京谷浩臣・美香

2016.01.17 更新

IMGP9307 京都市内とは言っても、左京区岩倉にある京谷浩臣さんと美香さんご夫妻の工房、「晋六窯」は、いくつも繰り返す、きつい勾配の坂道を上がった山中にある。街中から少し離れただけで、周りに自然を感じる環境となる。
工房ではご主人の浩臣さんと奥様の美香さんのお二人にお話を伺った。ご主人の浩臣さんは、芸術大学で図書館司書になるべく勉強をされていたのだが、焼き物 好きの父親の影響もあり、卒業後は陶芸技術の習得のため、京都府陶工職業訓練校に進まれた。奥様は、同じ訓練校の同期で、ご主人が成形科、奥様が図案科で 学ばれていて、そこで出会われたそうだ。
現在、ご夫妻でされている「晋六窯」は、奥様の祖父がされていた窯元で、以前、工房は京都市東山区の日吉町にあったのだが、奥様の実家でありご夫婦が生活されている岩倉の家から通うのに遠いことから、工房も岩倉へ移転された。

 

 

IMGP9242 晋六窯で焼かれる作品の中でも最も注目されるのは、その個性的な形状で知られている「ペリカン急須」と呼ばれる急須で、 その名の通り大きな注ぎ口がペリカンのくちばしのように見える形状が特徴の急須だ。この「ペリカン急須」は、美香さんの祖父が、お茶葉が詰まって、お茶が 出にくくなるのをなんとかならないかとの要望に応えて、考案された形状のもので、50年も前に考えられて、世に出されたものらしい。
口が大きいことから、お湯を口から注ぐこともでき、急須を振って茶濾しにつまった茶葉を戻す必要がなくなり、快適にお茶を入れることができる。また、その 大きな口に急須の蓋を乗せることができるため、再びお湯を入れる際に、蓋をテーブルにおいて、蓋についた水滴でテーブルを濡してしまうことがないとのこ と。普通の急須にはないユニークで便利かつ快適な使い方ができる急須なのである。
このペリカン急須は、晋六窯の作品の中では最も広く知られたものだと考えてもおかしくないのだが、奥様の美香さんは
「ペリカン急須は雑誌などでも、もう過去に何度も取り上げていただいているので皆さんに知ってもらっていると思い込んでいたのですが、そんなことは全然な くて、先日もイベントで展示販売をしたときに、「初めて見る。」とか、「変わった形の急須ですね。」など、多くの方に言われました。見慣れない形の急須と いう印象を受けるためか、数個売るだけでも大変でした。」

 

 

変わった形で一見、不格好な急須にも見えるが、お茶を入れる道具としての急須という機能性の面から見れば非常に理に適った形で、どこにでもある普通の急須に比べれば使い勝手を考えた故に辿り着いた究極の形の急須とも言えるのである。
このペリカン急須は、晋六窯工房にある店舗にずらりと並べて販売されているし、晋六窯のウェッブサイトからも購入することができる。

京焼窯元 晋六窯

また、美香さんは陶磁器や陶磁器の業界に関してのお話しを大変熱く語って下さった。
「陶器が売れない時代になっているので器そのものを売るというよりは、陶芸教室や陶芸体験など陶芸のスタイルを売るとでも言えるようなやり方に陶業界は変 わってきている状況下にあると思いますが、市場開拓ということで考えれば、まだまだキャパシティーは未開拓だと言えると思います。陶芸教室や陶芸体験を売 りにしていくことも大切だと思いますが、私たちは、やはり物作りですから作品を売っていくのが本道だと思いますね。」
正に、言われるとおりで頷くしかないご意見である。

 

 

IMGP9242-2  「私たちが日ごろ、どういう思いで作陶しているか、清水焼はどれだけの手間をかけて作られているものかをちゃんと伝えて いかないと。そして、この器を使うことによって、どのような楽しい生活ができるのかや、より良い生活ができるかということを説いていかないと駄目だと思う のです。作品が自ら語ればよいのですが、見た人は説明がなければ、ただの陶器にしか見えないと思います。作品を見ていただいたときに、単に作品を見るだけ でなく、その先にある、より良くて楽しい生活が見えるように説明をしてあげれば陶器もまだ売れる余地は充分にあると思います。そうやって個々の窯元が売っ ていかないと、私たち個人の問題だけでなく、京焼・清水焼そのものの衰退を招くことになると思います。」
美香さんのこの意見に対して、ご主人の浩臣さんは、
「若い人が陶芸教室や陶芸体験などを通して陶芸に触れることで、こんな風に作るのかと理解してもらい、京焼・清水焼の導入になれば、それはそれで良いこと でしょうね。そして、そのことがきっかけとなって、陶芸の道に入ってくれれば、なお良いことでしょうが、作った物が売れなくて陶芸家になっても生活ができ ないとなれば、陶芸を生業にしようと考えることもないでしょう。やはり、私たち現行の窯元が頑張って売らないと伝統を引き継いでもらうことも期待できませ ん。」
この後継者の問題は京都における伝統産業全般に関して大きな問題と言えるが、京焼・清水焼も例外ではない。

 

 

 

IMGP9509  「京都府や京都市も行政が若い人向けに補助金を出して、伝統産業を受け継いでくれる人を応援してくださっています。これ はとてもありがたいことですが、未来永劫に補助金をいただけるわけではありません。補助金支給が無くなっても自らの力で売っていける土壌を自分自身で作る ことが大切です。その土壌づくりをバックアップしてくれるシステムがあることの方が、必要なのではないでしょうか。昔のように個々の窯元に力があった時代 なら、そういうバックアップを窯元ができたのでしょうが、今の時代、窯元自体に職人さんを雇う力が弱くなっている現状では、新しく陶業界に入ってくる若い 人たちにとっては厳しい環境なのでしょうね。」
清水焼に限らず、伝統産業とされる業界は、どこでも新しい世代への移行が難しくなっている。これも時代の流れと言ってしまえば簡単なことだが、何世代にも渡って脈々と受け継がれてきた伝統を絶やしてしまうとなれば、なんともやるせない、忸怩たる思いがある。

 

 

 そんな現状であっても、京谷さんは希望を持って前へ進むべきと語られる。
「桃山時代に焼き物を作っていた人は、 その時代の世の中に求められていた焼き物を作っていただろうし、江戸時代、明治時代になってもやはり、その時代の世の中が求める焼き物を作っていたのだろ うと思います。ですので、平成の時代に焼き物を作っている私たちは、この平成の世の中が求める焼き物を作れば良いと思うのです。陶磁器が売れなくなった今 の時代でも、このような陶器があれば欲しいと思えるものがあるはずです。」
食器という面で陶器を考えてみても、時代時代で食の様式が変化する。現代では、江戸時代以前に比べて、圧倒的に洋食が家庭でも外食でも食べられるように なっていることは言うまでもないことで、そういう食のスタイルに合わせた食器が当然求められる。器に施される装飾に関しても、今の時代が求めるものがある に違いない。

 

 

IMGP9460 「これは先日新聞で見たのですが、西陣織メーカーが、日本刀を題材にした人気インターネットゲームの関連グッズとして、がまぐちなどの小物を製作し、2万個の大量受注につながったそうです。ネット上で話題になり、人気に火が付いたとありまし た。今、アニメのキャラクターの関連グッズが人気で、これもまた、今の時代が求めるものの一つと言えると思うのです。伝統を受け継ぐということは、昔から 使われてきた技法を受け継ぐということに等しいですが、なんら応用もなく昔にデザインされた同じ物を何の考えもなしに作っていれば良いということではない と思います。陶磁器も今の時代に求められるデザインを取り入れて作っていくことがないと、現代の世の中に受け入れてもらえません。そのための感性を磨く努 力を惜しまないことが大切なのでしょうね。」
自分たちが作る焼き物に関しても陶磁器の業界に対しても、これから先のことを大いに見据えて自らの仕事を考えておられる姿勢を京谷ご夫妻から強く感じ取られたのであった。

 

 

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晋六窯

京谷浩臣

1963年  兵庫県姫路市に生れる
1985年  大阪芸術大学芸術計画学科卒業
1986年  京都府立陶工職業訓練校成形科修了
1987年  同 専攻科修了
4月より  ㈱平安春峰にて煎茶器製作に従事
1991年  晋六陶房に従事の傍ら自身の作品を制作。現在に至る
2014年  京焼・清水焼 伝統工芸士に認定

京谷美香

1960年  辻 勘之の長女として京都に生れる
1981年  京都精華大学短期大学部卒業
同  年  株式会社 京都銀行入社
1985年  株式会社 京都銀行退社
同  年  京都府立陶工職業訓練校 図案科入学
1986年  京都府立陶工職業訓練校 図案科修了
父の元 晋六陶房にて従事
1988年  作陶グループ『職器流』を結成 以後毎年作品展を開催
1995年  第50回記念姫路市美術展に入選
2001年  法人化 現在に至る
インターネットサイト「晋六陶芸館へようこそ!」をオープン
2005年  オンラインショップの本サイトをオープン

有限会社 晋六
〒606-0015
京都市左京区岩倉幡枝町322番地
TEL:075-721-3770
FAX:075-721-6237
E-mail:kyoto@shinroku.com
フェイスブック:https://www.facebook.com/kyoto.mika
手作りの陶器を製造販売:http://kyoyaki.net
毎日使う器を作ろう!陶芸教室:http://shinroku.com

伊藤竜也

2015.10.05 更新

IMGP8066大正時代から続く、清水焼の陶業地である日吉地区で作陶をされる伊藤竜也さんを今回は訪ねた。伊藤さんは、高校を卒業さ れたあと、ロクロの技術を身につけるために京都府立陶工高等技術専門校に入られた。ただ、伊藤さんの場合は、家業が清水焼の窯元であり、子供の頃からロク ロを回して器を作るということはされていたとのこと。
「小学生の頃は、よくロクロをしていました。中学の頃と高校生の頃はあまりしませんでしたが、それこそ、小学生の頃は何度もロクロを前に座って、遊びの延 長という感じでやっていました。遊びでロクロを回していたという感覚もあり、特に、父に教わることはなかったのですが、父の見様見真似で手さばきを工夫 し、それなりの器は作っていました。」
いわゆる、“門前の小僧習わぬ経を読む”といったところである。
高校を卒業されたあと、陶工技術専門校に入られる前、半年ほどの間準備期間があり、その時は父親に付きっきりで教わりながらロクロの練習をされた。その後、陶工技術専門校で本格的に技術を習得されたのである。

