんでした。でも、40歳を過ぎた頃に九谷焼の“赤絵細描”というものを目にする機会があったんです。それを見たときに、それまで興味がなかった色絵に心惹かれるようになりました。もともと、細かい手仕事が好きだったということもありましたし、九谷焼の細かな色絵のものには感銘を受けました。それで、赤絵を1年間ほど勉強したのです。」

そして、九谷焼の色絵に心動かされた小野さんは、程なくして運命的な焼き物との出会をされることになる。

「九谷焼に感銘を受け、赤絵を描く日々を過ごしていましたが、赤一色ということでは同じ一色しか使わない染め付けと似たようなところがありますし、一色では物足りないと思うようになっていた頃、清水三年坂美術館で「まぼろしの京薩摩展」という展覧会で初めて、京薩摩の作品を目にしたんです。そのときに、一瞬にして私の一生の仕事が決まったと感じました。」
これこそ正に、運命的な出会いとでもいうのだろうか、あるいは、出会うべくして出会ったとでもいうのであろうか、小野さんが人生をかけて極める焼き物が京薩摩であることが、このとき決定したのだ。

 

 

 

 その小野さんが作られる京薩摩の作品は、崇高にして細密、一見して人が手描きして施された絵だとは思えないような、非常に緻密に描き込まれた絵で、いつまでも見入ってしまうような、心を引き込まれるような絵である。
「初めは、それこそ絵の具もわからなければ、使われている筆もわからない、京薩摩という焼き物の絵がどうやって描かれたものかが全くわかりませんでした。でも、作りたいという気持ちを強く持って続けていくことが、大切だと思うのです。京薩摩に関して、私は師匠について修行したとか、だれかに教えてもらったとかということはありません。すべて独学です。強いて言うならば、師匠は昔の京薩摩の焼き物です。昔に作られた京薩摩の焼き物を見て、こうすればできるだろうというような、試行錯誤で、一つ一つ解明しながら先に進んでいるようなやり方です。」
かつて京都で盛んに作られていたにもかかわらず、今では火が消えたように、手がける窯元が皆無な京薩摩である。そんな事情もあったからだろうか、独学とは言われるものの、小野さんの京薩摩の作品は、最初の発表時点ですぐさま問屋、陶器販売店等の注目も集めたようだ。

 

 

 小野さんが、京薩摩を作られるようになってから、おおよそ12,3年が経つそうだが、初期の頃の作品に比べて、より緻密な絵のものに進化を続けている。
お手本とされている昔に焼かれた京薩摩の焼き物に限りなく近づいているのではないだろうか。いや、むしろ、昔のものを超えているかもしれない。
問屋、陶器販売店等で取り扱われている小野さんの作品は、その9割近くが、外国人の購入者で占められているそうだ。
「19世紀末にヨーロッパで興ったジャポニズムで根付いた、日本の焼き物といえば“薩摩焼”というイメージが、今でもあるのでしょうね。日本に観光で来て、日本の焼き物を購入したいとなれば、京薩摩の焼き物を選ばれるのでしょう。これぞ、日本の焼き物と感じられるのではないでしょうか。」
確かに、小野さんが言われるように日本の焼き物イコール薩摩焼というイメージが、小野さんの京薩摩購入に向かわせることもあるだろうが、それだけではないという気もする。焼き物を生業とする同業の者の目から見ても、小野さんの作品には非常に強いインパクトを受ける。熟練した絵付け職人でもすぐさま同じ絵を描けと言われても到底、描けないであろうと思われるような、非常に高度な技術で施された絵付け、洗練されたデザイン、周到に計算されたような器のフォルムなど、作品として最高峰レベルといっても過言ではない。外国人も、そのハイレベルな小野さんの作品に心底、納得するからこそ、購入するのだと思う。

 

 

 「何年もずっと一人でやってきましたが、展覧会をやりながら注文のものも作ってとなると、どうしても手が足りなくなるので、京都伝統工芸大学校での教え子や、私の作品を見て弟子入りのような形で工房に来るようになった人で、絵付け師として私を手伝ってくれる人が一人ずつ増えて今では私を含めて4人になりました。昨年までは「空女(くうにょ)工房」としてやっていましたが、今年に入ってからは、「株式会社 空女」としてやっています。」
焼き物を志す者にとっても、小野さんの作品には心惹かれるものがある。作品から溢れ出るような魅力を感じる。小野さんの作品は、問屋、陶器販売店等に納品されるものであっても、一つ一つ違うデザインの絵で、新たなものを納品されているそうだ。例え、受注であっても、この品物と同じものを作ってくれというような、既存の見本通りのものを作る量産ではない。いわゆる、“おまかせ”なのである。次に、どんな作品ができあがってくるのかを皆が楽しみに待つのだ。
これからも小野さんは、より京薩摩を極めて行かれることに違いない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

空女/Cu-nyo

 

 

代表:小野多美枝 京焼・清水焼 伝統工芸士

京都生まれ

 

 

1972年 清水焼窯元にて絵付け職人として勤める
1976年 京都府立陶工高等技術専門校 卒業
1996年 京都伝統工芸大学校 絵付け講師に就任
2011年 NHK「美の壺」出演
2012年 京都美術工芸大学 絵付け講師に就任

独自で京薩摩の技法を研究、現在も復興に挑み続けている。

 

『京薩摩』とは、

明治初期から大正期にかけてわずか数十年の間だけ花開いた京都の焼き物。

輸出用に作られその華麗さ精巧を極めた職人技で多くの欧米人を虜にしました。

その技術は現在に殆ど伝えられておらず幻の器とも呼ばれます。

 

 

『華薩摩』とは、

空女オリジナルの名称、磁器に描いたものを「華薩摩」

陶器に描いたものを「京薩摩」と呼んでいます。

 

株式会社 空女

〒612-8081

京都市伏見区新町10丁目371番地

TEL:075-623-1738

E-mail:ono@kyoto.zaq.ne.jp

 

 

 

 

 

笹谷 博

2014.02.18 更新

ハイグレードなオーディオ装置からジャズが流れる工房で、作陶をされる笹谷博さんは学生時代、電子工学の勉強をされていたという、ユニークな経歴をお持ちだ。

「こういうオーディオや電気関係の仕事をしたいと学生時代は考えていました。でも、ちょうどその頃、父親が窯元として独立したので、その仕事を手伝おうという気持ちに代わったんです。」

笹谷さんは、工業高校の電子工業科を卒業されてすぐに、京都府陶工訓練校の図案科に入られ、絵付の技術を学ばれた。その後、京都市工業試験場の技術養成所を卒業され、陶業に就かれている。

20歳になられた時、力試しにと初めて出品した京展や工美展で入選されている。
その頃、民芸ブームの延長でクラフト運動が起こっていた。
当時、京都市も力を入れていた「京都クラフトセンター」には、いろいろな分野の物作りの人たちが、今までにないものを作ろうという気持ちを持って集結していた。
笹谷さんは、その考えに賛同してクラフトセンターに参加され、作り手としてスタートしたと言われる。

 

 

その頃、京都市内の窯元が、京都府宇治市炭山地区に移り始め、組合としては、今は解散した(協)炭山工芸村が最初に出来、続いて(協)京焼炭山、そして三番目の組合である(協)炭山陶芸のメンバーとして炭山に工房を移された。

「当初は、父親がロクロをして、私が絵を付けるという二人三脚で仕事していましたが、私が30歳の時に父親が急逝し、にわかに、私一人で、窯元の仕事のすべての行程をやらないといけなくなったんです。」

