加藤邦起

2019.05.06 更新

IMGP2559 ほほ笑みの国タイと言われる東南アジアの王国で、古くから作られている伝統的な焼き物にベンジャロン焼きというものがある。鮮やかな色絵と金によって緻密な絵付が施された職人の技が光る陶磁器である。
 加藤邦起さんは、そのタイのベンジャロン焼きに惚れ込み、日本で広める橋渡し役をされようと日々、励んでおられる。地元、京都の高校を卒業された後、静岡大学で経営学を学ばれた加藤さんだが、加藤さんの家は銘が「如水」なる代々続く名窯の家で、長男である加藤さんは窯を継ぐべく陶磁器の世界に入られた。

 「大学では陶芸ではなく、経営学の勉強をしていました。でも、タイのベンジャロン焼きを日本で広めるという仕事をやっている今は、その経営学の知識が少なからず役立っているかもしれません。」

 加藤さんのベンジャロン焼きとの出会いは、7年ほど前にタイに一人旅をされたことがきっかけであった。

 「地元の陶磁器組合の青年部で上海に旅行したときに上海旧市街に新しく開発された新天地という地区で、たまたま京都の伝統産業展をやっていたんです。その展覧会が凄い人混みになっていて、日本の焼き物が海外で大いに注目されていると感じたんです。」

 タイに旅行する前、上海に行った時に京都の焼き物展が注目されている大混雑ぶりを見て、衝撃を受けられたそうだ。

「上海に進出しようと考えましたが、しかし、丁度その頃、中国で反日運動が興って日本の人や物、お店などが排斥される事件が起きて、上海進出は諦めたんです。そこで、どこか自分自身が出て行ける国はないかと探していた中で、タイにたまたま行きました。」

 海外での日本の陶磁器に対する注目度から海外へ進出しようと考える大胆さもさることながら、タイで作られている焼き物に魅力を感じれば、すぐさまその当事国に行こうと考える、その行動力にも感服させられる。

 

 「タイのバンコクのお店でベンジャロン焼きを直に見てみました。確かに、色鮮やかな絵付けが職人の手書きで描かれており、非常に綺麗だと思いましたね。でも、絵付けが施されている素地(器本体)は全て機械生産の量産品だったんです。それで、私が手作りしている素地にベンジャロンの絵を付けてもらえば、新しい焼き物ができると考えました。タイのベンジャロン焼きと日本の焼き物のコラボですね。」

 タイで作られているベンジャロン焼きの素地は、全てが磁器(白地)の量産品で、形も味気ないものが多い。そこで、加藤さんは自身で作られている土物(磁器ではなく陶器)の素地にベンジャロンの絵付けをしてもらおうと考えられた。

 「衣料を売る店や陶器を売る店、それこそペットを売っているお店まである、各エリアに分かれていて、いろんなお店が集まっている、ものすごく広いマーケットのような場所がバンコクにあって、その中のベンジャロン焼きを扱っているお店で、どこで作っているのかと尋ねましたら、バンコクから車で行ける距離にある工場で作っているとのことでした。

 

IMGP2504 そこは、いわゆるベンジャロン村のような場所でベンジャロン焼きを作っている工房が数十軒あるようなところで、お店の方にその場所の住所を紙に書いてもらい、タクシーの運転手さんにそれを見せて、その場所に向かってもらったんですが、30分くらいで着くのかと思っていたら、そこまで2時間くらいかかりましたね。」

 タイの首都バンコクから西、隣県のサムットサコーン県ドン・カイ・ディーにベンジャロン村はある。加藤さんは、その村にある工房に飛び込みで、自分で作った素地にベンジャロンの絵付けをしてもらおうと訪ねたそうだ。

 「日本から自分で作った素地を持参して行ったんです。この素地にあなた方の絵を付けてほしいと頼んだんですが彼らにすれば、いきなり見ず知らずの外国人がやってきて、そんなことを言われても当然戸惑いますよね。」

 結局、断られた加藤さんは一旦、日本に帰り改めてベンジャロン焼きに関することを色々と調べられたそうだ。

 

IMGP2621 「タイには大きく分けて二種類の焼き物があって、一つはベンジャロン焼きで、もう一つにセラドン焼きというのがあることを知りました。その二つの内でセラドン焼きは、いわば庶民の焼き物で、ベンジャロン焼きの方は元々王室に献上する焼き物だったんです。いわゆる日本で言う皇室御用達のようなものです。そりゃ、そのような高貴な焼き物を作る工房に外国人がふらっと行って、いきなり絵付をしてほしいなんて言っても断られますよね。」

 断られてもめげなかった加藤さんは、それから何度かタイと日本を行き来し、ベンジャロンの工房に通われたそうだ。

 「元々は王室献上品を作る村でしたが、今では観光化されていて工房では絵付体験ができるツアーなんかもあったんです。ですので、頭ごなしに絵付を頼むのではなく、体験をさせて欲しいということで、工房に通いました。当然、その度に日本から、彼らが喜ぶようなお土産を持って行きましたけどね。」
 
IMGP2758 工房の職人に習いながら絵付作業をし、何度か通う内に、加藤さんは職人たちと次第に仲良くなっていった。そうやって徐々に受け入れられた加藤さんは、再び絵付を頼んでみたそうだ。

 「あなたの素地に絵付をしてもいいよと言ってくれたんですが、私が作った素地は土物(陶器)で、彼らは磁器の素地にしか絵付けをしたことがなかったんです。ですので、土物の素地に絵付けをして焼いても、ちゃんと焼けるかどうかわからないということでした。
 割れたり絵付けが剥がれたりするかもしれないというので、とりあえずは一つ、上手く焼けるかどうか焼いてみて欲しいと頼みました。焼成温度を訊いてみると本焼きで1200℃以上で焼き上げた後の上絵焼きで、私が焼いている温度より5,60度しか高くない780℃ということだったので割れないことはわかっていましたが。」

 

 