 

 

DSCN7147伊藤さんは陶工技術専門校に2年通われ、1年目はロクロ技術の修練、2年目は釉薬研究にウエイトを置かれて学ばれた。現在、伊藤さんが焼かれる作品は、陶工技術専門校での釉薬研究の成果を元に調合される天目釉がかけられたものだ。
天目釉であっても、ただ単に、全体的に黒く発色する天目釉ではなく、乳濁色を帯びているというのか、黒色をベースに、黒以外の発色が各種入り混ざったよう な複雑な表情をもった釉薬である。複雑な表情と言っても見て受ける印象は難解というものではなく、窯で焼かれる時に色々な要素から自然に生み出された色 で、その発色が実に美しい。
それも、同じ大きさで同じフォルムの器でも、それぞれに発色の状態が違っていて、全く同じというものがない。これは、窯で焼かれる時に、それぞれの器が窯 の中の置かれた位置の違いから起きる、還元炎の当たり方の違いや釉がけの時に個々の器に生じる釉薬の厚みの違いなどから、そういった個性が生まれるのであ ろう。
当然ながら、焼成時の偶発性から生み出される作品の個性であって、それであってこそ、一つ一つ、個性を持った作品であることが面白いのである。

 

 

DSCN7160 ただ、天目釉というと、鉄分が比較的多い赤土系の陶土で作られた素地に施されていることが普通はほとんどだが、伊藤さんの作品は素地が白いものに天目釉がかけられている。
「私の作品は、磁器の素地に天目釉をかけています。私自身もともと、陶器よりも磁器の方が好きで、磁器の素地にかけて、天目として発色する釉薬を研究して、この天目釉を作り出しました。」
通常、陶磁器を焼く時の焼成温度は、陶器よりも磁器の方が高いことが多い。それ故、陶土の素地にかける天目釉よりも、伊藤さんの作品のように磁器にかける天目釉は融点が高い調合にしなければならない。
「家が磁器を作る窯元ですので普段焼いている、磁器を焼く窯に一緒に入れて焼ける天目を目指しました。陶器を焼く窯よりも温度が高いですから、赤土素地で すと素地自体にブク(温度が高すぎて土に含まれるガラス成分が溶融し、素地が部分的に発砲する現象)が出たりします。ですので、素地も磁器を焼く窯に合わ せて磁土で作ったものになりました。」

 

 

IMGP8094 伊藤さんは、磁器がお好きで磁土ベースの天目釉になったと言われるが、天目釉を磁土に施すことによって思わぬ好結果が得られているということもあるように思う。
伊藤さんの天目釉のように、乳濁を起こす釉薬は、磁土に施した時は綺麗な乳濁になるが、同じ釉薬を陶土に施すと乳濁を起こさないという現象があったりする。
また、器一つ一つに表情が違う焼き上がりになるのも、釉薬の厚みによる微妙な差異から出るものだと仮定すれば、地色が白い磁土に施された天目釉であるが故、発生する個性ということも言えるのではないだろうか。
陶工技術専門校を修了されてからは、家で作陶を続けて現在で5年目になるそうだが、陶工としてのキャリアが5年というのは、一般的には陶工として、まだ新 米の部類に入るかもしれない。しかしながら、5年目にして、これだけの作品を焼き上げられているのはすばらしい。
伊藤さんは、この天目の作品で、平成26年に開催された「日吉開窯100周年記念コンペティション」において最高得票数を獲得され「一般投票で選ばれる最優秀グランプリ賞」を受賞されている。

 

 

IMGP8212 伊藤さんにこれからの作品造りの方針についても尋ねてみた。
「新たに、黄色味がベースの釉薬を研究したいと考えています。清水焼窯元としての家の作風は、染付のものが主流なのですが、私自身一人だけで手がける作品となると、釉薬だけで表現できるものになると今は思っています。」
今後も、釉薬のバリエーションを増やし、作品の幅を広げていこうと伊藤さんは考えておられるようだ。
「今の仕事のスタイルとしては、主に家の窯元としての仕事をしながら、時間を作っては自分の作品造りに励むというやり方です。とにかく今、仕事をしていて、とても楽しいです。今が一番、毎日が楽しくて充実しているように思います。」
職人としても、一人の陶芸家としても伊藤さんは今、ノリに乗っているといったところなのであろう。楽しいと感じて作っておられる作品には、その思いが一つ一つの作品におのずと、反映されてくると思う。
伊藤さんは現在、力を入れて作っておられる天目釉の作品で、初めての展覧会を12月に京都陶磁器会館の2階ギャラリーで開催される。
希望に満ちた伊藤さんの作品に喜々としたものを感じられる展覧会になるに違いない。陶芸家として、まだまだこれからの伊藤さんの活躍に大いに期待する。本当に、心から頑張っていって欲しいと願う。


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紫峰窯  伊藤竜也

1988年 京都に生まれる
2009年 京都府立陶工高等技術専門校 入学
2011年 京都府立陶工高等技術専門校 修了
修了後、父(紫峰)に師事する
2014年 日吉開窯100周年記念コンペティション 一般投票で選ばれる最優秀グランプリ賞受賞

〒605-0953
京都府京都市東山区今熊野南日吉町76番地136
TEL/FAX 075-541-7159
E-mail:ta05tu10@gmail.com

 

 

 

 

加藤清昌

2015.03.30 更新

 「職人仕事に高い芸術性と魅力を感じて、私も絵付け職人として頑張りたいと思うようになりました。」と語られる加藤清昌(かとうせいしょう)さんは、京都市東山区泉涌寺地区で工房を構えて作陶をされている。今は、ほぼ絵付けを専門として日々の仕事をされているが、高校を卒業されたあとに進まれた京都府立陶工職業訓練校(現、京都府陶工高等技術専門校)では二年間、ロクロ成形を学ばれた。しかしながら、父である先代の加藤清昌氏がロクロの専門であったことや、良い作品を作り出していくためという理由から、絵付けの必要性を強く感じ、ロクロから絵付けの仕事へと移行されていく。絵付けの技術に関しては陶絵師の水谷光年氏に師事されて絵付けを習得されていった。 加藤清昌さんは、二代前であるお祖父さんが、瀬戸から京都に移られて、清昌窯を開かれ、現、加藤さんで窯元としては三代目となるが、現在は煎茶器を主とする茶陶を専門として作陶されている。父である先代清昌さんが作られる白磁の素地に色絵で絵付けをされて作品に仕上げていかれるのだが、その施されている絵付けが、非常に細かくて緻密な絵となっている。

 

 

 

 「最近の陶芸をやっている若い人は、絵を描かないように感じるのですが、どうなんでしょうかね。手間がかかり、熟練した技術を要する絵付けよりも、奇抜な形状の物を作品としたり、絵よりも釉薬で勝負するというようなものが若い人の作品には多いような気がします。私は毎年、日本煎茶工芸展に作品を出品しているのですが、年々、もっと良い物をと求められるようなところがあって、それに応えるべく、私自身の絵付けや他の装飾技術も高めていったと思っているんです。」 加藤さんが、磁器の素地に施される絵付けは、染付、色絵、交趾など複数の技法を用いて行われる。職人技として一つの技法を習得するだけでも、かなりの努力を必要とするところを複数となれば、加藤さんの技法習得のための修練は相当なものであったに違いない。 「父親がロクロをして作った素地に絵を付けますが、高齢にもかかわらず、今でも元気で仕事をしていてくれますので、私の仕事も成り立っていると、父親には感謝しています。清昌窯の作品として作っているものは茶道具なのですが、その茶道具の中でも煎茶道具が専門です。ですので、比較的小さな物ばかりを制作しています。物が小さいので高齢の父親でも、今でもロクロ仕事が続けられる。そういう意味でも窯の作品として、茶道具を選択したのは正解だったと思っています。」

 

 

  日本煎茶工芸展に出品されている、加藤さんの作品が載っている図録を見せていただいき、実際に出品された作品そのものも見せていただいたが、良いものをと求められ作り続けてこられたその成果が見て、よくわかる素晴らしい作品である。加藤さんの高度な絵付け技術をもってして施された絵はもちろん、素地自体に加えられた土盛りの成形技法も加藤さん独自の高等技法だ。普通は、素地そのものを作った後に、泥状にした土を素地に盛ると、盛った泥が乾燥する段階で、必ずといって良いほどひび割れができたり、ひどい場合には、盛った土が乾燥による収縮で素地から剥がれてしまったりするが、加藤さんの作品には、それがない。 「この土を盛るやり方は、私の得意技の一つでもあるんですが、ひび割れや剥がれが起こらない盛り土の配合を、随分と何度も繰り返し研究しました。」 日本煎茶工芸展出展期間の数ヶ月前から、出展作品の制作に取りかかり、納得のいく作品ができあがるまで、神経をすり減らしながらでも緻密な作業を繰り返して作品を仕上げていかれるのだそうだ。

 

 

 加藤さんの普段の仕事でも、作品に込める思いは強いものがある。特に、絵付けに関しては一つの技法に留まらず、染付、色絵、交趾など、貪欲なまでに複数の技法を駆使して数々の作品を作られる。 「私のように色々な絵付け技法に手を出すのではなく、一つの技法に執着して極めた人が描かれる絵は凄味を感じるものだと思いますが、そうやって色々な技法に挑戦することができる自分自身の環境がありがたいと感じて仕事をすることが大事だと考えています。」 複数の技法を用いて施される加藤さんの絵付けには、加藤さん独自の世界観が反映されたデザインになっているものが多い。 「私は煎茶器を専門としていますが、最近は器の一周ぐるりと全面に絵を付けてはいけないのではないかと考えるようになりました。器にも表と裏があってしかるべきということや、例えば煎茶の急須なら口のところにくるべき絵というものがあるのではないかと考えるようになっています。特に山水の絵などは、そういう観点が基本にあって、絵を付けないといけない。なぜなら、山水画には、それを見て物語を感じてもらえるようなものでないといけないからです。」 絵付けという作業が、単なる模様を施す作業ではなく、人物画なら人の動き、風景画なら季節というような、器に施された絵からそういう息吹のようなものを感じる絵を付ける作業であるべきなのだろう。