若くして父親を亡くされ、窯元としての仕事の全てを一人でこなさなければいけなくなった笹谷さんは、ロクロだけで無く、手捻りの技法や型成形の器に手を加えることで、器を作り出されるようになる。

 

 

 

笹谷さんは、工業高校のご出身で、学生時代は電子工学の勉強をされていたが、部活は美術クラブに入られていて、油絵やデッサンを勉強されたそうだ。学校での勉強を通して、工業デザイン的考え方があり、物作りということでは、クラフト的な感覚で仕事をしたいと考えているとも言われる。

「私は、陶業とは全く別の世界から、陶芸に憧れてこの世界に入ってきた人たちと異なり、模倣をしたい、一歩でも近づきたいと思う、バイブルのような焼き物はありません。常に、なにか、今までにない新しい物を作りたいと言う気持ちでいます。」
昔に作られた物のコピーを作るのではなく、自分なりの新しいものを作りたい。何百年か後に、その時代の人が、今作られている陶器を見たとき、「昭和や平成の焼き物と言っても、桃山時代や江戸時代のコピーを作っていただけなんだ。」と思われるのは恥ずかしいと思いませんか?と言われる。

 

 

 

平成の物作りならば、平成に生きる自分たちが、デザインでも技術でも、何か新しい伝統を生み出すくらいの気持ちでやらなければならないと考えておられるそうだ。

「京焼の伝統を大切にしながら、伝統に甘えず、伝統に縛られない、物作りを目指しています。」

「昔に作られた秀逸な陶磁器を目指して作る方は、音楽家に例えると、バッハなどのクラシックを弾いている演奏家に当たると思うんです。今までにない焼き物を作ろうという人は、音楽家で言えば作曲家に当たる。私は稚拙でも、作曲もする演奏家でありたいと思っているんです。」

 

 

焼き物の伝統を学び、伝統を大切にしながら、それをベースに新しい物作りに挑戦しようというのが笹谷さんの一貫して変わらないポリシーなのだ。

そんなポリシーから、今までにもなく、他にも類を見ない正に画期的な焼き物を笹谷さんは作られた。その一つが、コーヒー豆の焙煎器である。

笹谷さんは、かなりのコーヒーの愛好家でもあり、焼き物でコーヒー豆を焙煎しようという発想は、愛好家ならではのものだ。そこに笹谷さんの今までにない焼き物を作るというポリシーが加わって、具現化された焙煎器なのである。

実際に、笹谷さんはコーヒーの生豆を焙煎器に入れ、火にかけて焙煎して見せて下さった。予熱に10分ほど、生豆を入れてから20分ほどで、合計30分くらい、焙煎できるまでにかかるのだが、焙煎器に入れる前は緑色だった生豆は焙煎が終わり、器から出されると、見事な褐色の香ばしい香りを放つ豆に変わっていた。

 

 「直火ではなく、加熱された陶器から発せられる遠赤外線で、豆が焙煎される仕組みですから、美味しいコーヒー豆になるんです。ただ、焙煎が終わるまで、手でグルグルと30分も回していなければならないので、そこが今後の改良点で、モーターで回すようにしようとも考えています。でも、コーヒーが本当に好きな人なら、この回している間も楽しく感じると思いますよ。だって、美味しい豆になって出てくるのを想像しながら回すのですから。」
そう言われるとおり、笹谷さんは、楽しそうに実演して見せて下さったのである。
もちろん、笹谷さんは、この焙煎した豆で入れたコーヒーを飲ませてもくださった。遠赤外線の効果なのだろう、嫌な苦味はなく実にまろやかで、美味しいコーヒーになっていた。この焙煎器は、「珈悦(こうえつ)」という名前で、ユーチューブでも紹介されているので、そちらもご覧いただきたい。

 

 

 

笹谷さんは、手捻りで可愛い干支の香立てやフクロウのペーパーウエイトなども作られている。
こちらも製作の様子を実演して下さったが、見事な手際で、あっという間に作られていく。普通ならこのような造形物は、型作りによって生産されることで、大きさや形が揃えられるが、手作業だけで、同じ物をいくつも手際よく作られていく。
その作業は、笹谷さんが「作りたい物を作る」ために生み出した、独自の手捻りの技が有るから故、なせることなのだろう。
「できあがったものを見せると、皆さん、やはり型作りだと思われるようです。でも、食器が売れなくなった今、これらの物は、継続的によく売れています。」
「陶器」から「器」の文字を無くして「陶」そのもの可能性を求めて食器以外の物も作り出せば、新たな販路の拡大になる。

 

 

 

円筒形なのに、模様による視覚効果で面取りのように見えるカップなど笹谷さんの作り出すものは、京都クラフトセンター時代に知り合った、日本各地の、いろいろな分野の工芸家との交流から生まれた、クラフト作品だと感じる。

考えてみれば、桃山時代の仁清や乾山の作品は、その時代、過去にはなかった焼き物を新たに作り出していたものだ。
江戸時代の焼き物も、その時代の最先端の物を、先達は作っていたからこそ、現在、焼き物の逸品として残っているのだろう。

現代の私たちも、今の時代に求められる最先端の焼き物を作るのが、陶人としての使命の一つと言えるのかもしれない。
過去の先達から学び、伝統を重んじながら、現代の技術や素材を活用することで新たな物を創造できればと願いたいものだ。

 

 

笹谷 博

1950年 京都市に生まれる
京都市立 洛陽工業高校 電子工業科卒業
京都府立陶工職業訓練校 図案科卒業
京都市工業試験場 技能養成所卒業

 

工美展 入選
京展 入選
京都市クラフト展 入選
全国青年伝統工芸展 優秀賞受賞
Made in Kyoto ベストデザイン賞 入選
京焼・清水焼展 入選
工芸都市高岡2001クラフトコンペ 入選
フランク・ミュラー(FRANCK MULLER)社の依頼を受け、記念品を制作

暁陶房 笹谷 博 (飛露)

〒601-1395
京都府宇治市炭山久田2-7
TEL:0774-32-5909
FAX:0774-32-8706
E-mail:sasatani@mbox.kyoto-inet.or.jp
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/sasatani/

マエストロ貴古

2013.11.25 更新

 マエストロとは、ただ物を作るだけの職人という意味ではなく、自分でデザインをし、プレゼンもして、販売までをもする作り手の総称のような意味があって、自分たちもそのようでありたいという気持ちを込めて「マエストロ貴古」と銘打ちました。と、ご主人の今橋剛和さんと奥様の裕子さんは語られる。
 ご主人の剛和さんは、代々続く「貴古窯」の四代目で、奥様の裕子さんとは京都市立芸術大学在学中に知り合われて、結婚された。ご主人が作られる作品は「貴古窯」として世に出されていて、奥様との共同製作の作品を「マエストロ貴古」という銘で世に出されている。
ご主人の剛和さんは、京都市立芸術大学の陶芸専攻科で学ばれ、卒業後家業に就かれた。もちろん、大学では陶芸に関することは全般的に学ばれたが、家業に入られてからは、先代のお父さんから、陶芸に関して手取り足取り指導を受けられたのではないそうだ。

 

 「自分が作る焼き物は自分のものであって、あなたはあなたで、一から自分の物を作り上げなさいと言われて、父からは突き放さたような感じでした。
 私の父は、焼き物に関しては、それはもう、ありとあらゆる事をやり尽くしていたような人でしたから、それ以外のものしかやってはダメと言われたら何をしたらよいのか。当時は、自分自身が何をやるべきなのか自体、見失うような状態でしたね。」 よく、ライオンは我が子を千尋の谷に突き落として、這い上がってきた子だけを育てるということが言われるが、裕子さんは、お父さんから常にそのように言われるご主人のことをそばで見ていて、「そこまで深い谷に落とさなくても良いのに。」と感じておられたと言われる。
  お父さんから「私がやってきた事以外の陶磁器で、自分の焼き物の世界を築き上げなさい。」と言われた剛和さんは、大学を卒業されて1年の後、お父さんが作ってこられた食器を避け、茶陶の製作から始められる道を選ばれた。  