P3150808 今では加藤さんは、ベンジャロンの伝統的な絵柄と日本の和柄を組み合わせて融合させた焼き物の開発を手掛けておられる。
 ベンジャロンの絵付に用いられる絵の具は日本の上絵の具よりも焼成温度が高いので、同じ上絵でベンジャロン柄と和柄を組み合わせるのではなく、和柄の方は下絵付けである染付でデザインされているとのこと。
 このベンジャロン柄と和柄の融合により、他に類を見ない加藤さんオリジナルの作品ができ上がってゆく。加藤さんは、タイの首都バンコクより北のサラブリ-県にある日本向けの量産陶磁器を作る日本企業が持つ工場内の工房で、自身の作品を作れるようになっておられるそうだ。

 「今ではもう、しょっちゅう日本とタイを行き来していますね。向こう(タイ)では、結構いろいろなことをやっています。タイの東北部にイーサンという地方があって、そこにコンケーン大学というタイの国立大学があるんですが、その大学で日本の焼き物の講義をしたことがあります。学生さんは実に、日本の焼き物に興味を示されていましたよ。日本に行って焼き物の勉強をしたいという学生さんもおられました。」

 加藤さんは、焼き物を通じて、日本の文化とタイの文化の架け橋を担う役割も果たされたいと考えるようにもなっておられるようだ。

  「タイで展示会やワークショップをするときには、日本の抹茶を点てて振る舞います。タイでも日本の抹茶はよく知られていますが、世界的に有名なコーヒーチェーン店で出されるような甘い抹茶の飲み物しか知らないんですね。実際に私が抹茶碗に抹茶を点てて、日本では四季に合わせた図柄の抹茶碗を選ぶのだということを伝えます。熱帯地方に住むタイの人は四季という概念がないんです。ですから、そういう説明をして初めて日本には四季というものがあるんだと気づかれるんです。」

 加藤さんによる日本の焼き物に、ベンジャロン焼きの見事な職人技と言える技法によって施される絵付けが加わり、他にはない美しく新しい作品が作られていく。
これからも、益々美しい作品造り、新しい作品造り、そして作品だけではなく人との交流も考えておられるそうで、タイと日本の文化の架け橋役として頑張っていただきたい。

 

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加藤邦起

1975年 京都に生まれる
1998年 京都府立陶工高等技術専門校 成形科修了
1999年 同校 研究科修了
2000年 京都市工業試験場 陶磁器コース本科修了
2000年 伊藤昇峰に師事
2002年 田中香泉に師事
2003年~現在 如水陶画苑にて三代目として創作中

如水陶画苑

京都府京都市東山区今熊野南日吉町10-24
TEL:075-551-0919
FAX:075-561-5697

林林山

2018.07.25 更新

IMGP0851 自然豊かな山間の地、京都は宇治の炭山で作陶を続けられる林淳司さんは、色とりどりの釉薬を施した器の作品を得意とされる。
 特に、金属発色剤のチタンによる乳濁系統の釉薬を多く扱われている。全ての釉薬は林さんご本人が調合されたものだ。
 
「釉薬のほとんどは父親から受け継いだものですが、私自身でも新たに釉薬を調合することもあります。ただ、釉薬の多くは父親の代からのものですから古い調合なのですが、原材料が昔のものと質が変化していたり、なくなっていたりするものもあり、そういうものは今の原料で代用するしかありません。」
 
 陶磁器の原料は自然界から採掘されるもので、枯渇してなくなったり、掘る場所によって質が変化したりするのは避けられないのが事実である。陶磁器を作る上で誰もが苦労する点だ。

 

 

IMGP0885 林さんは窯元の家に生まれ、子供の頃から父親の後を継いで焼きものの仕事に就こうと考えておられた。

「小学校の低学年までは、動物園の飼育係になりたいと書いていたのが記憶に残っていますが、6年生になった頃には陶器屋と書いていましたね。当時はまだ年に二回ほど登り窯を焚いたりしていましたので、窯を焚く手伝いに興味を持って行ったりしていました。後に、京都精華大学の陶芸科に進んで、自然と父親の後を継いで窯元になったというわけです。
轆轤の技術を学ぶために京都府立陶工高等技術専門校に行くということはしていません。京都精華大学の陶芸科を卒業してすぐに父親の下に入って釉薬のことや焼きものの仕事全般を父親から学び、当時おられた轆轤の職人さんに教えてもらって、轆轤を学びました。」

 林さんの釉薬を施した作品は色とりどりで、発色が実に美しい。特にピンク色に発色しているものや淡青色に発色しているものは色に深みを感じて、なかなかに味わいがある。

「普段は問屋さんからの注文をこなす仕事に追われているような感じですね。主に一般食器を作っています。抹茶碗も作りますが価格的に安価に提供していますから、お稽古茶碗として問屋さんから多くの注文をいただきます。」

 

 

 林さんは数をこなす仕事として普段は問屋さんの注文を受けて、施釉のみの焼きものを作られているが、作品として模様を施したものを作られることもある。

「オセアニアの工芸品やアートが好きで、それから引用した模様を施した作品をよく作ります。オーストラリア先住民のアートですね。」

 作品を見せていただくと幾何学的な模様の作品で、いわゆるアボリジナルアートをオマージュしたとでも言える作品になっている。
 オーストラリアの先住民は、読み書きするための文字を持っていなかったそうで、コミュニケーションを取るために絵を描いてあらゆることを伝えていたとのこと。単純な線や点、丸を書いて情報を伝達したのだそうだ。
 このアボリジナルアートはドットペインティング、つまり点描画で描いた模様が多くあり、点が集まる形で様々な描画を行っている。

 

 