 

加藤さんは、自らの仕事に関して、これからの展開についての話もして下さった。 「海外では、日本酒が注目されていて人気が高まっているそうです。イギリスの出身で現在アメリカでもデトロイ・トテクノのミュージシャン、DJとして活躍しているリッチー・ホーティン(Richie Hawtin)という人が間に入って、海外で京都の伝統工芸品をアピールしてもらおうという事業が京都市によって「KYO-MONO is COOL!プロジェクト」と題して始まりました。先日、私はその事業の会合で、リッチーさんとお話をさせていただきましたが、海外での日本酒ブームに乗って、お猪口や杯などの日本の酒器も海外で売っていこうという意気込みをリッチーさんのお話から感じました。これは、日本の焼き物が、これからの展開として目指すべき方向の一つの動きであると思います。これからは、海外にも目を向けて、日本の焼き物をアピールしていかないと、いけないのではないでしょうか。」 伝統技法を重視して、作品造りに真摯に取り組まれるだけでなく、海外展開にも目を向けて先に進もうという姿勢も持っておられる。加藤さん仕事は、そういう意味では温故知新的なものがあるのかもしれない。加藤さんのこれからの活躍が楽しみだ。

 

 

 

三代 加藤清昌

1967年 京都市に生まれる
1988年 京都府立陶工職業訓練校専攻科修了
1989年 京都市工業試験場陶磁器研修コース本科修了
二代、加藤清昌の下で製陶に従事する
陶絵師の水谷光年先生に絵付けを師事
2010年 三代、加藤清昌を襲名
日本煎茶工芸展 工芸協会賞受賞
2013年 京焼・清水焼展 京都府酒造組合連合会会長賞受賞 審査員特別賞受賞
2014年 日本煎茶工芸展 工芸協会賞受賞

煎茶工芸協会正会員

〒605-0976
京都市東山区泉涌寺東林町35
075-561-8982

犬塚陶房

2014.12.13 更新

京都府宇治市内ではあるが、宇治駅よりも北東方面に、直線距離にして3キロほど離れた山の中にある炭山地区で工房を構えられる犬塚陶房を訪れた。

工房名は「犬塚陶房」であるが、お話を伺ったのは奥様の柴田美智子さん。「犬塚陶房」はご主人が独身の時に立ち上げられた工房で、当時の姓の「犬塚」から名付けられたそうだ。結婚により奥様の姓の「柴田」を名乗られており「犬塚勇」氏はそれを期に(号)柴田轆轤とされた。
ご主人の柴田轆轤さんは、炭山地区が現在のような陶芸作家や窯元が集まる陶業地となったきっかけを築いた先導者の河島浩三氏の下で修行をされていた。
ご主人が河島氏の下に弟子入りされた当初は、京都市内の東山五条に河島氏の工房があったそうだが、京都市内では薪窯を条例で焼くことを禁止されたことや、家屋が密集する京都市内よりも広々とした所で作陶を続けようという河島氏の考えから、宇治市炭山の地に行き着いたということらしい。

 

 

この河島氏の思想に賛同した作家や窯元がいくつもあり、何軒もの窯元が同時期に京都市内から宇治市炭山に工房を移した。
「主人も、師匠の河島先生に声掛けをいただき、炭山工芸村(当時)で開窯し、現在もこの地で自身の工房を構えています。」

河島氏の工房での修行を終えられて後、より多くの陶芸技術を身につけたいとの考えから、日本六古窯の一つである愛知県常滑市の常滑焼の窯元に入られた。
常滑焼では、その伝統的な焼き物も生産されているが、京焼・清水焼とは違って、古くは上下水道に使用される陶器製の土管や建築資材としてのタイルの生産なども盛んで、焼き上がった物の規格や寸法の精度が求められる工業陶器の技術が高いことで知られている。

ご主人の柴田轆轤さんは、京焼の河島氏の下で食器の作陶技術を学ばれ、常滑で工業製品的な陶業技術を学ばれたことになる。

 

 

お話を伺った柴田美智子さんは、ご主人と結婚されるまでは、店舗設計のお仕事をされていた。
ご主人と結婚されたことで、奥様の美智子さんも陶芸の世界に入られることになったのだが、作品を作られる際にも、店舗設計のお仕事をされていた時の経験や知識などが、陶芸に役に立っているそうだ。
「新作を作る時は、私がまず大まかなフォルムやデザインを考え、主人が主たる成形をします。それで出来た生地に娘が絵付けしていくという親子三人の共同作業で作っています。つまり、犬塚陶房の作品は私と主人、そして娘の三人の合作です。」と、美智子さんは話される。
美智子さんは、最初に灯籠の作品を見せて下さった。

 

 

 

 

「これは2003年の3月から始まった、京都・花灯籠の企画で制作の依頼を受けて作った灯籠です。京都の窯元は、予め規格が決められた工業製品的な焼き物を作ったり、ある程度以上の大きなものを作ったりすることを得意とされる方が意外に少ないのです。主人は常滑で修行をした経験がありますから、こういう灯籠などの大きな規格の物を作るのが得意でしたので、犬塚陶房に白羽の矢がたったようです。」
電球で明かりを灯す灯籠は、電球を付ける器具を組み込むための穴や電線を通す穴を灯籠に開ける作業を必要とする。
特に電球を付けるソケットを固定するための穴は、焼き上がりの寸法がきっちりとソケット台座の径に合致するように収縮を計算して、焼き上げる前の素地に開けなければならない。
こういう技術をご主人の柴田轆轤さんは常滑で習熟されたのだ。

 

 

京都市の企画で始まったこの「京都・花灯籠」は、灯籠を製品化する前に、できあがりの灯籠の正確な図面を先に提出する必要があったそうだが、その図面は店舗設計の経験がある奥様が製図されたとのことで、結婚前のお仕事の経験が生かされたのだ。
「京都・花灯籠」で制作された灯籠を初めとして、後にシリーズ化されたいくつかの灯籠の作品が犬塚陶房には展示してあるが、円筒状の二重構造になった灯籠は、外側の筒がクルクルと回せる仕組みになっていて、明かりの光度を調整できたり、内側の筒に施された絵が見えるように窓枠を合わせられるようにできたりという工夫がなされている。
灯籠以外も、もちろん、ご主人が河島陶房で修行をされた時に習熟された食器類の作品も数多く作られている。

 

 

中でも、まず目を惹いたのは、これぞ辰砂と言えるような赤く発色した器類であった。
「辰砂は、もっとたくさん焼きたいと本当は考えているんですが、やはり、銅を発色剤としている辰砂釉は、高温になると窯の中で銅がある程度揮発して、隣に置いた器に色移りするので、辰砂以外の作品と一緒には焼けません。辰砂だけを焼く専用の窯がほしいですね。専用の窯を築いたら、辰砂の作品をどんどん焼きます。」
と、美智子さんが話されるように、銅を発色剤とする辰砂釉や釣窯釉は窯の中で高温になると揮発し、周りの器の釉薬に溶け込み、周辺の器の一部を赤く発色させてしまうことがある。

 

 

故に、これら銅を発色剤とする釉薬を嫌って、焼くことを避ける窯元が多くなっているのが事実だ。美智子さんが希望されるように、専用の窯で辰砂や釣窯の作品をもっと焼かれて、発表してほしいと願う。
犬塚陶房の作品には、いわゆる土物の陶器の作品だけでなく、半磁器の作品もある。白生地の器に下絵用の色絵の具で彩色された作品が、なんとも色使いが優しくて、可愛らしく、娘さんが描かれた絵が女性らしい雰囲気を醸し出している。絵の題材として取り上げられているものも、バンビやウサギ、草花などであることも女性らしく、メルヘンチックな世界観を持っている作品と感じる。
「この作品に使っている下絵の具は、陶芸材料店で売られているものですが、そのままでは定着や発色が良くないので、助剤や釉薬も犬塚陶房で研究しました。」

 

 

絶妙に調合を施された絵の具が、うまく上薬に溶け込み、優しい色使いとなって、作品を色づけされている。なにしろ、独特の世界観を持った作品群で、正に犬塚陶房オリジナルであり、他の窯元の作品には類を見ない作品と言えるだろう。
半磁器の作品の中には、呉須によって染付の絵付けを施されたものもある。日本庭園に置かれている石灯籠のような形をした染付の作品は、四つに分かれる構造になっており、実は、そのうちの二つがお皿、一つが湯呑で、組み合わせると灯籠になるといった、面白い、遊び心を盛り込まれた作品となっている。

 

 

犬塚陶房の作品は土物もあり、白ものもあり、絵付けに関しては、下絵の色絵のものがあり、上絵の色絵のものもあり、また、染付もありと、実にバラエティーに富んでいる。
成形の技術はもちろん、デザインやそれを器に施す絵付けの技術、どれを取っても高レベルでないと、これほどまでのバリエーションは持てないだろう。
下絵の色絵の具を用いて可愛い動物や草花などを描いた作品には、その優しくて暖かい雰囲気の絵から、親子で焼き物を制作されている犬塚陶房の、それら作品に家族愛さえも感じる。
家族全員の力を合わせ、日々の研鑽を重ねられて、豊かな犬塚陶房作品が産み出されていくのだ。
これからも美しくて、見て楽しくなるような、様々な作品を作り続けて行かれることと思う。

 

 

 

 

 

 

柴田 轆轤

1947年 京都市中京区に生まれる
1962年 河島浩三陶房に入門
1965年 愛知県常滑市の加藤嘉明氏に師事を受ける
1967年 三重県四日市市の三位陶苑に勤める
1969年 協同組合・炭山工芸村にて独立、犬塚陶房を開設
1970年 新陶人に入会
1978年 以来、京都陶磁器協同組合連合会「京焼・清水焼」展覧会に出品し、数々の賞を受賞
1991年 ギャラリー犬塚を開設
1998年 「犬塚 勇」改め雅号「柴田轆轤」とす
2002年 京焼・清水焼伝統工芸士に認定される

 

犬塚陶房 柴田轆轤

〒601-1395
京都府宇治市炭山久田21-1
TEL 0774-32-2056
FAX 0774-32-5794
E-mail:inuzukatoubou@rouge.plala.or.jp

森里龍生

2014.10.20 更新

 