 

 

  「やはり、一からということで始めましたから、大変苦労しました。染付の茶器の製作を依頼されても、呉須色だけをとってみても何百種類という色合いがあるんです。
 例えば、古伊万里の呉須色が良いからその色で作って欲しいと言われても、その色がわかりませんから、当時知り合いの先生が京都国立博物館におられましたので、頼んで所蔵品を見せてもらいました。でも、その本物の色を見たところで、現在売られている染付の呉須の色との判別が付かないんです。」 確かに、呉須色は単に、十把一絡げに藍色であると言ってしまえば、言えないこともないが、黒味がかった藍色もあれば、青味が強い原色に近いような藍色のものもある。また、太陽光の下で見たときと蛍光灯の下で見たときでは違う色に感じたりすることもある。それに加え、同じ呉須でも窯の焼き方によって、出てくる色が変化する。
 本来なら、一番身近な師匠であったであろう父親から、なんの手ほどきも受けなかった剛和さんにとっては、正に手探りで、目的の呉須色を探り当てなければならなかったことは、想像に難くない。

 

    「来る日も来る日も、色の研究を繰り返していました。よく当時は人から、こんな山の中で色の研究ばかりしていてなにが楽しいのかとまで言われましたけど、その当時はもう商売抜きで、そればかりやっていましたね。」と、奥様の裕子さんも言われる。 茶陶の製作に使用する絵の具や釉薬の研究に邁進し、経済的にはお父さんが経営されていた窯元に頼っていたのが現実だったそうだが、やがて、お父さんの年齢的なこともあり、家業の食器製造を剛和さんは手伝われることになった。
  「必要に迫られて、家業の窯元の食器を作るようになりましたが、やはり、そうなっても父親から、この食器に使っているこの色の釉薬はこれだというような、一子相伝のようなものは一切なかったですね。最後まで、自分の釉薬は自分の物という姿勢を父は貫きました。四代貴古を継ぐのであれば、四代の釉薬色でなければならないというのが、父親の哲学でした。でも、そういう父親の厳しい姿勢で、いわば、這い上がるのが難しいような谷に落とされたことで、今になっては色々なことが身になっていますので、良かったとは思っています。」  

 

 

    貴古窯の食器の製作を苦労しながらも続けられた剛和さんだったが、世の中は20年以上続く不景気の時代となる。
 ご主人の剛和さんは、京都市立芸術大学の陶芸専攻科で学ばれたが、奥様の裕子さんは、同大学の油絵科で学ばれたそうだ。 「私が、京都市立芸術大学の油絵科を選んだのは理由があって、京都芸大の油絵科は他の専攻科とは違って、色々な素材を扱ってものを作るということをやっていたからなんです。油絵科では陶器も作品を作る上での一素材として見ていました。ですので、陶芸をやっている主人に嫁ぐことで、この世界に入ることに対しても、不自然さは感じませんでした。」 裕子さんは、絵の教室で先生もしておられて、子供達に絵を教えておられる。その教室で子供達に教えておられている上で、一つの思いがあるのだそうだ。
 「芸術を専攻した以上、作品を作ることに情熱を注ぐ素晴らしさを生徒にも感じて欲しいのです。お金にならないからやめてしまうというのではなく、子供達に対して恥ずかしくない生き方をしたい。私も作家として頑張っているし、自分たちの目標にしたいと思ってもらえるような生き方をしたいのです。」

 

      そんな、裕子さんの思いからやがて、一つの作品が生まれ、マエストロ貴古が誕生する。 貴古窯の工房にはいくらでもある土を捻って、ある時裕子さんは素朴な形の兎を作った。その兎を見たご主人は、面白いと裕子さんに告げるのである。 ふと、工房にあったカップを逆さまにして、その上に裕子さんが作った兎を乗せてみたところ、スカートをはいた兎に見えたという。そうして作られたのがマエストロ貴古の作品になっていった。綺麗なドレスをまとった兎だけではない。仲良く3匹の兎がカップの中を覗いているような可愛らしい器も生まれた。物思いにふけっているような馬が、ちょこんと上に座っている香炉も生まれた。器の渕に腰をかけ祈りを捧げているような兎もいる。 ドレスをまとった兎に使ったラスタ彩の絵の具は、後に綺麗なペンダントの作品に使うことで新たな挑戦にもなった。

 

 

    「ドレスをまとった兎は、オペラの蝶々夫人をイメージして作ったもので、これがマエストロ貴古としての第1作目でした。マエストロ貴古の作品は、私と主人とのキャッチボールのような作業で作られていく作品で、最初は人形としての作品だけだったのですが、食器作りを長年やってきた主人の思いから、香炉やカップなどの器も作るようになったんです。」
 剛和さんと裕子さんの共同製作作品であるマエストロ貴古の作品は、3年ほど前から作られるようになった、まだ新しいものだそうだが、京焼・清水焼展に初の出品で入賞をしたほど評価は高い。 「私たち夫婦は、二人とも芸大を出ているのに作品を作る上で未だ、何も自分たちの可能性に挑戦していないことに、ある時に気づいたんです。ダメでも、とりあえずやってみよう。自分たちの作品はこれだというようなものが作れれば良いという気持ちで、頑張っています。

 

    お二人は、フェイスブックやブログなどを活用し、インターネット上での作品発表や貴古窯の作品を愛好してくださる方との友好にも熱心だ。マエストロ貴古の作品にも、先代や先々代の貴古窯伝統の作風を意識的に盛り込んでおられるそうで、フェイスブックやブログを見ている方にも貴古窯の作品の良さを伝えたいと考えておられる。
 「私たちの子供が将来、私たちが残した作品を見て、あの時お父さんとお母さんは頑張っていたなと思ってもらえるような作品が作れれば良いなと思っています。」 この思いは、作品に込められるであろうし、人々にも伝わると思う。作品には必ず、それを作った人の為人が現れる。なにより、人は、そういう個性を持った作品を求めているのだと思う。心を込めて作られた作品、そして、その上で伝統的な技が駆使された良いものは、必ず、一人歩きをするものだ。それを求めている人の手元に辿り着くまで。マエストロ貴古の作品も、きっと一人歩きをするだろう。    

 

 

    マエストロ貴古・四代貴古

京都個展2012・2013
京展入選
美術工芸ビエンナーレ入選
現代茶道展入選

    今橋剛和

三代貴古の長男として生まれる
京都市芸術大学陶磁器科卒業
宇治炭山にて独立開窯
小川流茶道具にたずさわる
関西地区中心に個展開催多数
工芸展、茶陶展等入選多数
数々の有名茶会・発表会にて道具提供
四代・貴古の継承者

    今橋裕子

京都市芸術大学油絵科卒業
同大学院修了
関西地区中心に個展開催多数
グループ展開催多数
美術コンクールなど入選・受賞多数
アトリエ遊美術研究所主宰
「音楽絵本」によるステージ発表
陶芸家・今橋剛和とのコラボレーション

 

貴古窯陶房 〒601-1395 京都府宇治市炭山久田2-12 TEL/FAX 0774-32-5903
貴古窯ちゃわん坂店 〒605-0862 京都市東山区清水一丁目287-30
貴古窯のホームページ http://www.maestro-kiko.com/