IMGP0948「オーストラリアの先住民は、これらの模様を描くことで、これを魔除けにしていたようです。」

 先住民によって描かれたドットペインティングは、自然を崇拝した彼らが精霊たちによって創造された創世神話の時代のイメージや彼らが伝承する祖先からの大事な教えや考え方を絵という形にして残したもので、これらのアボリジナルアートによる表現はドリーミングとも言われる。ただ、この場合のドリーミングと呼ばれる言葉は単純に訳しただけの「夢」というものではなく、先住民の頭の中のイメージにあるスピリチュアルな概念のことを指す。
 林さんの、このアボリジナルアートからインスパイアーされた作品は実に模様が見ていて楽しくおもしろい。特に、和食器にこれらの模様が施されているのがおもしろくて楽しいのである。和とオセアニアのコラボレーションだ。

 

 

IMGP0972 元の先住民によるアボリジナルアートは点描画であるが、林さんの作品に描かれた模様は陶磁器の技法である“掻き落とし技法”が使われている。この掻き落とし技法というのは、器本体の土とは異なる色に焼き上がる化粧土を表面に施し、線状や面状に化粧土を引っ掻いて取り除くことで、器の表面に残った化粧土が模様になるという描画技法である。
模様になっている化粧土の部分には、発色が鮮やかな低火度の色薬を塗って焼かれている作品もあり、見た目にも綺麗だ。林さんは、これらの作品による展示会も開催されている。

「私は絵が得意な方ではないので、模様を描くことや釉薬によって出す色合いで良い作品を作りたいと、いつも心がけながら仕事をしています。視覚で楽しみ、触感で温かさを感じるような器造りを目指しています。」

 林さんの、これからの作品にも注目していきたい。

 

 

works

 

林淳司

1970年 京都市生まれ
1992年 京都精華大学 陶芸科卒業
1995年 同大学助手 終了
1996年 宇治市炭山にて作陶開始

京焼・清水焼 炭山清谷窯 林山陶苑
林淳司

江戸後期初代八兵衛は久谷で名をはせたが
明治二十二年曾祖父定次郎が京都にて陶技を磨き
林山と号し以来五条坂にて作陶
祖父辰二郎の継承経た後
父八郎が昭和四十六年炭山に窯を移して今までの釉薬に
新しい技法で窯変もの釉薬を研究
平成十五年継承
絵付け 掻きおとし等 視覚で楽しみ触感で温かみを
感じる器造りを目指しております。

〒601-1395
京都府宇治市炭山西の谷16
TEL:0774-32-2008

 

 

種田真紀

2018.02.18 更新

IMG_3532有田焼や丹波立杭焼、備前焼、京焼・清水焼など日本の伝統的な焼き物は各地に存在するが、最も細密な絵付けを施す技術を脈々と受け継いでいるのが九谷焼だろう。
使われる絵の具の種類も多種多彩で、鮮やかな色使いと緻密さから豪華絢爛という言葉がピタリとあてはまるような高度な技術をもって造られた作品が多い。
そんな細密な絵を施す作品を作られている種田真紀さんを今回は訪ねた。

種田さんは、今のように陶芸作家としての仕事をされる前は、全く違った世界で仕事をされていたそうだ。

「大学は法学部で学んでいましたが、卒業して物流関係の会社に就職して働いていました。具体的にはデパートの流通部で6年間勤めました。周りにいた先輩達からこの仕事は女性の離職率が高いから、あなたも何か別の道を探した方が良いと言われました。手に職を付けた方が良いと言わる時代でもありましたから、それならとデザイン関係の仕事を探し始めたんです。そんな時に、京都に旅行で来て烏丸通りにある京都伝統工芸館に入ったときに京都伝統工芸大学校という工芸を学べる学校があることを知り、そこで学ぶことに決めました。」

 

ちなみに、京都伝統工芸大学校というのは陶芸だけではなく、漆工芸や京手描友禅、木工芸、竹工芸、仏像彫刻など京都で受け継がれている、いくつもの伝統工芸を学ぶことができる民間が運営する第三セクターの学校で、アルファベットの略称でTASKとも称されている。(TASK:Traditional Art School Kyoto)
京都には陶芸が学べる公立の職業訓練施設として京都府立陶工高等技術専門校があり種田さんは、どちらで学ぶか迷われたそうだが、より全般的に陶芸を学べる京都伝統工芸大学校に決められたとのこと。
京都伝統工芸大学校を卒業された後、種田さんは九谷焼の産地、石川県で弟子入りされることになった。

「九谷焼の作家兼窯元の先生に就いて赤絵細描を習いました。私の先輩達は先生の所に来る注文の商品の絵付をしていましたが、私は先生から課題を与えてもらって自分の作品を描くという形で赤絵細描を習いました。2,3年経った頃から全て自分のデザインによる作品を造らせてもらえるようになりました。4年目くらいからは、赤絵細描の過去の名作である大皿などの模写という形で練習をしました。」

 

IMG_3572種田さんは九谷で5年間、赤絵細描の絵付けを修行され、今は、その赤絵細描の作家として活動されている。

「赤絵細描という絵付技法は筆の先端を使って髪の毛よりも細い繊細な線を描く技法で、線はミリ単位以下の間隔で描いていきます。正に細描という言葉通りの非常に細かい作業です。ですので、絵付の作業は非常に手間がかかります。例えば、抹茶碗のような、それほど大きくない作品でも一つ描き上げるのに2日はかかりますね。」

一つ一つに時間と労力を掛けて作られる作品は、とても見応えがある物で、線の一本一本がまるで定規でも使ったかのように、直線的かつ正確に描かれている。かなり高い技術を以てしてでないと描けないであろう素晴らしい出来映えだ。

 

 

IMG_3575赤絵細描の作品は、直線や曲線を縦横に組み合わせた模様である小紋が描かれているものが基本だが、作品としての広がりということから、種田さんは基本の小紋に絵をあしらった作品も作られている。 

「龍や鳳凰を描いて、周りを小紋で埋めていくデザインの作品もあります。こういうデザインは九谷焼の伝統的な作品に多いデザインでもあるのですが、そのままの形でデザインを持ってきても、やはり感覚的に古いので、周りの小紋の部分を今風に、私なりのデザインに仕上げています。」