 清水焼の本場、東山五条で作陶される森里さんが作られる焼き物は、呉須のグラデーションが美しい発色を放っている。この陶磁器の絵の具である呉須の発色の中心になる鉱物はコバルト金属で、還元焼成で焼き上げると、いわゆるコバルトブルーに発色する。呉須は、酸化コバルトとカオリン(粘土の一種で、化学成分的にはアルミナAl2O3とシリカSiO2の化合物)を混合して、1200度程度の高温で焼くと元は黒色であったものがブルーに発色する「焼き抜き呉須(または海碧とも呼ばれる)」というものになる。
この焼き抜き呉須に鉄分やマンガンなどを加え、通常、焼き物の下絵の具として使われる呉須になるのである。焼き抜き呉須の状態のものは絵の具として使うと非常に鮮やかなブルーに発色するが、融点が高く下絵の具としてそのまま使うのは、やや不向きなため鉄分やマンガンを加えて融点を下げる。鉄分やマンガンの量が多いと、それだけ融点は下がるが、発色は黒っぽくなる。
これらの成分が自然に含まれていて、天然で産出するもので代表的なものが、中国で過去に採掘されていた「唐呉須」といわれるもので、そのままで陶磁器の絵の具として活用でき、格調高いブルーに発色するが、唐呉須などの天然に産出する呉須は枯渇してしまっているため、現在は各種の鉱物を調合して人工的に呉須が作られる。森里さんが使われる呉須も森里さんにより、独自に調合されたもので、どちらかというと青味が強い発色をする、唐呉須に近い色味であるように感じる。

 

 森里さんは高校を卒業された後、京都府立陶工職業訓練校の成形科と専攻科に、二年にわたって学ばれ、ロクロを中心とする成形技術を習得された。陶工訓練校を修了後は、日展作家として活躍された、故、加藤巖氏に8年間師事され、染付磁器を習得される。日展会員であった加藤巖氏の作風は、今では手に入らない唐呉須を用いた染付の磁器をテーマとしていたもので、呉須のグラデーションが美しいものであった。
「加藤巖先生に師事したことで、私の作品も染付磁器のものになったといえると思います。先生に作風を伝授していただいたことが私のスタートだったのですが、今でも、その作風は一貫して変わらないのです。」
森里さんの呉須による作品は、いわゆる「ダミ」と呼ばれる地塗りの技術を活用して素地に色を載せていく作業をされるのだが、先に「毛掘り」と呼ばれる、細い針金を用いて毛のように細い線で絵の輪郭を描き、その中を呉須で地塗りする、輪郭の中を“ダミ”る技法なのだ。その地塗りであるダミも、森里さんはダミ筆に呉須を含ませた後、筆の先に呉須の溶剤であるお茶を吸わせてから塗る、ぼかしの技法を応用されている。

 

 この、ぼかしの技法によって描写されるグラデーションが実に美しい。作品の中には、呉須によって描写された絵付けと釉薬を組み合わせたものもあるのだが、どの作品も呉須による染付は一貫した森里さんの作品のテーマとなっている。
「最近、呉須も塗るそのやり方によって色が変わってくるということが、少しずつわかってきたように思います。塗り方によってある程度の調整ができるようになってきましたから、基本的に呉須を選ぶということがなくなってきました。呉須の調合の違いに私自身が左右されなくなってきているように感じます。呉須の調合の違いではなく塗り方の雰囲気によって色が変わるのだということがわかってきました。」
師匠である加藤巖氏が使われていた中国の天然呉須そのものを、もちろん、森里さんは受け継がれたのではない。森里さんが使われる呉須は、森里さんが独学で学ばれ、独自で調合されたものを使用されているのだが、最初の頃は、やはり、加藤巖氏の呉須の発色に近づけようと調合研究をされたそうだ。

 

  「独立してやり始めた頃は、“この呉須有りき”と考えていましたが、一つの呉須にこだわることはなくなってきました。むしろ、塗り方によって濃淡どころか、色自体を表現できると思うようになっています。」
南画などの墨絵でも、墨の色は黒一色でも、その濃淡によって微妙な色を達人は表現すると言われるが、呉須でもそのような表現が可能なのかもしれない。
呉須のグラデーションで描写された染付と釉薬を組み合わせた作品も、そのオリジナリティーがすばらしく、あえて、釉薬が染付を際立たせるように映って見える。
「呉須もそうなのですが、釉薬も当然のことながら、窯の焼成雰囲気で焼き上がりが違って出てきます。釉薬によって、焼く時の雰囲気も調整していますし、この色の釉薬は窯の中のこの場所というように、窯詰めする位置も考えて焼いています。」
一つ一つの作品を、釉薬や呉須の違いによって窯詰めの位置や焼成雰囲気を調整して、作品を焼き上げる。これは、陶磁器を焼き上げる場合の、必然の作業なのだが、やはり、その時々の窯によって、出てくる作品に善し悪しはどうしても出てくる。

 

  「これは良いものに焼き上がったなという作品は、やはり、すぐに売れたりもしますね。そうでないものは、長く手持ちの状態でおいてあったりします。この仕事を始めた頃は、工房でただ、黙々と焼き物を作っていれば良い時代でしたが、今は、黙って作品を作っているだけでは、食べていけないような世の中に変わってしまいました。自分自身で動いて、ギャラリーや陶磁器販売店とコンタクトを取り、自身の作品を売り込んでいくことが迫られます。でも、そういう時代だからこそ、私は背中を押されたような気がします。元々、人と話すことは好きでしたし、積極的に工房を飛び出して、作品を持って回りましたね。」
森里さんは、生まれ持っての社交的な性格が、ご自身の身を助けたと言われるのだ。
「釉薬や呉須は、焼く窯の時々によって出てくる作品の色が、どうしても違って出てきたりしますが、それだからこそ、むしろ喜んでいただいているのかもしれません。その時々で雰囲気が違う作品であっても、それが前と違うからダメというのではなく、今回はこんな風に焼けたというように、逆に違う作品を見られることを楽しんでいただいていると感じるのです。」

 

 

 森里さんは、お話も上手だが、そのお人柄も前向きで明るい。一見、悪い結果に見えるようなことでも、ただ単純に悪いと捉えるのではなく、それもまた良しと逆に解釈して前進されているのだと思う。
「私には、息子と娘がいますが、子供がこの仕事をやりたいと思うなら、応援したいと考えています。私自身この仕事をやってきて、好きでやりたくてやるなら、これ以上良い仕事はないと思っているからです。子供も焼き物をやりたいと思ってくれるなら、正直な気持ち、親としては嬉しいと思いますね。」
厳密な意味での跡継ぎという形ではないにしろ、ご自身のお子さんが同じ、焼き物の仕事を希望されたなら、協力したいと考えておられるそうだ。
「子供が、焼き物の仕事を希望してやり始めたとしたら、私自身はその時点で引退しようと考えています。親子で両方とも作ってというのではなく、私は作る仕事は辞めて、子供の作品を売り込んで回るようなプロデューサーになろうと思います。」
森里さんは、将来的な夢として、このような希望も持っておられるようだ。焼き物の仕事が本当に好きで、焼き物そのものも、心から愛しておられるのだと感じた。

 

 

 

 

森里 龍生

1963年 12月 森里忠男(走泥社同人)の長男として生まれる
1984年 3月 京都府立陶工高等訓練校 成形科修了
1985年 3月 同校 専攻科修了
1985年 4月 日展会員 故 加藤巌先生に師事 染付磁器を習得
1993年 龍紘窯を命名 以降個展、グループ展を中心に活動
1996年 2月 fivework展に参加
1996年 凛季の陶[二人展] アートサロン小川
1998年 4月 華陶展[華道小松流]
Monologes dialoges 四代目伊助
1999年 6月 閃季の陶[個展] アートサロン小川
2001年 5月 薫季の陶[個展] 四代目伊助
2001年 11月 香老舗 松栄堂による「香りを楽しむ器展」に参加 杉本家住宅
2003年 8月 土と石[+][-]森里龍生展「個展」京都高島屋美術部 美術工芸サロン
2004年 8月 森里龍生作陶展 ギャラリー杉・秋田
2006年 2月 用の美[呉須と毛彫]森里龍生展[個展]
2007年 4月 花器と器展[個展]大丸神戸店
2008年 6月 雫季の陶[個展]森里龍生作陶展 京都高島屋美術部 美術工芸サロン
2010年 4月 染付 森里龍生作陶展 ぎゃらりいおくむら・東京
2011年 2月 節季の陶森里龍生展[個展] 京都高島屋美術部 美術工芸サロン
2012年 11月 八人展[アナタの中のワタシ]グループ展
2013年 5月 森里龍生作陶展 東京高島屋美術工芸サロン
2013年 9月 Kyoto style 四人展 アートサロン山木

 

龍紘窯 森里龍生

〒605-0873 京都市東山区渋谷通東大路東入二丁目下馬町603-2
電話 075-531-8232

寺尾智文

2014.08.07 更新

  「昔に作られた良い物を見て、そこから学び取り、自分の作品に生かすことができるかというのが、私の一貫した作品造りのテーマです。」と、寺尾さんは熱く語られる。
寺尾さんは高校卒業後の1年後、京都府立陶工高等技術専門校の図案科に入られ1年間、陶磁器の絵付を学ばれた。訓練校修了後は、寺尾さんが生まれ育った地元の窯元二軒に、それぞれ4年間ずつ、染付の絵付職人として計8年、従事された。
「独立後も、当初は染付の仕事を主にやっていましたが、染付だけに限定すると、絵の題材も限られてくるので、絵付の技法も、絵の題材も染付以外の物に新たな分野を求めるようになりました。」
染付の代表的な模様には祥瑞があり、絵の題材としての代表的なものは山水図などがあるが、絵付技法を染付に限定すると、どうしても、それらの題材に限られてしまうということがある。自ら描きたい絵があること以外に、染付の作品となると、市場の方からそういう題材の物が求められるということがあるからだ。
そういったジレンマに悩んだ結果、寺尾さんが自分自身の作品のテーマとして、巡り会ったのが「シルクロード」であった。

 

 