川尻潤

2013.11.02 更新

 江戸時代中期から代々、陶業に携わる家柄にお生まれになった川尻潤さんは、現在、陶芸作家として活躍されている。
家に残る古文書に記された家系図によると、陶業に就いた初代は加賀藩の九谷焼御用窯で工場の長をされていた記録が残されているそうだ。
川尻さんは、東京芸術大学の美術学部、デザイン科を卒業され、その後、同大学の大学院で修士課程と博士課程の両方をデザイン専攻で修了されている。修了後は同大学のデザイン科で助手を勤められ、後に非常勤講師もされていた。
東京芸術大学には陶芸専攻もあるそうだが、川尻さんは、陶芸専攻ではなくデザイン科で学ばれた。
「最初は、家業を継ぐためにデッサンを習いなさいと言われたのですが、デッサンをやっている内にデザインが面白くなってきて、父親にデザインをやりたいと申し出たところ、陶芸は家でも覚えられるから、大学ではデザインを習った方が良いと言われてデザイン科に入りました。決して、陶芸をやりたくないから、デザイン科に入ったというわけではないんです。」

 

 

 

 

大学及び大学院では、陶芸については一切学ばず、陶芸はお父さんから伝授されたのだそうだ。
川尻さんの家は、禎山窯という窯元でもあるのだが、お父さんは日展で作家としても活躍された。日展作家であったお父さんの作品は、美しいフォルムを持った白磁の作品であったが、子供の頃からそれらの作品を見ていた川尻さんは、「白ばかりでつまらない。」とも感じておられたそうだ。
「男の子にはやはり、一時期でしょうが父親に対して反発心を持つ時期がありますからね。でも、そういう白磁に対する反発から今の、私の作風があるということかもしれません。」
川尻さんの作品は、大胆な色使いをしたものが多く、躍動感を感じるような作風で、静的なイメージを感じさせる白磁とは、全く正反対の雰囲気を持っている。今の、色使いを駆使される作風に関して、お父さん以外に影響を受けられた人がいるのか、川尻さんに訊いてみた。

 

 

 

 「大学時代に琳派の勉強をしていたとき、その大胆な作風に、自分なりにとても驚いたんです。それまでは西洋の美術を勉強していて、日本よりも西洋の美術の方が優れていると思っていました。しかし、琳派を学んでみると日本にもこんなにすばらしい美術があったことにびっくりしました。しかも、琳派のものは、決して古くささを感じることがなく、今日的に思います。野々村仁清や尾形光琳・乾山、俵屋宗達などの西洋美術にも引けを取らない芸術性の高い作品、茶の美と見事に融合した琳派の作風にあこがれました。」
美術史研究者の中には、琳派の作品は芸術的なレベルの高さでは世界的に見ても当時の最高峰であったのではないかと評する人もいる。
鮮やかに発色した絵の具や金までをも使った川尻さんの作品は、食器もあれば花生けもあり、オブジェの作品もある。
磁器土を使った作品も、表面はゴツゴツとした土感を残した成形がされており、土味が活かされたものになっている。色合いといい、土味が活かされたフォルムといい、その大胆さを感じさせる作風は、やはり琳派の影響があるのだという。

 

 

 

  「乱暴な作風にも見られるかもしれませんが、表現しているのはやはり、日本美なんです。この大胆な色使いは、元々私の家が九谷焼を祖としていますから、九谷焼の色絵を継承していると言えるとも思います。」
川尻さんの工房がある東山区今熊野日吉町・南日吉町一帯は清水焼の窯元が集まる陶業地で、地元の一角に建てられた「陶器塚」も川尻さんのデザインによるものだ。その陶器塚にも九谷赤や呉須などの絵の具が駆使された、鮮やかな絵付が施されている。
現在は窯元としてではなく、陶芸作家として活躍されている川尻さんだが、窯元として代々受け継がれてきたものが川尻さんの作品には活かされているのである。
川尻さんは作陶活動だけでなく、京都府南丹市園部町にある京都伝統工芸大学校など、大学で伝統工芸論を教えておられる。また、工房を持たない美術系大学出身者などに自らの工房を、製作の場として提供されたりもする、心優しい面も持たれている。

 

 

 

 

 川尻さんは、こんな話もしてくださった。
「将来、陶芸家を目指す若者は現在でも多くいます。むしろ、増えているんです。陶芸が職業として選択されるという面では、今でも人気が高いのです。しかし、陶磁器が購買の対象として選択される割合は時と共に下がっています。お茶を、急須を使って入れて湯呑で飲むのではなく、コンビニでペットボトルのものを買ってきてそのまま飲むスタイルに変わっていることに代表されるように、日本人の生活様式が変化していることや、人々が興味を持つベクトルが陶磁器以外のものに移っている傾向、海外から入ってくる安価な陶器に市場が席巻されていることなどから日本の伝統工芸品である陶磁器が売れなくなってきています。」
京都陶磁器会館で陶磁器を購入される方が、今や外国から来られた方が約半分を占めるそうだ。日本の伝統工芸に興味を持ってくださっている外国の方が増えているのに、日本人の興味が日本の伝統工芸から離れていっているというのは、なんとも皮肉な話である。

 

 

 

 「窯元の皆さんは、別にサボっているわけではないと思うのに、日本における陶磁器の市場が、どんどん狭くなっているが故に、伝統的陶磁器が売れなくなっている。特に、京焼・清水焼に関しては、その必要性を大いに感じるのですが、私は日本の伝統的陶磁器を宣伝する専門の大使のような人物、あるいは機関がこれからは必要なのではないかと思っています。ヨーロッパの伝統的陶磁器であるデンマークのロイヤルコペンハーゲンやドイツのマイセンなどは、広報がしっかりしていて、宣伝媒体に対する働きかけが円滑に機能しているので、現在でもよく売れているんだと思います。」
日本だけでなく、海外に向けてもこれからは、より積極的に日本の伝統的陶磁器を発信していくことが必要なのだろう。
陶芸作家としての顔、大学講師としての顔、そして先祖代々受け継がれてきた陶業家としての顔など、色々な面で川尻さんは、とても有意義なお話をしてくださった。陶芸作品のすばらしさだけでなく、川尻さんには人間力の強さも感じるのである。

 

 

川尻潤

1964年 京都生まれ 清水焼禎山窯 窯元
1987年 東京芸術大学美術学部 デザイン科卒業
1989年 同大学 大学院修士課程 修了 デザイン専攻
1992年 同大学 大学院博士課程 修了 デザイン専攻
1992年~1995年 同大学デザイン科 助手
1998年~2001年 同大学デザイン科 非常勤講師
現在  京都東山にて作陶 日展会友
1985年 京都府画廊選抜展 知事賞受賞
1986年 京展 美術懇話会賞受賞(以後3回受賞)
日本新工芸展 新工芸賞受賞
1997年 国債色絵コンペティション ’97入選
1998年 日展初入選 以後毎年入選
2003年 日本現代工芸 工芸賞受賞
2004年 日展 特選受賞
2005年 日展 無鑑査
2011年 日本現代工芸展 京都新聞社賞
個展 京都高島屋 心斎橋大丸 銀座松屋 横浜高島屋
著作 「歪みを愛でる」 2001年 ポーラ出版

日展作家 川尻潤

〒605-0953 京都市東山区今熊野南日吉町146-2

TEL:075-541-0515

FAX:075-541-6688

森俊次

2013.09.15 更新

 京都市東山区の泉涌寺地区で工房を構えられる森さんは、その地で3代続く窯元のお生まれだが、若き日々は日展に作品を出展し、入選を重ねられた陶芸作家として活躍された。

高校を卒業してから陶工訓練校、京都市工業試験場の陶磁器研修コースで学ばれ、この世界に入られたのだが、一旦は家業を継ぐべく短期間、窯元の仕事をされたものの、思うところがあって、日展作家の宮下善寿氏の下に弟子入りをする。