作品を拝見させていただくと小紋が非常に細密に描かれているが、その小紋の配置などが、わりに自由な雰囲気で見ていて堅苦しさはほとんど感じない。むしろ、見ていて楽しくなるような作品だ。

「今は共同工房で作品造りをしていますが、まずは自身の工房を持ちたいですね。」
個展を中心に、これからも赤絵細描の作家として頑張っていかれるとのこと。作品は魅力的で人気が高い。個展を重ねられて素晴らしい作品をこれからも作り続けられるよう期待したい。

 

 

 

works

 

 


種田真紀

1978年 岐阜市生まれ
2001年 名城大学法学部法学科卒業
2008年 京都伝統工芸大学校卒業
      山本芳岳氏に師事
      主に上絵全般の技法を学ぶ
2011年 阪神百貨店にてグループ展
2012年 大阪三越伊勢丹にてグループ展
      石川県九谷焼資料館にて「赤の系譜展」出品
2013年 独立
      名古屋松阪屋にて「赤絵特集」出品
      石川県立伝統産業工芸館にて「久谷の赤と青」出品
      ルーブル美術館カルーゼル・デュ・ルーブルにて「世界伝統工芸品展」出品
      アートサロン山木にて二人展
2014年 銀座三越にて個展
2015年 京都高島屋にて個展
      アートサロン山木にて二人展
2016年 名古屋松坂屋にて「赤絵特集」出品
      岐阜高島屋にて個展
その他百貨店、ギャラリーにて企画展に参加
現在、京都市東山区の共同工房にて制作

種田真紀

共同工房(禎山陶苑内):京都市東山区今熊野南日吉町146-2
Mail:m.o.530510@gmail.com

森本真二

2017.11.26 更新

IMGP3760 京都府亀岡市の東別院町で作陶される森本真二さんを今回は尋ねた。工房がある東別院町南掛(ひがしべついんちょうなんげ)というところは、いくつもの山が連なる山深い中で工房の傍らには川が流れ、周りには田や畑が有り、実に自然豊かな環境だ。森本さんは、この豊かな自然の中で日々作陶に励まれている。

 森本さんは高校を卒業された後、京都市工業試験場の伝統産業研修で陶磁器全般について学ばれ、その後、京都府立陶工職業訓練校(現、京都府陶工高等技術専門校)にて轆轤技術を習得された。訓練校を修了された後は、京都山科にある窯元で轆轤師として勤められ、同時に作家活動も開始される。

「山科の窯元で職人として働いた後、日本以外の焼き物を知るために海外に飛び出しました。主にヨーロッパを廻りましたね。」

 

 

IMGP3887「山科の窯元で職人として働いた後、日本以外の焼き物を知るために海外に飛び出しました。主にヨーロッパを廻りましたね。」

 森本さんは約三ヶ月にわたり、ヨーロッパ諸国やモロッコなどの国々を巡り、海外の焼き物を見聞されたそうだ。

「海外から帰ってきて少し経った頃、山梨県の増穂というところで穴窯と登窯による作品作りに参加していたら窯の責任者を任され、そのまま2年ほどその地に居着いたんです。その窯は東京で陶芸教室をされている方がオーナーで、その陶芸教室の生徒さんが作られた作品を焼くための窯でした。その窯に私の作品も一緒に入れてもらって、焼いていたんです。私と同じく、他の作家さんの作品も焼いていましたが、その中には有名な池田満寿夫さんの作品もありましたよ。」

 

 

IMGP3850 森本さんの作品は、窯の焼きによる言わば、炎による焼きで作り出される作品が特に秀逸である。この”窯の焼き”という陶芸における最も重要な部分であり、最大の醍醐味でもある部分に力を注がれる森本さんの陶芸に対する姿勢は、この山梨時代に穴窯や登窯を焼いていた経験が起点になっているのかもしれない。

「京都市工業試験場では油滴天目の研究をしていましたが、陶芸の道に入った当初から天目には一廉の思い入れがありましたから自分でも納得のいくものが焼けない内は世に出さないという信条がありました。油滴天目を個展に出品するようになったのは2010年頃からですね。それ以前の若いときは赤織部や白磁などを焼いていた時期もありました。磁器に染付で絵付けをした作品を作っていた時期もありましたよ。」

 

 

IMGP3809 若いときに作られた染付の作品も見せていただいたが、プロの絵付け師も顔負けの見事な筆裁きで山水画が描かれている。木賊模様の湯呑も手描きの雰囲気が存分に出ていて味があって良い。
森本さんは、これらの磁器に絵付けをする作品は主に陶磁器卸問屋の注文で作られていたが、やがて土味を活かした作品を出展する個展を中心にした活動にシフトされていく。

磁器の染付の作品を作られていた時期もあったが、終始一貫されているのは、やはり、森本さんの作品は、焼きで雰囲気を出す、土味を活かした作品であるのかを訊いてみた。

 

 

IMGP3828「今も作品として焼いていますが、灰釉の作品も以前から手がけています。自分自身で思う私としての強みというのは、良いところを引っ張り出せば、大した土ではなくても、あるいは大した上薬ではなくても、その上薬のかけ方や焼き方で、納得した上で作品として個展に出したり、商品として世に出したりできるものを焼き上げることができると、ある時点からわかったんです。例え土がどういうものであれ、こういう土なら、こういう焼き方をすれば良い雰囲気に焼き上げることができる術を持っていることが私の強みです。」

 森本さんは、土味を活かすための焼きで作り出す作品で自らの陶芸を表現されているのだ。
 しかしながら、この焼きで作品を作り上げるというのは、微妙な原土の差や窯内の雰囲気の差、ちょっとした上薬の厚みの差などによって、その都度の窯で焼き上がりの差が出ることが往々にしてある。そのあたりのことも森本さんに訊いてみた。

 

 

IMGP3883「差が出るということは、どうしてもありますね。ただ、その差というものを受け入れる側がどう受け取るかが問題であって、単に前と違っているから駄目という問題ではないんです。前のものと差があっても、ものが良くできあがっていればそれで良いというように思ってもらえる作品を焼き上げられるように私自身がなっているということだと思います。今度の窯では、こんな雰囲気に焼き上がりましたということが好意を持って受け入れられるということです。」