  「もともと、ペルシャにまつわるものが好きでしたし、シルクロードを題材にと考えついたとき、インスピレーションを受けたと思いました。それから、シルクロードをテーマに染付の呉須の絵の具だけでなく、上絵の具も使った絵を作品に描くようになりました。」
インスピレーションを受けたからといっても、一朝一夕に、すぐにでもシルクロードの絵を作品に描けるものではない。染付職人として8年間の経験で培われた絵付の技術、寺尾さんご自身が持っておられる天性の絵心とでも言うのか、絵付師としての確立された技術がないと、作品に生かせるもではないだろう。寺尾さんは、陶磁器の絵付だけでなく、普通に紙に描かれる絵も実に、見事な絵を描かれる。
寺尾さんが絵を描かれた、掛け軸などを見せていただいたが、それらを見ると焼き物の絵付師というだけではない。寺尾さんは正に、絵心を持った絵師なのだと痛感する。
作品を収納する木箱にも、寺尾さんは絵を施されることがあるが、こうなると、焼き物の作品だけでなく、それを入れた木箱も含めて、寺尾さんのすばらしい作品となる。
寺尾さんによって、シルクロードをテーマに描かれた作品は、今までにない、他にもない作品として、確固たる高い評価を各方面から得ている。
「あるとき、足立美術館で開催していた北大路魯山人作品展を一人で観に行った時があったのですが、一人だけで観に行ったので、何時間もかけて、何回も繰り返し魯山人の作品をじっくり観たんです。そのとき、魯山人作品のバリエーションの豊富さにまず、驚きましたし、こんなに様々な作品を魯山人は残しているのに、どれを見てもそのすばらしさに感動し、なんで、こんなにも良い物が作れたのだろうという思いに辿り着きました。それで、魯山人が書いた本をいくつも読みあさってみると、魯山人は、自分が良いと思ったあらゆる骨董を買い集めていたらしく、それらの骨董を時間があればいつも、何時間でも眺めていたらしいです。どうやら、魯山人はそうやって眺めていた骨董から得たものを作品に生かしていたようです。」

 

 

 魯山人の作品に心打たれた寺尾さんは、昔に作られた良い物から学び、自分の作品に生かすことを、この頃から強くご自身の作品造りのテーマとして持たれるようになったそうだ。
「昔の良い物から学び、それを作品に生かそうとした陶磁器の名匠は魯山人だけではありません。濱田庄司や荒川豊三、河井寬次郎などの昭和を代表する名工も同じことをしていました。私もまた、そういった先人から倣おうという思いです。」
江戸時代前期に、京焼の祖でもある野々村仁清や尾形乾山などの琳派と呼ばれる名工が現れる。

 

 

 「仁清や乾山など、彼らの作品は、それまでにはなかった新たなオリジナリティーを作り出していたものです。その凄さにまず脱帽します。そして、それらの作品を見て、そこから学び取り、自分なりに自身の作品に生かしたものを作ろうとしてやってみると、その過程でまた、なるほど、こういうことがあったのかというような発見がいくつもあるんです。そうやって一つ一つ、自分のものにしていくという感じです。」
寺尾さんのこの話を聞いたとき、私は高校時代の恩師の言葉を思い出した。「自分がすぐさま理解できない色々な事象に出くわしたとき、それがわからないからといって、考えることをやめてはいけません。一番、大切なのは、なんでそうなったのかということを自分で考えることなのです。」という言葉だ。

 

 

 私は、この言葉が今でも強く残っている。昔の良いものと向き合い、とりあえずは、模倣して作るだけでも得られるものは必ずあるはずだ。同じ物になるようにと作っている過程で、なんでこういう作品になったのかということを考えることで、見えてくるものがあるのだと思う。
寺尾さんは、時間があると骨董店に足を運び、気に入ったものでしかも、自身の作品に役立ちそうなものを見つけると、購入して収集もされているらしい。
「骨董店の店主から、昔の茶盌のデザインだけをそのままそっくり写して作ったようなものは必要とされなくなっていると言われます。昔の良いものから吸収したものをベースに、なにか自分なりのものをプラスして、今までにない良品を作らないと勝負になりません。でも、このなにかをプラスするということが、一番難しいのですがね。」
言われるとおり、作り手にすれば、自分なりの何かをプラスという作業が正に、作り手としての仕事そのものなのだが、これが難しい。しかし、これを怠っては、作り手としての存在意義をも否定することになってしまうのかもしれない。

 

 

  「昔の良いものからデザインだけでなく、作品の雰囲気と作風を学び、自分なりの個性をプラスしていく。このことを怠らずに向き合っていく限り、焼き物の世界においても、この先の展望は見いだせると思います。実際に、そういう作品を求めている方は大勢いますから。」
陶磁器が売れなくなっている現在、廃業を余儀なくされる陶磁器事業者は少なくない。しかしながら、寺尾さんが言われるように、過去の良品に真摯に向き合い、個性を見出せる作品造りを怠らなければ、将来においても、陶業界で活動を続けられるに違いない。ある意味、今は陶業界においても、淘汰の時代なのかもしれない。
寺尾さんは、定期的に大丸百貨店で個展、香川県高松市にある興願寺というお寺で個展をされている。
「京都のようにお寺がたくさんある土地柄ではないからでしょうか、個展をさせていただいている高松市の興願寺は、地域の方々にとって存在が大きくて、文化の発信地であり、心のよりどころとでも言えるお寺なのです、ですので、地域の人が気軽にお寺に出入りされています。お寺と地域の密着度が高いとでも言いましょうか。個展開催の間は、お寺に泊めてくださって、食事も用意してくださいますので、とてもありがたいです。個展の前になると、お寺の方から作品に関して、色々な意見をいただきます。」
寺尾さんは、その人柄も含めて、作品と共に愛される存在なのだろうと感じる。焼き物に取り組むその真摯な仕事ぶりが、これからも寺尾さんの作品に表現されていくのだろう。

 

 

 

寺尾陶象

1955年 京都に生まれる
1975年 京都府立陶工高等技術専門校修了
吉田瑞泉窯にて修業
1979年 大野瑞昭窯にて修業
長期技術者講座日本画作品展知事賞受賞
1981年・1985年 日本南画院秀作賞受賞
1983年 京都東山に陶象窯を開窯する
1990年 淡交社主催「’90明日への茶道美術公募展」入選 御祝いに裏千家鵬雲斎前御家元より御箱書を頂戴する
1992年 淡交社主催「’92淡交社ビエンナーレ茶道美術展」入選
1994年 大阪朝日ギャラリーにて個展開催
1996年 京焼・清水焼伝統工芸士に認定される
1998年~2002年・2004年 京焼・清水焼展受賞
2006年~2010年・2012年 京焼・清水焼展受賞
2000年・2003年・2006年 大丸京都店にて個展開催
2009年・2013年 大丸京都店にて個展開催
2001年 横浜高島屋・日本橋高島屋にて個展開催
2002年・2005年 大丸神戸店にて個展開催
2004年 東急本店にて個展開催
2005年 広島福屋八丁堀店にて個展開催
2008年 大丸東京店にて個展開催
2010年・2012年 高松市興願寺にて個展開催

陶象窯 寺尾智文

〒606-0953 京都市東山区今熊野南日吉町44-1
TEL/FAX 075-541-3888

 

 

 

 

 

 

 

小野多美枝

2014.05.13 更新

 幕末から明治初期にかけて、当時の京都で京薩摩なる焼き物が焼かれていた時代があったのをご存じだろうか。その京薩摩を現代に蘇らせるべく、小野多美枝さんは作陶を続けておられる。
京薩摩の元となった薩摩焼は、19世紀後半の1867年に開催されたパリ万博や1873年にオーストリア、当時のハンガリー帝国の首都ウィーンで開かれた国際博覧会で日本の出品物の一つとして、出品されたのをきっかけに、その豪華絢爛さと細密さで、当時のヨーロッパの人々に爆発的な人気を得て、ヨーロッパにおけるジャポニズム振興の一役を担ったといえる。

京薩摩は、当時ヨーロッパでブームとなっていた薩摩焼を、京都で模倣し、作っていたものであるが、薩摩のものよりも、より伝統的な日本のデザインを意識して焼かれていた、都の華麗さが加味されたものと言えるものであった。
そんな京薩摩の作陶をされている小野さんは、学生時代は陶器そのものには興味がなかったという。
「私は、高校は商業科に通っていました。でも、商業科の生徒なのに自分は事務仕事が性に合わないと思うようになって・・、元々、絵を描くことが好きでしたから、高校の美術の先生に絵を描く仕事がしたいと相談したら、先生のお知り合いにたまたま窯元の方がおられて、その窯元に就職することになったんです。」と、小野さんは、焼き物の世界に入られたいきさつを言われる。

 

 

 

 

 「念願の絵を描く仕事で窯元に入ったのですが、この窯元でやっている仕事は薄々ながら、真正なる伝統工芸ではないと思うようになりました。それまで、伝統工芸とはなにかということも知らなかったのに不思議ですよね、もっと古いものをやりたいという気持ちに変わっていったのです。」
焼き物の世界に入られた初期の頃から、小野さんは、真の意味での伝統工芸的なもの、昔に作られた工芸的に崇高なものへのこだわりを持っておられたのかもしれない。
「そのような思いから、違う窯元へ移りました。しかし、その窯元では、また、工業的な技術による焼き物も多く作られていて、伝統工芸を求めていた私の思いからずれていました。そんなとき、初めて京都府陶工職業訓練校の存在を知ったのです。」
高校の商業科を卒業してすぐに、全くの畑違いの焼き物の世界に入り、絵付けの仕事を経験した小野さんだったが、真の伝統工芸を求める思いから、窯元を辞めて陶芸の絵付けの基本を改めて学ぶため陶工訓練校に入校された。

「学校を出てからすぐに陶工訓練校に入ったのではなく、窯元で絵付けの経験があってから訓練校の図案科に入りましたから、教えてもらうこと一つ一つが経験の基盤上にあったので吸収が早かったですね。今から思えば、それが良かったと思います。」
陶工訓練校の図案科では、染め付けの修学をなされたことから、訓練校修了後は、染め付けを専門とする窯元に、絵付師として就業されることになる。

 

 