「地味な窯元とは違い、作家の方は優雅というか、高級車に乗って美味しいものを食べてというように、若い頃は、そういう風に見えたんですよ。自分もそうなりたいと考えたんですね。今思うに、決して窯元が悪い、作家の方が良いというような、もちろん上下はないですし、窯元はつまらない、作家の方が楽しかったとも思いません。若気の至りというやつですかね。」 と、森さんは言われるが「家にいる                                  と、どうしても甘やかされますから。」

 

 

とも言われる。若いが故に、単に楽な方の道を選んだということではない。窯元の3代目で後継ぎという甘い環境から、弟子入りという外の厳しい環境へ自らを追いやり、自分自身を律されたということも言えると思う。
28歳の時に、結婚を機に独立。作家としての活動を本格的に始められる。森さんは、日展に出展された当初から入選を重ねられ一気に注目を集められた。
森さんが、日展作家時代に主に制作されていた作品は、手捻り技法によって作られる花器の作品だ。どの作品も形が非常にユニークで暖か味を感じるようなフォルムを持ち、眺めていると心が和む。表面は光沢のある釉薬をかけて仕上げるのではなく、焼き締めに近いようなマットな質感があり、尖った感じがしない。日本的で古風な空間というよりも、現代的でシックな空間に置かれると、マッチするような作風に感じる。

 

 数々の作品で入選を重ねられ、意欲的に作家活動をされていた森さんだったが、32歳の時に父親が病気になったことで、窯元としての仕事もされるようになる。しばらくは、窯元としての仕事をこなす半面、日展作家としての仕事も続けられた。
窯元の仕事をされるようになると、作家的な仕事である一品製作ではなく、同じ物をいくつも作る数物製作の仕事にも興味が湧くようになる。
「バブル景気に入った頃で、上り調子の良いときでしたから、見本を出せば必ずと言って良いほどよく売れました。やっぱり、売れれば商売としての窯元の仕事も面白く思いましたね。それと同時に、伝統的な食器製作の難しさもわかってきて、その奥の深さに面白味を感じました。」
二足のわらじではないにしても、森さんは窯元としての仕事と作家としての仕事の両立を続けられる。

 

  45歳になったとき森さんはふとしたことで、作家としての活動に疑問を持たれるようになったことから、窯元の仕事一本に絞られることになる。窯元の仕事一本に絞られてからも、それまでに作家として作品を作られていた頃の技術や焼き物に対する考え方が役に立っているのか、森さんに尋ねてみた。
「それは、やっぱり役に立っているでしょうね。伝統的な食器を作る場合でも独創性は大事ですし、伝統工芸品であっても従来の古いデザインの物をただ、真似て作るようではだめですからね。食器を作る上でも創作性が必要になってきます。日展はまず、創作を大事にする世界ですから。」
日展作家時代に培った創作性を森さんは、窯元として作る食器にも盛り込んでおられるのだが、窯元を継がれた最初の頃は、そうではなかった。

 

  「私が家業の窯元を継いだ時は、問屋さんの下請けのような仕事をしていたんです。器の形だけを作って焼き上げ、その状態で問屋さんに納める。その器に施す絵付けはその後、問屋さんが上絵をする職人さんに預けて、絵付けをされるのです。日展で創作の仕事をしてきた私にとっては、その下請けのような仕事に甘んじることができなかったんです。」
注文通りの形に仕上げた器を、なんの絵付けを施すこともなく、無地のまま卸業者に納める。その器には、なんら独創性のかけらもなく、森さんの個性は、ただ一つも盛り込まれない。そんな仕事に安住することに森さんは我慢ができなかったのだ。
「自分でデザインした絵を付けていかないと、窯元オリジナルのものは作れない。これではだめだという危機感のようなものがありましたね。」
窯元としてのオリジナルの器を作っていくのだという決意の元、                                            次々に新作食器を森さんは作り出していく。そこには、日展作家                                            時代の創作が活かされ、森さんの独創性が盛り込まれていった。

 

 こうして、食器においても数々のヒット作を森さんは世に出されていったのだが、いかんせん、時代は食器が売れない世の中となる。
「最近は、食器が売れなくなってきましたね。これからの私の課題は、清水焼の技術を食器以外の物にどうやって活かすかということだと思っています。」
そう言って森さんは、見慣れない形をした陶片のようなものを見せた。
「中国に“かっさ”というものがあって美顔に使う物なのですが、それを陶器で作ったものです。元々は、動物の骨を加工して作ったものだそうです。」

 

 なんでも、美顔ローラーのようにそれを顔に押し当てて、なでることにより皮下の血行を促すことで、美顔に効果があるらしい。森さんの食器以外の物を陶器で作った作品は、それだけではなかった。ふと、後ろの棚を見ると、金属の棒の先に陶器がくっついた物が置かれてあった。一見、何かはわからなかったので、森さんに尋ねると
「ゴルフクラブのパターです。自分の趣味を活かしてパターも陶器で作ってみたのですが、パターの場合、重さとか角度とか微妙な調整があって難しいですね。」
陶器でゴルフのパターを作ろうというのは、かなりユニークな発想で、思いつく人はまず、そうは多くないと思う。しかも完成品にまでしてしまうというのは、すごいとしか言い様がない。全くもって、驚嘆してしまった。
森さんの清水焼を応用した新商品は、それら以外にもある。時計や楽器のオカリナなども陳列棚には置かれてあった。
「オカリナも音の調律が難しいのです。土で作りますから、作っているときと乾いてからの音が違ったり、焼いた後でも音が違ったりしてくる。穴の大きさの違いや微妙な位置のずれで音程が変わります。パターにしてもオカリナにしても時計でも、なかなか、商品として流通に乗るところまで持って行くのが難しいですね。」

 

 

 

 また、森さんが自家の窯元の作品を販売される店舗「わくわく」に置かれてあった起き上がり小法師も清水焼を応用して作られた新商品だ。この起き上がり小坊師は、伝統工芸品的な要素が他の物に比べて強い感があるからだろうか。
「私としては今、これを食器以外の一押しの商品として考えています。陶磁器で製作したアクセサリーなんかも、ドイツのマイセンが作り始めていますし、世界的にも陶磁器の食器以外の物への応用という動きがあるようです。」
食器に留まらず、清水焼を応用した新商品開発へ、森さんの創作意欲は留まるところを知らないようだ。

 

 

 

 

森俊山

1957年 清水焼窯元に生まれる
1976年 京都市工業試験場 陶磁器研修コース修了
1977年 京都府立陶工高等訓練校修了
1978年 京都市工業試験場陶磁器課修了
1979年 日本陶芸展 入選
日展 入選(以後10回入選)
1981年 全関西展 第三席受賞(以後3回受賞)
1985年 京都府画廊選抜展 知事賞受賞
1986年 京展 美術懇話会賞受賞(以後3回受賞)
日本新工芸展 新工芸賞受賞
1987年 ギャラリーマロニエ 個展
1988年 八木一夫現代陶芸展 入選
1990年 美濃国際陶磁器フェスティバル 入選
1991年 京都府工芸美術展 優秀賞受賞
1992年 京都大丸 個展
1993年 新宿伊勢丹 個展
1997年 日工会展 日工会会員賞受賞
2001年 大阪成蹊大学美術学部 非常勤講師
2005年 京都栄養専門学校 特別講師
2006年 京都陶磁器協会 理事
2007年 京都青窯会協同組合 理事長
2008年 経済産業省認定 京焼・清水焼伝統工芸士に認定
2012年 京都市伝統産業「未来の名匠」に認定