 つまり、その差というものは、マイナスの差ならば受け入れられないこともあるだろうが、例え、前のものとの違いがあっても焼き上がったものが良いものなら受け取り側は森本さんの作品を受け入れ、楽しめるということなのだろう。そういう雰囲気を持った作品に焼き上げる術を森本さんは持っているのである。

 

 

IMGP3919 また、こういうことも言えるのではないだろうか。現代社会では陶芸作品であっても画一的な工業製品のように、どれも同じ見た目で同じ内容の製品を求めるようになりがちである。そういう製品のほうがユーザーである立場で、品質という面で安心できるからである。

 我々、作品を受け入れる側が陶芸作品としてその作品をどう受け入れるか。焼きの炎が作り上げる作品を目の当たりにしたとき、その都度の焼き上がりの雰囲気を楽しめる豊かな心を我々自身が持てるかどうかなのだ。これは陶芸に対する見方の本質でもあるのではないだろうか。

「私の窯の焼き方は元々、油滴天目を焼くことからスタートしているということがあります。つまり、冷却還元という焼き方が基本です。油滴天目を焼く冷却還元焼成の窯に、天目以外のものも入れて焼くと、いろいろ面白い雰囲気のものが焼けます。それらも私の作品としてラインナップに加わっていったという経緯があります。」

 

 

IMGP3848 冷却還元という焼き方自体が陶磁器の焼成方法としては、特殊な部類に入る。そして、その焼成方法から生み出される森本さんの作品は、森本さん独自の個性ある作品になっている。
「赤土を使って作る作品で、私のものは普通の赤土の色に焼き上がっているものは一つもありません。冷却還元で焼いているので、土が炭化して黒く焼き上がるんです。」
赤土の素地に天目釉を部分掛けした作品は、釉薬も黒く素地も黒く焼き上がっている。釉薬の光沢のある黒い部分と、焼き締めの黒い部分の対比が面白い作品だ。
窯の焼きによって、個性ある豊かな作品を作られる森本さん。これからも見る人の心を豊かにしてくれる作品造りに励んでいただきたい。

 

 

 

 

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森本真二

1963年 京都市に生まれる
1985年 京都市工業試験場伝統産業研修本科修了
1986年 京都市工業試験場伝統産業研修専攻科修了
1987年 京都府立陶工職業訓練校成形科修了
     亀水陶苑(京都・山科)にて轆轤師となり以後、作家活動も始める
1989年 海外の焼き物を知るため三ヶ月の研修旅行 ヨーロッパ十四カ国(北欧、南欧、モロッコ他)
1991年 山梨県増穂にて登窯・穴窯の焼成を担当 池田満寿夫氏、海外の彫刻家、版画家のテクニカルアドバイザーとして担当
1992年 京都・山科、清水焼団地にて新工房を開く
     美濃国際陶磁器展 初出品(入選)
1993年 大阪・阪神百貨店にて個展(94・95・96)
     ヨーロッパ八カ国研修旅行(北欧、南欧、東欧他)
1994年 東京・銀座兜画廊にて父子展
     大阪・高槻松坂屋にて個展
1995年 東京・玉川高島屋にて個展
1996年 東京・銀座松屋にて個展(以後毎年)
     京都・御苑拾翠亭にて個展
1998年 京都・山科から亀岡・東別院に工房を移す
1999年 大阪・ホテルリッツカールトン大阪にて茶会と個展
     京都・京都高島屋にて個展(以後毎年)
     名古屋・三越栄店にて七人展
2002年 兵庫・芦屋大丸にて個展(春・秋)
2004年 大阪・宋永窯陶芸教室を開く
2005年 阪神百貨店にて個展(以後毎年)
2006年 松屋銀座にて、10周年記念個展
2007年 東京・池袋東武百貨店にて個展(以後毎年)
2015年 武蔵小杉・天神(福岡)にて個展
2016年 松屋銀座にて、20週年記念個展
2016年 京都陶磁器会館にて個展
     赤織部と天目を中心に作陶 現在に至る

 

宋永窯 森本真二

〒621-0111
京都府亀岡市東別院町南掛藪ノ下16-3
電話:(0771)27-3719

高木岩華

2016.12.10 更新

IMG01日本全国各地に焼き物の産地が存在するが、沖縄にも伝統的な焼き物がある。沖縄の焼き物は”やちむん”と呼ばれ、琉球王朝時代から続く、独自の伝統技法で作られる焼き物である。この”やちむん”という呼び名は、焼き物が沖縄の方言でなまったもので、沖縄では古くからこの呼び名で親しまれてきた。

 那覇に古くからある壺屋焼は琉球王朝時代に各地に点在していた窯元を一箇所に集めたことによって興った、やちむんの里として現在では有名だが、那覇の都会化による排煙問題から那覇より北の読谷村(よみたんそん)に、4人の作家によって窯を移された読谷山窯という、もう一つのやちむんの里があるという。
 今回、取材をお願いした高木竜太さんは、この読谷村のやちむんの里である読谷山窯で焼き物の修行をされた。

 

 

 

 
IMG02 「高校を卒業した後に陶工高等技術専門校に行き、その後、京都市産業技術研究所の陶磁器研修を修了しました。そして直後に沖縄に行ったんです。」
 高木竜太さんは、陶工高等技術専門校で轆轤成形の技術を習得され、産業技術研究所の陶磁器研修で焼き物の基礎を学ばれたのだが、そのまま京都で作陶を始められるのはなく、あえて、沖縄で修行される道を選ばれた。

 「とりあえずは、私は京都を出たかったんです。親の影響下から離れたかったというのが本音かもしれません。窯元の息子という扱いをされるのが嫌だったんです。」
 高木竜太さんがお生まれになった家は京都に代々続く窯元で、雅号を岩華(がんか)という。竜太さんはそういう名のある窯元の息子ということで、特別扱いされることを嫌ったのだろう。