 清水焼の染め付けの窯元で数年、絵付けの職人として陶業に就かれ、その後、独立されて、個人として絵付けの仕事を請け負われていたころ、友人の誘いで、京都府南丹市にある「TASK・京都伝統工芸大学校」で絵付けの講師をされるようになった。
「その頃はまだ、学校も開設したばかりだったので、陶芸の絵付けの講師は私一人で、1年間だけ染め付けを教えていたのですが、2年目、3年目になった時、学生が一気に増えましたので、染め付けだけでなく色絵も教えてほしいとの要望が学校から出るようになりました。それまで私は、染め付けの専門だったので、それこそ、生徒と共に学ぶような感じで、色絵のほうも勉強していきました。」
染め付けを専門とされていた頃は、染め付けこそ陶磁器の絵付けの王道であって、筆一本、ゴスの絵の具一色で極めていくというような、考えがあったと小野さんは言われる。だが、運命に導かれるように小野さんは、色絵の世界へも入ることとなり、やがて、その色絵を極める人生を歩まれることになるのである。

 

 

 

 

  「学校からの要望で色絵を始めるようになりましたが、正直なところ始めの頃は、あまり色絵には興味がありませんでした。でも、40歳を過ぎた頃に九谷焼の“赤絵細描”というものを目にする機会があったんです。それを見たときに、それまで興味がなかった色絵に心惹かれるようになりました。もともと、細かい手仕事が好きだったということもありましたし、九谷焼の細かな色絵のものには感銘を受けました。それで、赤絵を1年間ほど勉強したのです。」

そして、九谷焼の色絵に心動かされた小野さんは、程なくして運命的な焼き物との出会をされることになる。

「九谷焼に感銘を受け、赤絵を描く日々を過ごしていましたが、赤一色ということでは同じ一色しか使わない染め付けと似たようなところがありますし、一色では物足りないと思うようになっていた頃、清水三年坂美術館で「まぼろしの京薩摩展」という展覧会で初めて、京薩摩の作品を目にしたんです。そのときに、一瞬にして私の一生の仕事が決まったと感じました。」
これこそ正に、運命的な出会いとでもいうのだろうか、あるいは、出会うべくして出会ったとでもいうのであろうか、小野さんが人生をかけて極める焼き物が京薩摩であることが、このとき決定したのだ。

 

 

 

 その小野さんが作られる京薩摩の作品は、崇高にして細密、一見して人が手描きして施された絵だとは思えないような、非常に緻密に描き込まれた絵で、いつまでも見入ってしまうような、心を引き込まれるような絵である。
「初めは、それこそ絵の具もわからなければ、使われている筆もわからない、京薩摩という焼き物の絵がどうやって描かれたものかが全くわかりませんでした。でも、作りたいという気持ちを強く持って続けていくことが、大切だと思うのです。京薩摩に関して、私は師匠について修行したとか、だれかに教えてもらったとかということはありません。すべて独学です。強いて言うならば、師匠は昔の京薩摩の焼き物です。昔に作られた京薩摩の焼き物を見て、こうすればできるだろうというような、試行錯誤で、一つ一つ解明しながら先に進んでいるようなやり方です。」
かつて京都で盛んに作られていたにもかかわらず、今では火が消えたように、手がける窯元が皆無な京薩摩である。そんな事情もあったからだろうか、独学とは言われるものの、小野さんの京薩摩の作品は、最初の発表時点ですぐさま問屋、陶器販売店等の注目も集めたようだ。

 

 

 小野さんが、京薩摩を作られるようになってから、おおよそ12,3年が経つそうだが、初期の頃の作品に比べて、より緻密な絵のものに進化を続けている。
お手本とされている昔に焼かれた京薩摩の焼き物に限りなく近づいているのではないだろうか。いや、むしろ、昔のものを超えているかもしれない。
問屋、陶器販売店等で取り扱われている小野さんの作品は、その9割近くが、外国人の購入者で占められているそうだ。
「19世紀末にヨーロッパで興ったジャポニズムで根付いた、日本の焼き物といえば“薩摩焼”というイメージが、今でもあるのでしょうね。日本に観光で来て、日本の焼き物を購入したいとなれば、京薩摩の焼き物を選ばれるのでしょう。これぞ、日本の焼き物と感じられるのではないでしょうか。」
確かに、小野さんが言われるように日本の焼き物イコール薩摩焼というイメージが、小野さんの京薩摩購入に向かわせることもあるだろうが、それだけではないという気もする。焼き物を生業とする同業の者の目から見ても、小野さんの作品には非常に強いインパクトを受ける。熟練した絵付け職人でもすぐさま同じ絵を描けと言われても到底、描けないであろうと思われるような、非常に高度な技術で施された絵付け、洗練されたデザイン、周到に計算されたような器のフォルムなど、作品として最高峰レベルといっても過言ではない。外国人も、そのハイレベルな小野さんの作品に心底、納得するからこそ、購入するのだと思う。

 

 

 「何年もずっと一人でやってきましたが、展覧会をやりながら注文のものも作ってとなると、どうしても手が足りなくなるので、京都伝統工芸大学校での教え子や、私の作品を見て弟子入りのような形で工房に来るようになった人で、絵付け師として私を手伝ってくれる人が一人ずつ増えて今では私を含めて4人になりました。昨年までは「空女(くうにょ)工房」としてやっていましたが、今年に入ってからは、「株式会社 空女」としてやっています。」
焼き物を志す者にとっても、小野さんの作品には心惹かれるものがある。作品から溢れ出るような魅力を感じる。小野さんの作品は、問屋、陶器販売店等に納品されるものであっても、一つ一つ違うデザインの絵で、新たなものを納品されているそうだ。例え、受注であっても、この品物と同じものを作ってくれというような、既存の見本通りのものを作る量産ではない。いわゆる、“おまかせ”なのである。次に、どんな作品ができあがってくるのかを皆が楽しみに待つのだ。
これからも小野さんは、より京薩摩を極めて行かれることに違いない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

空女/Cu-nyo

 

 

代表:小野多美枝 京焼・清水焼 伝統工芸士

京都生まれ

 

 

1972年 清水焼窯元にて絵付け職人として勤める
1976年 京都府立陶工高等技術専門校 卒業
1996年 京都伝統工芸大学校 絵付け講師に就任
2011年 NHK「美の壺」出演
2012年 京都美術工芸大学 絵付け講師に就任

独自で京薩摩の技法を研究、現在も復興に挑み続けている。

 

『京薩摩』とは、

明治初期から大正期にかけてわずか数十年の間だけ花開いた京都の焼き物。

輸出用に作られその華麗さ精巧を極めた職人技で多くの欧米人を虜にしました。

その技術は現在に殆ど伝えられておらず幻の器とも呼ばれます。

 

 

『華薩摩』とは、

空女オリジナルの名称、磁器に描いたものを「華薩摩」

陶器に描いたものを「京薩摩」と呼んでいます。

 

株式会社 空女

〒612-8081

京都市伏見区新町10丁目371番地

TEL:075-623-1738

E-mail:ono@kyoto.zaq.ne.jp

 

 

 

 

 

笹谷 博

2014.02.18 更新

ハイグレードなオーディオ装置からジャズが流れる工房で、作陶をされる笹谷博さんは学生時代、電子工学の勉強をされていたという、ユニークな経歴をお持ちだ。

「こういうオーディオや電気関係の仕事をしたいと学生時代は考えていました。でも、ちょうどその頃、父親が窯元として独立したので、その仕事を手伝おうという気持ちに代わったんです。」

笹谷さんは、工業高校の電子工業科を卒業されてすぐに、京都府陶工訓練校の図案科に入られ、絵付の技術を学ばれた。その後、京都市工業試験場の技術養成所を卒業され、陶業に就かれている。

20歳になられた時、力試しにと初めて出品した京展や工美展で入選されている。
その頃、民芸ブームの延長でクラフト運動が起こっていた。
当時、京都市も力を入れていた「京都クラフトセンター」には、いろいろな分野の物作りの人たちが、今までにないものを作ろうという気持ちを持って集結していた。
笹谷さんは、その考えに賛同してクラフトセンターに参加され、作り手としてスタートしたと言われる。

 

 

その頃、京都市内の窯元が、京都府宇治市炭山地区に移り始め、組合としては、今は解散した(協)炭山工芸村が最初に出来、続いて(協)京焼炭山、そして三番目の組合である(協)炭山陶芸のメンバーとして炭山に工房を移された。

「当初は、父親がロクロをして、私が絵を付けるという二人三脚で仕事していましたが、私が30歳の時に父親が急逝し、にわかに、私一人で、窯元の仕事のすべての行程をやらないといけなくなったんです。」

若くして父親を亡くされ、窯元としての仕事の全てを一人でこなさなければいけなくなった笹谷さんは、ロクロだけで無く、手捻りの技法や型成形の器に手を加えることで、器を作り出されるようになる。

 

 

 

笹谷さんは、工業高校のご出身で、学生時代は電子工学の勉強をされていたが、部活は美術クラブに入られていて、油絵やデッサンを勉強されたそうだ。学校での勉強を通して、工業デザイン的考え方があり、物作りということでは、クラフト的な感覚で仕事をしたいと考えているとも言われる。

「私は、陶業とは全く別の世界から、陶芸に憧れてこの世界に入ってきた人たちと異なり、模倣をしたい、一歩でも近づきたいと思う、バイブルのような焼き物はありません。常に、なにか、今までにない新しい物を作りたいと言う気持ちでいます。」
昔に作られた物のコピーを作るのではなく、自分なりの新しいものを作りたい。何百年か後に、その時代の人が、今作られている陶器を見たとき、「昭和や平成の焼き物と言っても、桃山時代や江戸時代のコピーを作っていただけなんだ。」と思われるのは恥ずかしいと思いませんか?と言われる。

 

 

 

平成の物作りならば、平成に生きる自分たちが、デザインでも技術でも、何か新しい伝統を生み出すくらいの気持ちでやらなければならないと考えておられるそうだ。

「京焼の伝統を大切にしながら、伝統に甘えず、伝統に縛られない、物作りを目指しています。」

「昔に作られた秀逸な陶磁器を目指して作る方は、音楽家に例えると、バッハなどのクラシックを弾いている演奏家に当たると思うんです。今までにない焼き物を作ろうという人は、音楽家で言えば作曲家に当たる。私は稚拙でも、作曲もする演奏家でありたいと思っているんです。」

 

 