俊山窯 伝統工芸士 森俊次

京都市東山区泉涌寺東林町20

TEL:075-561-9333

FAX:075-541-6688

加藤正史

2013.06.22 更新

 

 京都府宇治市の市街地区から東方の山中にある炭山地区。その自然あふれる地で、焼かれている加藤正史さんの工房を訪ねた。
この炭山地区は、京都府内で最も後にできた窯業地である。
京都府内には、現在窯業地である地区は数カ所有る。
清水寺および五条坂界隈に、最初に起こった五条地区、それより少し南にある日吉地区、またその日吉地区の南に位置する泉涌寺地区、京都市山科区の清水焼団地地区、そして、新たな窯業地を求めて、当時過疎化が進んでいた炭山村の村人に迎え入れられ、昭和48年、数人の陶工達が東山より移り住み窯を開いたのが炭山工芸村の始まりである。加藤正史さんのお父さんは、そんな、炭山村に移って窯を開いた陶工の一人であった。もともと、加藤さんのご先祖は岐阜で陶業に就かれていたそうで、より高度な陶磁器技法を求めて加藤さんのおじいさんが京都に移ってこられたらしい。

 

 

 

 この岐阜県や愛知県の瀬戸市、土岐市、瑞浪市などで焼き物をされていて、京都に移って陶業に就かれている方は多くいるが、中でも伊藤姓や加藤姓の方が多い。
加藤さんは、高校を卒業された後、京都市工業試験場で釉薬の知識を学ばれ、その後、府立陶工訓練校で轆轤の技術を習得された。
昭和52年よりお父さんの下で作陶を始められ、平成元年に「永峰」を襲名。京焼・清水焼展で入選されるなど、陶歴を積み重ねて来られたのだが、加藤さんの作品を見ると、その多様性にまず驚く。ご本人は、「磁器物から荒土までなんでも」と言われるのだが、正に、磁器から土物の作品まで、様々な器が陳列棚に並べられている。

 

 

 

  「興味が湧くとどんな物でも作りたくなるんですよ。でも、ほんとうに磁器でも土物でも、何でも作りますから結局、すべてが中途半端なんです。」と加藤さんは謙遜して言われるが、あくまでもそれは、ご本人の謙遜であって、全く中途半端ではない。一つ一つの作品が、どれも完成度が高いのである。
加藤さんは、平成11年に通商産業大臣指定、伝統工芸士の認定を受けられた。加飾の一技法である陶彫の技術力を認められての認定だ。
その陶彫により模様を施された青磁の作品は、釉薬が溜まった部分がコントラストを産み出す「影青(いんちん)」が非常に美しい作品だ。

 

 

 

 南蛮の器に鬼板(鉄分を多く含む粘土)で塔が描かれた作品などは、しっくり落ち着いた雰囲気で、まるで塔のシルエットを眺めているような景色になっている。交趾釉で彩色された器は、中国の唐三彩を思わせる雰囲気がある。加藤さんの作品は、実にバラエティーに富んでいるのだ。
「私は、色々な作品を見て良いなと感じたら、そのイメージを具現化した作品を作りたくなる。ですから、まず完成品が頭に浮かんでくるんです。そして、その作品に磁器土が合うと思えば磁器で作りますし、荒土が合うなら荒土を使います。私にとって、磁器で有らねばならないとか、必ず土物でといったこだわりはないんです。」

 

 

 まず完成品が頭にありきで、それを作るためにはこの材料をという選択で、加藤さんは作陶に挑まれるのだ。加藤さんの陶器を作られる上でのポリシーは「興味から起こるチャレンジ」だと言われる。
「なにかを突き詰めたいとか、一つのものに対する執着はないんです。」と仰るように色々な作品に挑まれているが、これだけ多種多様な器を作られて、しかも、どの作品もここまで完成度の高いものに仕上げられる加藤さんの技術力には感服させられる。
平成14年には当時の通商産業省から「通商産業省奨励賞」を受賞されている。加藤さんの陶工としての仕事は、今正に円熟を迎えられているように感じる。

 

 

 

 

加藤永峰

1956年 京都市東山区に生まれる
1976年 京都市工業試験場 陶磁器研修コース修了
1977年 京都府立陶工高等訓練校 成形課修了
炭山にて父・永峰(伝統産業功労者賞受賞)の下で作陶を始める
1989年 三代目永峰を襲名
1993年 京焼・清水焼展入選 以後2回入選
1999年 通商産業大臣指定 伝統工芸士に認定される
2000年 東福寺塔頭 明暗寺平住住職より「明暗寺窯」の称号を頂く
2002年 通商産業省奨励賞受賞

明暗寺窯 加藤永峰

京都府宇治市炭山久田2-4

TEL:0774-32-5907

涌波隆

2013.05.02 更新

 京都市東山区清水に工房を構えられる涌波隆(わくなみたかし)さんは、清水焼の名前の由来でもある、その地で作陶活動を続けておられる。

涌波家は代々続く陶芸家の家柄であるが、涌波さんは、早くして高校生の時に父親を亡くされ、その時、陶芸の手ほどきを父親から全く受けていなかったことから一時期、陶芸の家柄を継ぐかどうかを迷われたそうだ。

そんな考えもあり、大学は陶芸の専科ではなく、造形美術科・芸術計画群という科目を専攻され、広く芸術学に関する勉強をされた。
「陶芸の家を継ぐかどうかは、正直かなり迷いました。でも、自分自身が、もともと陶芸が好きだったんです。」

 

 

 大学卒業の時点で進路を考えたとき、幼いときから見ていた両親が陶芸に携わる姿が頭の中にあった。 陶芸家の家に生まれたこと、そしてやはり、自分自身、陶芸が好きであることを再確認し、自らも陶芸の道に進むことを決心されたのだそうだ。

涌波家は、現世の隆さんで四代目に当たり、陶芸を最初に始められたのは隆さんの祖父である。隆さんの祖父は、格調高い青磁の作品を数多く残した初代、諏訪蘇山氏に師事された。当時、諏訪蘇山氏の弟子に当たる人物は数名いたそうだが、一人前として独立する際、“蘇”の一時をもらい請け、隆さんの祖父は「蘇嶐(そりゅう)」と名乗られた。二代目蘇嶐は隆さんの父親で、三代目が母親、隆さんは四代涌波蘇嶐である。

 

  隆さんが作られる作品は、その諏訪蘇山氏の作風を汲む青磁の作品が中心であるが、生きておられれば最も身近な師匠であったであろう父親からの薫陶がなかったことから、作品造りは苦労の連続だったそうだ。

「祖父や父親が作っていた作品に使われている青磁の釉薬の調合などはノートに残ったものはあります。しかし、当時の原料と今のものでは、やはり質が変わっていますので、同じ調合にしても、同じ色合いには決して焼き上がらない。窯の違いや焼き方の違いによっても変わってきます。」
釉薬の調合だけではない。もともと涌波家が代々受け継ぐ青磁は、諏訪蘇山氏の流れを汲む釉薬にも磁土にも調合を加え、独特の深い色合いの青磁に仕上げるのだ。
「最初は、全くこの色合いは出ませんでした。何度も繰り返し調合や窯の焼き方を研鑽してやっと、この色合いが出るようになりました。」
と隆さんは語る。

 

 隆さんは、ほぼ、一年に一度のペースで個展を開催され、グループ展も含めると年に数回の展覧会を開催されているが、展覧会をされる毎に新しいことに挑戦することをモットーとされている。