 

 

 

IMG04 「よく、なぜ沖縄に行ったのかという質問をされます。ほんとうに、良く訊かれるんです。焼き物の産地は全国数多くあるのに、なんで沖縄なのかという疑問なのでしょうね。なぜ、沖縄を選んだのかという理由は、家族旅行で沖縄に行ったことがあったんです。

その時に行ったのが読谷村のやちむんの里の見学で、父親にこんな焼き物もあるんだよということで連れて行ってもらったんです。その時に見た焼き物に直感でいいなと思ったことと、京都では今はもう電気かガスの窯で焼きますが、今なお読谷では登り窯で焼き物を焼いているというところに心惹かれたのが大きな理由ですね。

それに、読谷村まで来ると京都の岩華窯なんて誰も知りませんし、何人もいる内の一人のただの弟子として扱っていただきましたから、居心地は良かったです。」

高木さんが、読谷村で一人の弟子として師匠より教わった焼き物は、白化粧を施した素地に上薬をかけ、またその上に別のいくつかの釉薬で模様を描くというもので、筆の勢いが強く出る装飾の焼き物である。

 

 

 

IMG03沖縄の焼き物、やちむんには大きく分けて二つがあるらしい。一つは“あらやち(荒焼)”と呼ばれる焼き物で、荒い土を使って器を形作り、釉薬をかけずに1000度以上の高温で焼き締めることにより、土味を感じられる荒い印象を持つ焼き物だ。

もう一つは、“じょうやち(上焼)”と呼ばれるもので、やや鉄分を含んだ陶土に白化粧を施し、釉薬をかけて焼き上げたもので、使われる釉薬の色は数種類ある。高木さんが、師匠より教わったのは後者のじょうやちの方である。

「登り窯の焼き方から、轆轤での器作り、釉薬の調合など、沖縄では師匠からいろんなことを教わりました。覚えることは本当にたくさんありましたので、毎日ノートに、その都度書かないと覚えられないんですよね。登り窯を焚くときも、焚き方をメモするために持っていきますから、こんな煤けたノートになってしまいました。」

 

 

 

IMG06ノートにびっしりと書かれたメモに、沖縄時代の高木さんの努力が垣間見られる。登り窯を焼く薪の煤の汚れに、赤々と薪が燃える胴木の横で炎に照らされながらメモを取る高木さんの姿が目に浮かぶようだ。 

「沖縄のやちむんでは、轆轤で器を作った後、まだ、やや水分が残っている土の状態の時に白化粧をして、その後少し乾かして上薬をかけるんです。普通は、上薬をかける前に素焼きをするのですが、沖縄では素焼きはしません。そして、上薬の上に違う発色の釉薬で模様を描きます。その時、筆に含ませる釉薬はたっぷりと含ませないと描けないので細い筆は使わないですね。そして、京都で下絵に使う呉須などのように粒子が細かくないので、筆は走らないです。ですので、模様は一発勝負で描くことになります。それだけに、描いた模様は筆の勢いが出たものになるんです。」

 

 

 

IMG05高木さんは、沖縄で学ばれた釉薬による模様の描写技法を取り入れ、父親より受け継いだ岩華窯の作風と融合させた作品造りをされている。沖縄では、鉄分を含んだ陶土を用いて器を作るが、岩華窯では鉄分の少ない磁土で器を作る。

「磁器の土で作るので、沖縄の時のように白化粧をする必要はないんです。ですので、磁土では沖縄ではやらない素焼きをします。そして、上薬をかけてその上に釉薬で模様を描くんです。主に使っている釉薬はコバルトを発色剤にした、いわば瑠璃釉を使うのですが、この瑠璃釉の調合を完成させるだけでも結構時間がかかりました。単に上薬として素焼きの素地に釉がけするのではなくて、先に上薬をかけたものに模様を描くための釉薬ですから、一般的な瑠璃釉の調合では、やはり、色が薄く出てきてしまうんです。料理でいえば“隠し味”とでも言うんでしょうか、しっかりとした発色をさせるために、隠し味的に岩華窯で昔から使っている呉須を加えています。」

瑠璃釉だけでなく、高木さんはトルコブルー色の釉薬なども独自の調合で作られている。この釉薬は、ブルーに輝くような沖縄の海をイメージされたものだそうだ。

 

 

 

IMG08「沖縄の作家の方で、実際にトルコブルーの釉薬で作品を作っている方がおられます。沖縄の海は本州の海、特に日本海の海とは違って、本当に南国の海の色をしていて、青々としています。そのイメージを作品に持って来れたらと思って、色を出すために釉薬を調合しました。」

 沖縄で学んだことや感じたこと、沖縄のイメージなどの要素を取り入れ、従来からの岩華窯の作風と融合させた作品を作ることに精魂傾けておられる高木さんだが、あくまでも、基本にあるのは岩華窯の作風だと高木さんは言われる。岩華窯の伝統を守っていくのがベースなのだと。

「やはり、岩華窯の伝統を守っていくのが一番大事だと思っています。岩華窯の作風をベースにして自分らしさを取り入れていくという方向で今は仕事をしています。私には姉がいるんですが幸いなことに、姉は絵付け師なんです。ですので、姉に染付や赤絵、鉄絵など岩華窯の伝統的な絵付けをしてもらって、私が新たな岩華窯の作品に仕上げる形で、姉弟で協力し合って、これからの岩華窯の作品を作っていくという道があると考えています。」

 

 

 

IMG07高木さんは岩華窯の作品造りを父親から受け継いだものだが、父親が最近若くしてこの世を去られた。残念ながら、父親と共に仕事をした期間は短かったという。 

「沖縄では3年間仕事をして過ごしましたが、京都に帰ってから父親と一緒に仕事をしたのは結局、2年間だけでした。沖縄時代より短いんですよ。もっと、色々なことを父親に訊いておけば良かったと今では思います。でも、いろんな人が助けて下さったり、協力して下さったりして、仕事をしていけているんだと今は感じています。本当にありがたいことです。」