焼き物の伝統を学び、伝統を大切にしながら、それをベースに新しい物作りに挑戦しようというのが笹谷さんの一貫して変わらないポリシーなのだ。

そんなポリシーから、今までにもなく、他にも類を見ない正に画期的な焼き物を笹谷さんは作られた。その一つが、コーヒー豆の焙煎器である。

笹谷さんは、かなりのコーヒーの愛好家でもあり、焼き物でコーヒー豆を焙煎しようという発想は、愛好家ならではのものだ。そこに笹谷さんの今までにない焼き物を作るというポリシーが加わって、具現化された焙煎器なのである。

実際に、笹谷さんはコーヒーの生豆を焙煎器に入れ、火にかけて焙煎して見せて下さった。予熱に10分ほど、生豆を入れてから20分ほどで、合計30分くらい、焙煎できるまでにかかるのだが、焙煎器に入れる前は緑色だった生豆は焙煎が終わり、器から出されると、見事な褐色の香ばしい香りを放つ豆に変わっていた。

 

 「直火ではなく、加熱された陶器から発せられる遠赤外線で、豆が焙煎される仕組みですから、美味しいコーヒー豆になるんです。ただ、焙煎が終わるまで、手でグルグルと30分も回していなければならないので、そこが今後の改良点で、モーターで回すようにしようとも考えています。でも、コーヒーが本当に好きな人なら、この回している間も楽しく感じると思いますよ。だって、美味しい豆になって出てくるのを想像しながら回すのですから。」
そう言われるとおり、笹谷さんは、楽しそうに実演して見せて下さったのである。
もちろん、笹谷さんは、この焙煎した豆で入れたコーヒーを飲ませてもくださった。遠赤外線の効果なのだろう、嫌な苦味はなく実にまろやかで、美味しいコーヒーになっていた。この焙煎器は、「珈悦(こうえつ)」という名前で、ユーチューブでも紹介されているので、そちらもご覧いただきたい。

 

 

 

笹谷さんは、手捻りで可愛い干支の香立てやフクロウのペーパーウエイトなども作られている。
こちらも製作の様子を実演して下さったが、見事な手際で、あっという間に作られていく。普通ならこのような造形物は、型作りによって生産されることで、大きさや形が揃えられるが、手作業だけで、同じ物をいくつも手際よく作られていく。
その作業は、笹谷さんが「作りたい物を作る」ために生み出した、独自の手捻りの技が有るから故、なせることなのだろう。
「できあがったものを見せると、皆さん、やはり型作りだと思われるようです。でも、食器が売れなくなった今、これらの物は、継続的によく売れています。」
「陶器」から「器」の文字を無くして「陶」そのもの可能性を求めて食器以外の物も作り出せば、新たな販路の拡大になる。

 

 

 

円筒形なのに、模様による視覚効果で面取りのように見えるカップなど笹谷さんの作り出すものは、京都クラフトセンター時代に知り合った、日本各地の、いろいろな分野の工芸家との交流から生まれた、クラフト作品だと感じる。

考えてみれば、桃山時代の仁清や乾山の作品は、その時代、過去にはなかった焼き物を新たに作り出していたものだ。
江戸時代の焼き物も、その時代の最先端の物を、先達は作っていたからこそ、現在、焼き物の逸品として残っているのだろう。

現代の私たちも、今の時代に求められる最先端の焼き物を作るのが、陶人としての使命の一つと言えるのかもしれない。
過去の先達から学び、伝統を重んじながら、現代の技術や素材を活用することで新たな物を創造できればと願いたいものだ。

 

 

笹谷 博

1950年 京都市に生まれる
京都市立 洛陽工業高校 電子工業科卒業
京都府立陶工職業訓練校 図案科卒業
京都市工業試験場 技能養成所卒業

 

工美展 入選
京展 入選
京都市クラフト展 入選
全国青年伝統工芸展 優秀賞受賞
Made in Kyoto ベストデザイン賞 入選
京焼・清水焼展 入選
工芸都市高岡2001クラフトコンペ 入選
フランク・ミュラー(FRANCK MULLER)社の依頼を受け、記念品を制作

暁陶房 笹谷 博 (飛露)

〒601-1395
京都府宇治市炭山久田2-7
TEL:0774-32-5909
FAX:0774-32-8706
E-mail:sasatani@mbox.kyoto-inet.or.jp
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/sasatani/

マエストロ貴古

2013.11.25 更新

 マエストロとは、ただ物を作るだけの職人という意味ではなく、自分でデザインをし、プレゼンもして、販売までをもする作り手の総称のような意味があって、自分たちもそのようでありたいという気持ちを込めて「マエストロ貴古」と銘打ちました。と、ご主人の今橋剛和さんと奥様の裕子さんは語られる。
ご主人の剛和さんは、代々続く「貴古窯」の四代目で、奥様の裕子さんとは京都市立芸術大学在学中に知り合われて、結婚された。ご主人が作られる作品は「貴古窯」として世に出されていて、奥様との共同製作の作品を「マエストロ貴古」という銘で世に出されている。
ご主人の剛和さんは、京都市立芸術大学の陶芸専攻科で学ばれ、卒業後家業に就かれた。もちろん、大学では陶芸に関することは全般的に学ばれたが、家業に入られてからは、先代のお父さんから、陶芸に関して手取り足取り指導を受けられたのではないそうだ。

 

 

 「自分が作る焼き物は自分のものであって、あなたはあなたで、一から自分の物を作り上げなさいと言われて、父からは突き放さたような感じでした。私の父は、焼き物に関しては、それはもう、ありとあらゆる事をやり尽くしていたような人でしたから、それ以外のものしかやってはダメと言われたら何をしたらよいのか。当時は、自分自身が何をやるべきなのか自体、見失うような状態でしたね。」
よく、ライオンは我が子を千尋の谷に突き落として、這い上がってきた子だけを育てるということが言われるが、裕子さんは、お父さんから常にそのように言われるご主人のことをそばで見ていて、「そこまで深い谷に落とさなくても良いのに。」と感じておられたと言われる。
お父さんから「私がやってきた事以外の陶磁器で、自分の焼き物の世界を築き上げなさい。」と言われた剛和さんは、大学を卒業されて1年の後、お父さんが作ってこられた食器を避け、茶陶の製作から始められる道を選ばれた。

 

 

 「やはり、一からということで始めましたから、大変苦労しました。染付の茶器の製作を依頼されても、呉須色だけをとってみても何百種類という色合いがあるんです。例えば、古伊万里の呉須色が良いからその色で作って欲しいと言われても、その色がわかりませんから、当時知り合いの先生が京都国立博物館におられましたので、頼んで所蔵品を見せてもらいました。でも、その本物の色を見たところで、現在売られている染付の呉須の色との判別が付かないんです。」
確かに、呉須色は単に、十把一絡げに藍色であると言ってしまえば、言えないこともないが、黒味がかった藍色もあれば、青味が強い原色に近いような藍色のものもある。また、太陽光の下で見たときと蛍光灯の下で見たときでは違う色に感じたりすることもある。それに加え、同じ呉須でも窯の焼き方によって、出てくる色が変化する。本来なら、一番身近な師匠であったであろう父親から、なんの手ほどきも受けなかった剛和さんにとっては、正に手探りで、目的の呉須色を探り当てなければならなかったことは、想像に難くない。

 

 

 「来る日も来る日も、色の研究を繰り返していました。よく当時は人から、こんな山の中で色の研究ばかりしていてなにが楽しいのかとまで言われましたけど、その当時はもう商売抜きで、そればかりやっていましたね。」と、奥様の裕子さんも言われる。
茶陶の製作に使用する絵の具や釉薬の研究に邁進し、経済的にはお父さんが経営されていた窯元に頼っていたのが現実だったそうだが、やがて、お父さんの年齢的なこともあり、家業の食器製造を剛和さんは手伝われることになった。
「必要に迫られて、家業の窯元の食器を作るようになりましたが、やはり、そうなっても父親から、この食器に使っているこの色の釉薬はこれだというような、一子相伝のようなものは一切なかったですね。最後まで、自分の釉薬は自分の物という姿勢を父は貫きました。四代貴古を継ぐのであれば、四代の釉薬色でなければならないというのが、父親の哲学でした。でも、そういう父親の厳しい姿勢で、いわば、這い上がるのが難しいような谷に落とされたことで、今になっては色々なことが身になっていますので、良かったとは思っています。」

 

 

 

 貴古窯の食器の製作を苦労しながらも続けられた剛和さんだったが、世の中は20年以上続く不景気の時代となる。
ご主人の剛和さんは、京都市立芸術大学の陶芸専攻科で学ばれたが、奥様の裕子さんは、同大学の油絵科で学ばれたそうだ。
「私が、京都市立芸術大学の油絵科を選んだのは理由があって、京都芸大の油絵科は他の専攻科とは違って、色々な素材を扱ってものを作るということをやっていたからなんです。油絵科では陶器も作品を作る上での一素材として見ていました。ですので、陶芸をやっている主人に嫁ぐことで、この世界に入ることに対しても、不自然さは感じませんでした。」

裕子さんは、絵の教室で先生もしておられて、子供達に絵を教えておられる。その教室で子供達に教えておられている上で、一つの思いがあるのだそうだ。
「芸術を専攻した以上、作品を作ることに情熱を注ぐ素晴らしさを生徒にも感じて欲しいのです。お金にならないからやめてしまうというのではなく、子供達に対して恥ずかしくない生き方をしたい。私も作家として頑張っているし、自分たちの目標にしたいと思ってもらえるような生き方をしたいのです。」

 

 

 

 そんな、裕子さんの思いからやがて、一つの作品が生まれ、マエストロ貴古が誕生する。
貴古窯の工房にはいくらでもある土を捻って、ある時裕子さんは素朴な形の兎を作った。その兎を見たご主人は、面白いと裕子さんに告げるのである。

ふと、工房にあったカップを逆さまにして、その上に裕子さんが作った兎を乗せてみたところ、スカートをはいた兎に見えたという。そうして作られたのがマエストロ貴古の作品になっていった。綺麗なドレスをまとった兎だけではない。仲良く3匹の兎がカップの中を覗いているような可愛らしい器も生まれた。物思いにふけっているような馬が、ちょこんと上に座っている香炉も生まれた。器の渕に腰をかけ祈りを捧げているような兎もいる。

ドレスをまとった兎に使ったラスタ彩の絵の具は、後に綺麗なペンダントの作品に使うことで新たな挑戦にもなった。

 