「この青磁の器に施している模様も、新しくチャレンジして模索の結果、得たオリジナルの技法なんです。」
一見すると磁胎に施されているその龍の模様は浮き彫りのように見えるが、彫ってあるのではなく、土を貼り付けて立体感のある模様にされているのだそうだ。器を形作った後にまた、土を貼り付ける作業は特に、磁器の場合は困難な作業となる。

一旦、形作った器の乾き具合と、貼り付けるための土の乾き具合が、双方ほぼ同じ乾き加減でないと、うまく貼り付かない。乾燥の加減が違えば単に貼り付けてもその後、完全に乾燥させる段階で剥がれ落ちたりするのである。

涌波家が代々受け継いできた青磁の器に、土を貼り付けるという技法で、ここまでの大きな模様を施す加飾は隆さんの代で始められた技法とのこと。父親からの指導を受けられなかったことを隆さんは残念に思っておられるが、新しいことにチャレンジして、自身の作風を作り上げようとするその精神は代々受け継いでおられるのだろう。

 

 隆さんは、自身の工房で陶芸教室を開いておられて、指導をされている。兵庫県の芦屋市にある規模の大きな陶芸教室にも指導に行かれているそうだ。
「まず、陶芸自体に馴染んでいただきたいんです。そして実際に作っていただくと陶芸に対する見方が変わられる。そして私の作品を見ていただくと、以前とは違った見方で作品を捉えていただけます。私自身、人と人とのつながりを大切にしたいと考えています。」
隆さんは、積極的に人との交流を持ちたいと言われる。
「陶芸教室でも展覧会でもそうですが、そういう機会で人と交流することにより、私の作品に対して色々な意見をいただけます。その意見から作品へ良い影響を受けることも多々あります。」

 

  多くの意味で、それらのことも隆さんの作品に、その影響が集約されるのだ。
人との交流を積極的に持ち、新たな作風にも果敢にチャレンジされ、陶芸家の道を前進されている隆さんだが、今でも、父親がそばにいてくれたらと思うときがしばしばあるそうだ。

そんな、父親への思いが込められ、四代涌波蘇嶐として代々涌波家の陶芸が受け継がれて今も尚、隆さんの祖父や父親は、隆さんの胸の中や作品に生き続けているのだろうと思う。

 

 

四代 涌波蘇嶐

1977年 京都市に生まれる

成安造形大学 造形美術学 芸術計画群卒業
京都府立陶工高等技術専門校 陶磁器成形科・研究科修了
京都市伝統産業技術者研修(旧京都市工業試験場) 陶磁器コース本科修了

2005年 四代蘇嶐を襲名
2008年 松坂屋 高槻店 四代襲名展
2010年 松坂屋 高槻店 個展
2011年 松坂屋 高槻店 個展
2012年 大和 香林坊店 個展
〒605-0862
京都市東山区清水四丁目170-22
075-561-8004

守崎正洋

2013.02.15 更新

今回、取材にお伺いしたのは、京都は嵯峨野で作陶されている守崎正洋さんの工房。守崎さんは、釉薬(うわぐすりとも言われる)により彩色をされた食器を専門に作られている。
嵯峨野で生まれ育った守崎さんは、京都府園部市にある京都伝統工芸専門校(現在 大学校)で陶磁器の勉強をされ、卒業後、二年間大覚寺陶房を主宰される和泉良法氏に師事された。
その後、京都市工業試験場陶磁器コース専修科で釉薬全般について深く学び、修了後、嵯峨野工房を開窯され現在に至っている。
現在、守崎さんは母校の京都伝統工芸大学校では助手として、姉妹校の京都美術工芸大学では助教として生徒に陶芸の指導もされている。

 

 

 

そんな、釉薬に関して高い知識をお持ちの守崎さんが作られる焼き物は、様々な釉薬がかけられ焼かれた美しいものだ。
辰砂釉や天目釉、乳白釉、あるいは青磁釉など、どれを見ても、綺麗に発色している。
もちろん、全ての釉薬は守崎さん自らが調合されたオリジナルのものだ。京都市工業試験場の陶磁器コース専修科で学ばれた知識と、実験で焼かれた数多くの試験体(テストピース)に基づく知識が活かされている

 

 

「釉薬の発色は、窯によってぜんぜん違ってきます。電気窯で焼く場合とガス窯で焼く場合で違うのは当たり前で、同じ電気窯でも異なる窯で焼くと、発色が違って出てくる。
窯の焼き方でも変わってきます。」と、守崎さんは話される。釉薬は調合も大事だが、狙った発色で焼き上げるには窯の焼き方も非常に重要になってくる。
守崎さんは、還元焼成といわれる焼き方をされるのだが、この還元焼成とは窯の温度がある程度以上になった時点から、炉内をガスの炎で満たし、酸素濃度が低い炉内雰囲気にすることで釉薬の発色を促す。
釉薬によっては、窯の温度を下げるときにも、この還元状態を保つ、いわゆる「冷却還元」という焼成技法も用いられるそうだ。

 

 

 

 

作品を拝見すると、天目碗にかけられた釉薬の表面に茶色い結晶がいくつも析出した禾目(のぎめ)天目と呼べるようなものや銀青色の結晶が析出している油滴天目と呼べるもの、鮮やかな赤い色を呈する辰砂の器、透き通るような青緑色を発する器など、どれも実に美しい。
また、釉薬の乳濁が、まるで雪化粧をした木々で覆われた雪山の景色を創造させるような美しいものもある。この釉薬は黒天目と乳白釉を二重がけすることにより産み出される発色で、ご本人は「流天目」と名付けられている。そして、これら釉薬作品を目の当たりにすると、釉薬そのものの魅力で圧倒される思いだ。

 

 

守崎さんに作品を作られるときのコンセプトを訊いてみたところ「私の場合は、食器が中心ですから使いやすいもの、主役の料理が栄えるような器を作っていきたいと考えています。」という答えが返ってきた。
呉須や色絵の具をふんだんに使い、絢爛豪華な絵付けを施された皿などは飾り皿とされ、料理を盛ることを嫌う。豪華な絵が主役の料理の邪魔をするからだ。飾り皿は、工芸作品としてはその存在の意味を持つが、食器本来の機能性から考えると本末転倒のような性質を持つものと言えるのかもしれない。

 

 

 

守崎さんは、食器本来の使命を兼ね備えた、あくまでも料理を引き立たせる控えめな加色、それでいて美しい発色の器を作られているのだ。守崎さんの食器に料理が盛られ、写真掲載されている料理誌がいくつも存在することが、料理を活かす食器として守崎さんの作品が広く認識されている証であると思える。
守崎さんは主に展覧会で作品を販売されており、高島屋京都店、朝日陶庵(京都)では、定期的に個展を行われている。また、日本橋高島屋、池袋西武、新宿伊勢丹などの企画展にも出展されたことがある。作陶活動のみならず、京都伝統工芸大学校と京都美術工芸大学での教鞭も合わせ、これからもますます活躍されることと思う。

 

 

 

 

守崎正洋

1999年 京都伝統工芸専門校(現在 大学校)陶芸本科修了
1999年 以後二年間、大覚寺陶房にて和泉良法氏に師事
2002年 (株)たち吉主催『京都陶芸の新しい芽』入選
2003年 京都市工業試験場陶磁器コース専修科修了
2003年 京都、嵯峨野にて開窯 独立
2004年 伝統産業「京の若手職人」海外(イタリア)派遣事業に選出
2006年 2006『めし碗グランプリ展』入選
2008年 第26回『朝日現代クラフト展』入選
2012年 第10回『ローディ陶器コンクール』(イタリア)入賞
2012年 京都美術工芸大学工芸学部助教に就任