沖縄で学ばれたことを活かした瑠璃釉やトルコブルーの釉薬は美しいし、それら沖縄の技法を取り入れた作品は、他の京焼にはない独自性を強く持った作風になっている。父親が早くして亡くなられたことは残念ではあるが、姉弟で協力し合って岩華窯の伝統を守っていって欲しい。

 

 

 

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高木岩華

高木竜太

1988年 京都市に生まれる
2008年 京都府立陶工高等技術専門校成形科修了
2009年 京都府立陶工高等技術専門校研究科修了
2010年 京都市産業技術研究所 陶磁器本科修了
     沖縄読谷山焼 山田真萬氏に師事
2013年 父、五代目高木岩華に師事
2016年 五代目岩華死去に伴い家業を継承
     京都伝統陶芸家協会会員

岩華窯

明治初期 清水坂にて創業
大正11年 京都陶磁器奨励会 知事賞受賞
昭和16年 二代目岩華が陶磁器芸術保存作家に指定される
平成5年  五代目岩華 京焼・清水焼展入賞
平成8年  五代目岩華 伝統工芸士に認定
初代より続く京都の陶芸の流れを主体とし、乾山、仁清、祥瑞写しなど
伝統技術の手仕事中心の製作を守りつつ、使いやすく心ある夢のある
作品造りを心がけ、新しいことにも挑戦しています。

〒605-0914 京都市東山区東大路馬町西入下新シ町
TEL:075-561-4491
FAX:075-561-9440

竹村繁男・陽太郎

2016.07.31 更新

IMGP0392今回のクローズアップ陶人は、京都市山科区勧修寺で作陶される竹村さん親子の工房を尋ねた。
父親の繁男さんは京都市立日吉ヶ丘高校の陶芸科を卒業された後、釉薬陶芸の大家、木村盛伸氏に師事され、焼き物の腕を磨かれた。
ご子息の陽太郎さんは大学を卒業された後、一般の企業に就職されて数年間は会社員として陶芸とは無縁の仕事をされていたが、27歳の時に京都府立陶工高等技術専門校の成形科に入られてロクロ成形の技術を習得され、その後、京都市工業試験場の陶磁器研修コースにて陶磁器全般について学ばれた。現在は父親の繁男さんと共に作陶されている。
父親の繁男さんは、天目や青磁、灰薬など格調高い釉薬を施した焼き物で有名な木村盛伸氏の下で学ばれたことから、灰薬を中心とした作品を多く作られている。

 

 

 

IMGP0364息子の陽太郎さんは
「私も初めは父親と同じ灰薬の仕事をやっていたのですが、個人で活動していく上で、自分らしいものをということで全く灰薬とは違った作風のものを作るようになりました。」
作陶を始められた当初は、繁男さんと同様の灰薬のものを焼かれていたが、自身で作品展などを展開していく中で、やはり父親とは別の物をと考えるようになり、現在では白く焼き上がる陶土で作る素地に顔料による色化粧土でグラデーションをつけたり、模様を施したりするなどして、独自の世界観を放つ作品を作られるようになったそうだ。
作品には上薬はかけず、素地本体に色化粧土を吹き付け、焼き締めの状態で完成される。その作品からは、いわば泥臭さのようなものは感じられず、モダンかつスマートさを感じさせるような作品に仕上げられている。顔料によるグラデーションが実に美しい。
繁男さんの作品は、灰ベースの上薬をたっぷりとかけて焼き上げた作品で、暖かみと美しさを感じさせる作品だ。
工房には灰薬の作品がいくつも置かれているのだが、一つ一つ、その表情が違う作品が並んでいる。繁男さんによると、これらの灰薬は、その調合のほとんどが灰成分で、上薬としての焼成温度などを安定させるために少量の長石を配合しているだけで、発色のためのタネである金属成分は全くと言って良いほど加えていないらしい。

 

 

 

IMGP0398「灰の種類を代えるだけでまったく色が変わってきたりしますからね。それが僕にとっては非常に面白いですね。」
陶磁器の上薬における発色剤である金属成分の配合なしで、これだけの発色のバリエーションを出しておられるのは驚異に値すると言っても良いだろう。
繁男さんの灰薬に使っておられる灰は、一般的に陶磁器の灰薬の原料として用いられることの多い、藁灰や樫灰といったものではなく、葡萄の木の枝を燃やした灰や向日葵の灰、杉、柑橘類のハッサクの木灰、イチジクの木灰といった特殊な灰を上薬の材料として使っておられる。
「いろいろな植物の灰は陶磁器の原料を売っている店に定番で置いている原料ではないので、自分で集めなければなりません。それが難しいです。最初に手がけた灰は、たまたま親戚に蒲鉾の板を製造している人がいて、その蒲鉾の板というのは杉の木しか使わないんです。蒲鉾の板として杉を切るときにどうしても廃材になってしまう端の部分を集めて灰にしたものを最初は使いました。」
杉の木灰を皮切りに繁男さんは様々な植物の灰を求めていかれる。
別の農家の親戚が持つ耕地の空いたところを借り、自ら向日葵を栽培し、それを燃やした灰も試された。

 

 

 

 

 

IMGP0407「向日葵の灰は、最初の年に栽培したものの灰を使った灰薬が一番綺麗に焼き上がりましたね。実に表情豊かな釉状になりました。最初の栽培でしたから、それまで地中に含まれていた、あらゆる成分を吸い取って育ったのでしょうね。」
初年度の向日葵は、地中の水分に溶け込んでいる極微量のミネラル(金属成分)を存分に吸収したものだったのだろう。そのミネラル成分には、鉄分や銅、カルシウム、カリウム、燐など、陶磁器の上薬の発色剤として活躍する鉱物も含まれていた可能性が想像される。
考えてみれば古代、焼かれていた陶器は上薬をかけずに、陶土で作られた素地のまま窯に入れられ焼かれていた。いわゆる、現代で言う”焼き締め”の陶磁器だったのである。そのころ焼かれていた焼き締めのものは須恵器と呼ばれる。
須恵器の「須恵」の”すえ”と読む文字は、後に陶(この字もまた”すえ”とも読む)の字が充てられ陶器(とうき)という名の語源だと言われている。