 

 「ドレスをまとった兎は、オペラの蝶々夫人をイメージして作ったもので、これがマエストロ貴古としての第1作目でした。マエストロ貴古の作品は、私と主人とのキャッチボールのような作業で作られていく作品で、最初は人形としての作品だけだったのですが、食器作りを長年やってきた主人の思いから、香炉やカップなどの器も作るようになったんです。」
剛和さんと裕子さんの共同製作作品であるマエストロ貴古の作品は、3年ほど前から作られるようになった、まだ新しいものだそうだが、京焼・清水焼展に初の出品で入賞をしたほど評価は高い。
「私たち夫婦は、二人とも芸大を出ているのに作品を作る上で未だ、何も自分たちの可能性に挑戦していないことに、ある時に気づいたんです。ダメでも、とりあえずやってみよう。自分たちの作品はこれだというようなものが作れれば良いという気持ちで、頑張っています。

 

 

 お二人は、フェイスブックやブログなどを活用し、インターネット上での作品発表や貴古窯の作品を愛好してくださる方との友好にも熱心だ。マエストロ貴古の作品にも、先代や先々代の貴古窯伝統の作風を意識的に盛り込んでおられるそうで、フェイスブックやブログを見ている方にも貴古窯の作品の良さを伝えたいと考えておられる。
「私たちの子供が将来、私たちが残した作品を見て、あの時お父さんとお母さんは頑張っていたなと思ってもらえるような作品が作れれば良いなと思っています。」
この思いは、作品に込められるであろうし、人々にも伝わると思う。作品には必ず、それを作った人の為人が現れる。なにより、人は、そういう個性を持った作品を求めているのだと思う。心を込めて作られた作品、そして、その上で伝統的な技が駆使された良いものは、必ず、一人歩きをするものだ。それを求めている人の手元に辿り着くまで。マエストロ貴古の作品も、きっと一人歩きをするだろう。

 

 

 

 

マエストロ貴古・四代貴古

京都個展2012・2013
京展入選
美術工芸ビエンナーレ入選
現代茶道展入選

 

 

今橋剛和

三代貴古の長男として生まれる
京都市芸術大学陶磁器科卒業
宇治炭山にて独立開窯
小川流茶道具にたずさわる
関西地区中心に個展開催多数
工芸展、茶陶展等入選多数
数々の有名茶会・発表会にて道具提供
四代・貴古の継承者

 

 

今橋裕子

京都市芸術大学油絵科卒業
同大学院修了
関西地区中心に個展開催多数
グループ展開催多数
美術コンクールなど入選・受賞多数
アトリエ遊美術研究所主宰
「音楽絵本」によるステージ発表
陶芸家・今橋剛和とのコラボレーション

貴古窯陶房

〒601-1395

京都府宇治市炭山久田2-12

TEL/FAX 0772-32-5903

貴古窯ちゃわん坂店

〒605-0862

京都市東山区清水一丁目287-30

貴古窯のホームページ

http://www.maestro-kiko.com/

川尻潤

2013.11.02 更新

 江戸時代中期から代々、陶業に携わる家柄にお生まれになった川尻潤さんは、現在、陶芸作家として活躍されている。
家に残る古文書に記された家系図によると、陶業に就いた初代は加賀藩の九谷焼御用窯で工場の長をされていた記録が残されているそうだ。
川尻さんは、東京芸術大学の美術学部、デザイン科を卒業され、その後、同大学の大学院で修士課程と博士課程の両方をデザイン専攻で修了されている。修了後は同大学のデザイン科で助手を勤められ、後に非常勤講師もされていた。
東京芸術大学には陶芸専攻もあるそうだが、川尻さんは、陶芸専攻ではなくデザイン科で学ばれた。
「最初は、家業を継ぐためにデッサンを習いなさいと言われたのですが、デッサンをやっている内にデザインが面白くなってきて、父親にデザインをやりたいと申し出たところ、陶芸は家でも覚えられるから、大学ではデザインを習った方が良いと言われてデザイン科に入りました。決して、陶芸をやりたくないから、デザイン科に入ったというわけではないんです。」

 

 

 

 

大学及び大学院では、陶芸については一切学ばず、陶芸はお父さんから伝授されたのだそうだ。
川尻さんの家は、禎山窯という窯元でもあるのだが、お父さんは日展で作家としても活躍された。日展作家であったお父さんの作品は、美しいフォルムを持った白磁の作品であったが、子供の頃からそれらの作品を見ていた川尻さんは、「白ばかりでつまらない。」とも感じておられたそうだ。
「男の子にはやはり、一時期でしょうが父親に対して反発心を持つ時期がありますからね。でも、そういう白磁に対する反発から今の、私の作風があるということかもしれません。」
川尻さんの作品は、大胆な色使いをしたものが多く、躍動感を感じるような作風で、静的なイメージを感じさせる白磁とは、全く正反対の雰囲気を持っている。今の、色使いを駆使される作風に関して、お父さん以外に影響を受けられた人がいるのか、川尻さんに訊いてみた。

 

 

 

 「大学時代に琳派の勉強をしていたとき、その大胆な作風に、自分なりにとても驚いたんです。それまでは西洋の美術を勉強していて、日本よりも西洋の美術の方が優れていると思っていました。しかし、琳派を学んでみると日本にもこんなにすばらしい美術があったことにびっくりしました。しかも、琳派のものは、決して古くささを感じることがなく、今日的に思います。野々村仁清や尾形光琳・乾山、俵屋宗達などの西洋美術にも引けを取らない芸術性の高い作品、茶の美と見事に融合した琳派の作風にあこがれました。」
美術史研究者の中には、琳派の作品は芸術的なレベルの高さでは世界的に見ても当時の最高峰であったのではないかと評する人もいる。
鮮やかに発色した絵の具や金までをも使った川尻さんの作品は、食器もあれば花生けもあり、オブジェの作品もある。
磁器土を使った作品も、表面はゴツゴツとした土感を残した成形がされており、土味が活かされたものになっている。色合いといい、土味が活かされたフォルムといい、その大胆さを感じさせる作風は、やはり琳派の影響があるのだという。

 

 

 

  「乱暴な作風にも見られるかもしれませんが、表現しているのはやはり、日本美なんです。この大胆な色使いは、元々私の家が九谷焼を祖としていますから、九谷焼の色絵を継承していると言えるとも思います。」
川尻さんの工房がある東山区今熊野日吉町・南日吉町一帯は清水焼の窯元が集まる陶業地で、地元の一角に建てられた「陶器塚」も川尻さんのデザインによるものだ。その陶器塚にも九谷赤や呉須などの絵の具が駆使された、鮮やかな絵付が施されている。
現在は窯元としてではなく、陶芸作家として活躍されている川尻さんだが、窯元として代々受け継がれてきたものが川尻さんの作品には活かされているのである。
川尻さんは作陶活動だけでなく、京都府南丹市園部町にある京都伝統工芸大学校など、大学で伝統工芸論を教えておられる。また、工房を持たない美術系大学出身者などに自らの工房を、製作の場として提供されたりもする、心優しい面も持たれている。

 

 

 

 

 川尻さんは、こんな話もしてくださった。
「将来、陶芸家を目指す若者は現在でも多くいます。むしろ、増えているんです。陶芸が職業として選択されるという面では、今でも人気が高いのです。しかし、陶磁器が購買の対象として選択される割合は時と共に下がっています。お茶を、急須を使って入れて湯呑で飲むのではなく、コンビニでペットボトルのものを買ってきてそのまま飲むスタイルに変わっていることに代表されるように、日本人の生活様式が変化していることや、人々が興味を持つベクトルが陶磁器以外のものに移っている傾向、海外から入ってくる安価な陶器に市場が席巻されていることなどから日本の伝統工芸品である陶磁器が売れなくなってきています。」
京都陶磁器会館で陶磁器を購入される方が、今や外国から来られた方が約半分を占めるそうだ。日本の伝統工芸に興味を持ってくださっている外国の方が増えているのに、日本人の興味が日本の伝統工芸から離れていっているというのは、なんとも皮肉な話である。

 

 

 

 「窯元の皆さんは、別にサボっているわけではないと思うのに、日本における陶磁器の市場が、どんどん狭くなっているが故に、伝統的陶磁器が売れなくなっている。特に、京焼・清水焼に関しては、その必要性を大いに感じるのですが、私は日本の伝統的陶磁器を宣伝する専門の大使のような人物、あるいは機関がこれからは必要なのではないかと思っています。ヨーロッパの伝統的陶磁器であるデンマークのロイヤルコペンハーゲンやドイツのマイセンなどは、広報がしっかりしていて、宣伝媒体に対する働きかけが円滑に機能しているので、現在でもよく売れているんだと思います。」
日本だけでなく、海外に向けてもこれからは、より積極的に日本の伝統的陶磁器を発信していくことが必要なのだろう。
陶芸作家としての顔、大学講師としての顔、そして先祖代々受け継がれてきた陶業家としての顔など、色々な面で川尻さんは、とても有意義なお話をしてくださった。陶芸作品のすばらしさだけでなく、川尻さんには人間力の強さも感じるのである。

 

 

川尻潤

1964年 京都生まれ 清水焼禎山窯 窯元
1987年 東京芸術大学美術学部 デザイン科卒業
1989年 同大学 大学院修士課程 修了 デザイン専攻
1992年 同大学 大学院博士課程 修了 デザイン専攻
1992年~1995年 同大学デザイン科 助手
1998年~2001年 同大学デザイン科 非常勤講師
現在  京都東山にて作陶 日展会友
1985年 京都府画廊選抜展 知事賞受賞
1986年 京展 美術懇話会賞受賞(以後3回受賞)
日本新工芸展 新工芸賞受賞
1997年 国債色絵コンペティション ’97入選
1998年 日展初入選 以後毎年入選
2003年 日本現代工芸 工芸賞受賞
2004年 日展 特選受賞
2005年 日展 無鑑査
2011年 日本現代工芸展 京都新聞社賞
個展 京都高島屋 心斎橋大丸 銀座松屋 横浜高島屋
著作 「歪みを愛でる」 2001年 ポーラ出版

日展作家 川尻潤

〒605-0953 京都市東山区今熊野南日吉町146-2

TEL:075-541-0515

FAX:075-541-6688