主な活動として・・・

2003年 京都高島屋美術工芸サロンにて初個展
2004年 新神戸ギャラリー田中美術にて個展
2004年 HANDICRAFTS BAZAAR
2005年 京都高島屋美術工芸サロンにて個展(二回目)
2006年 近鉄枚方店『暮らしのうつわ展』
2006年 日本橋高島屋『伝統家具とクラフト展』
2007年 近鉄枚方店『近鉄枚方のアートフェスティバル』
2007年 京都高島屋美術工芸サロンにて個展(三回目)
2007年 第26回『朝日現代クラフト展』入選
2008年 和のぎゃらりー昌の蔵(京都)『京の現代工芸 芽ぶきのころ』
2008年 朝日陶庵アートサロンくら(京都)にて個展
2008年 京都匠塾のお店『いぶき東山』(京都)にて個展
2008年 ギャラリー「一ツ家」(京都)『京の陶 四人展』
2008年 西武池袋店『京都からの風-京都若手工芸作家による作品展』
2008年 近鉄阿倍野店『手わざ手しごと展』
2008年 ギャラリーたちばな(奈良)にて個展
2008年 Mirrors Usa(愛媛)『冬のプレゼント』
2009年 伊勢丹新宿店『大人のひな祭り』
2009年 朝日堂ものづくり工房(京都)『若手作家の伝統工芸展』
2009年 大阪髙島屋『陶・ガラス・布 三人展』
2009年 ギャラリーたちばな(奈良)にて『京の陶 三人展』
2010年 ギャレリア ピアノピアーノ(神戸)にて個展
2010年 カフェダイニングnear(京都)にて『おもし2010』(京都匠塾選抜三人展
2010年 朝日陶庵アートサロンくら(京都)にて個展(二回目)
2010年 伊勢丹新宿店『かわいい色とサイズの器 ~箸置き50人展~』
2010年 都島工芸美術館にて個展
2010年 ギャラリーたちばな(奈良)にて『京の陶 小野空女・守崎正洋二人展』
2011年 『MAISON ET OBJET メゾン・エ・オブジェ』(パリ)
2011年 伊勢丹新宿店『モダンに楽しむ ひなまつりパーティ』
2011年 日本橋三越本店『京 たしなみ道具
2011年 伊と忠GINZA『京都伝統工芸BOX』
2011年 ギャレリア ピアノピアーノ(神戸)にて個展
2011年 『豆皿1000展』(伊勢丹新宿店・三越銀座店・日本橋三越本店ほか)
2011年 ジェイアール京都伊勢丹『ガラスと陶器』
2011年 『関西伝統工芸品スーベニアフェスタ京都’2011』
2011年 三越銀座店『日本のお米を美味しく食べる展』
2011年 京都髙島屋美術工芸サロンにて個展(五回目)
2011年 朝日陶庵アートサロンくら(京都)にて個展(三回目)
2012年 くらふとギャラリー集にて『第二回震災復興支援ギャラリー〈思い、形に〉』
2012年 ギャラリーカフェ京都茶寮にて『京の伝統工芸 新しい息吹』
2012年 HAND WORKS『motte』(京都)にて個展
2012年 Gallery FUKUTA(東京)にて『京のいっぴん展』
2012年 ジェイアール京都伊勢丹『母への小さなプレゼント15人展』
2012年 ギャラリーたちばな(奈良)にて『京の陶 小野空女・守崎正洋二人展』
2012年 『豆皿1000展』season-Ⅱ(伊勢丹新宿店ほか)
2012年 くらふとギャラリー集にて『工芸綯交(ないまぜ)十人展』
2012年 伊勢丹新宿店『手土産にしたい そば猪口』
2012年 大阪三越伊勢丹『秋の彩』

横山武司

2012.12.21 更新

中国で初めて焼かれた釉陶(上薬がかかった焼き物)は、青磁であるとの説もある。横山さんは、主にその青磁の器を製作されていて、食器と茶道具の両方を手がけられる。
釉陶は、古くは中国が殷(紀元前1600年~紀元前1028年)の時代からあるそうで、灰を水に溶かして、すっぽりと器にかけ1200度から1300度の高温で焼き上げたものだが、灰の中に、自然に含まれる鉄分によって、器の表面が青緑色もしくは緑色に発色する。これが青磁の器の原型だ。
横山さんは、この青磁の釉薬を祖父の時代から伝えられた割合で、自家にて調合されている。

 

 

その色合いは、単なる鉄分だけによる青緑色というものではなく、発色剤として微量のコバルトやクロムなども含まれた、青磁としては深みのある発色を呈する。
横山さんの御祖父の時代からの割合で、そのまま同じように調合されているとのことだが、やはり、その時代と比べて、現在では原料の質の変化や、原料によっては、そのものが今では手に入らないなど、昔のものとは焼き上がりの色合いが微妙に違ってくることは否めない。

 

 

 

横山さんは、「原料の質の変化で当時の青磁の色合いと違ってくることは、それはもう仕方がない事ですね。おじいさんの調合ノートを見ても、当時の呼び名で書いてある原料もあり、今となっては、これは何だ?と、思うような不明な原料もあります。」と、笑って言われる。

横山さんの作品で、特に目を見張ったのは、器の側面全体に大胆に透かし彫りを施した作品で、その丁寧に彫られた模様から長い時間をかけて、じっくり作り上げられたことが伺える逸品である。「透かし彫りの作業は、まだ器が土から乾ききっていない、柔らかいうちに彫ってしまわないとできないのです。」と横山さんは言う。

 

 

 

全面に透かし彫りを施す作業は、短時間で完結できないのは明らかだ。湿った布で器を覆い、乾ききらないように面倒を見ながら、彫りの作業を丁寧に進めるのである。この透かし彫りの作品は、中国の耀州窯で焼かれた青磁の透かし彫りの作品に通ずるものを感じる。
横山さんの作品の中には、青磁以外にも黄磁の作品もあり、こちらは中国の郊壇官窯で焼かれていた「米色青磁」に通ずる雰囲気を感じる。浮き彫りで草花模様を施された白磁の器も実に美しい。

 

 

 

浮き彫りによって模様を施され、透明釉(白磁)や青磁の上薬をかけられたものは、その模様の輪郭に透明釉が溜まり、陰影が生まれる。この陰影の部分を陶磁器では影青(インチン)と呼ぶのだが、横山さんの作品はこの影青の美しさが清々しい。
「私がやっているような、こういう仕事は、継いでいこうという若い人が、今はほとんどいません。面倒な作業ですからね。」横山さんは残念そうに言われるが、「簡単に量産できる作品ではありませんから、知り合いやお得意様など、個人的につながりのある方に直接お売りさせていただいています。」
横山さんの作品は、心を込めて作られたものが、横山さんご自身の手で直に、購入者に手渡される。正に、購入者にとって他にない逸品なのである。これからも、長く作品造りに励まれるよう願いたい。

横山武司

京焼・清水焼は永く王城の地、京都に江戸時代初期、仁清・乾山などの名工が輩出して、
その祖を築き、その永い伝統が現在に続いています。私は、この清水焼のなかで、
二代目瑞祥の薫陶を受け青磁、黄磁など、もっぱら色釉の磁器に独特の境地をだしています。

1956年     京都市生まれ
1974年     京都市立日吉ケ丘高校卒
1979年     家業に従事
2006年     伝統工芸士に認定される
京焼・清水焼商工会議所会頭賞
京都青窯会作陶展京都新聞社賞
京都商工会議所会頭賞

京焼・清水焼 瑞祥窯 伝統工芸士 横山武司

〒605-0976 京都市東山区泉涌寺東林町35
TEL:075-561-6263