 

 

 

IMGP0411須恵器のように上薬をかけずに焼いていた素地に、窯の炎の燃料として使っていた木の灰が自然と降りかかり、灰に含まれるアルカリ土類(植物の灰の場合、主成分は石灰と珪酸)が素地の陶土に含まれる長石分と表面で化合し、熱によりガラス化する。それによって自然に素地の表面に光沢が生まれたのである。
この現象を発展させたものが上薬であり、降りかかる灰の偶然性に頼らず、焼く前に素地に灰を釉薬として表面にコーティングしておいて焼き上げるようになった。上薬をかけることによって得られた素地表面のガラス質の成分は長石と珪酸および石灰で、それらが熱化合しガラス化したものだが、そのガラス質の発色は灰に含まれるアルカリ土類以外の金属成分によるものである。

 

 

 

IMGP0402この金属成分として主に考えられるものは、鉄、銅、マンガン、コバルト、燐などであるが、自然に生えている木の灰に存在する金属類は、その木が生えていた土から木が自然に吸い上げたものに、微量に含まれる。繁男さんのように、栽培した植物を燃やした灰を使い、上薬を作ってそれを素地にかけ焼かれる作品は、化学的に灰の成分分析でもしない限り、それらを焼き上げて窯から出したとき、どのような色に発色し焼き上がってくるのかは、作品を窯から出すその時までわからない。つまり、自身の作品を自らが作った灰にゆだねているのである。作品を大自然にゆだねていると言っても良いかもしれない。

このような、古代の焼き物に準ずるような手法で作られる繁男さんの作品には古代の焼き物に通ずるロマンを感じるし、焼き物の原点でもある。古代の手法に基づき自然にゆだねて焼き上げ、窯から出すときの作品の表情に期待する。これこそは正に、焼き物の醍醐味なのではないだろうか。
この自然焼とも言える父親の繁男さんの作品造りに比べ、ご子息の陽太郎さんの作品造りは対局にあるものであるとも言える。既に熱化合により発色を固定化させた顔料を用いて作品に加色や模様を付ける手法をもってすれば、安定して同じ物を繰り返し作ることができるし、事前にある程度、作品の焼き上がりの状態が想像できる。しかし言い換えれば、それだけにデザイン力や発想力を作品造りの際に問われる仕事でもある。

 

 

 

IMGP0399繁男さんは
「私がこのような仕事をしていますので、息子は、それとはまるで違ったものをと考えて今の作品に辿り着いたのだと思います。親子で、まるで正反対の仕事をしているみたいに見えますが、それだからこそ、お互いに刺激し合っているような気がします。息子は私の仕事を見て安定した確実なものをと考えて研鑽しているようですし、私はそこにはない、自然相手のギリギリの線を狙って作品を焼き上げようとする。お互いに切磋琢磨していると思います。」
焼き物は美術作品でもあるが、伝統工芸でもある。陽太郎さんは父親の繁男さんとは違った作風でありながら、京焼の伝統は受け継いでおられると思う。互いにそれぞれの作品を磨き合っている竹村さん親子の関係は、自身の作品を高めあっていく中で自然に形作られた、あるべき姿なのだろう。

 

 

 

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大日窯

竹村繁男

1953年 京都山科に生まれる
1972年 京都市立日吉ヶ丘高校陶芸科卒業 木村盛伸先生に師事する
1975年 第四回『日本工芸会近畿支部展』初入選 以来毎年入選
1978年 京都府工芸美術展入選
1980年 独立し、山科に大日窯を開窯する
1988年 第三十五回『日本伝統工芸展』入選
1989年 『土の子会』結成
1994年 『蓬莱会作陶展』に出品
1996年 第二十五回『日本伝統工芸近畿展』奨励賞受賞
高島屋大阪店にて個展 以後隔年
1998年 第五十三回『新匠工芸会展』入選
2001年 京都工芸美術作家協会展『二十一世紀の出発』
高島屋京都店にて個展(2006年・2010年)
2003年 高島屋岡山店にて個展(2005年・2007年)
高島屋横浜店にて個展(2006年・2008年)
2007年 第三十六回『日本伝統工芸近畿展』京都府教育委員会教育長賞受賞
2008年 日本工芸会陶芸部会正会員による、第三十六回『新作陶芸展』日本工芸会賞受賞
2010年 第三十九回日本伝統工芸近畿展にて鑑査委員に就任

 

 

竹村陽太郎

1981年 京都山科に生まれる
2009年 京都府立陶工高等技術専門校 成形科修了
2010年 京都市工業試験場 陶磁器研修コース修了 大日窯にて父、繁男と共に作陶を始める
2011年 第四十回『日本伝統工芸近畿展』入選
国民文化祭 京都2011・美術展「工芸」奨励賞受賞
2012年 第四十一回『日本伝統工芸近畿展』入選
京都美術・工芸ビエンナーレ入選
2013年 第四十二回『日本伝統工芸近畿展』入選
高島屋京都店・美術工芸サロンにて個展
2014年 第四十三回『日本伝統工芸近畿展』入選
2015年 第四十四回『日本伝統工芸近畿展』入選
2016年 第四十五回『日本伝統工芸近畿展』入選

〒607-8218 京都市山科区勧修寺御所ノ内町110番地
TEL:075-571-2231

 

京谷浩臣・美香

2016.01.17 更新

IMGP9307 京都市内とは言っても、左京区岩倉にある京谷浩臣さんと美香さんご夫妻の工房、「晋六窯」は、いくつも繰り返す、きつい勾配の坂道を上がった山中にある。街中から少し離れただけで、周りに自然を感じる環境となる。
工房ではご主人の浩臣さんと奥様の美香さんのお二人にお話を伺った。ご主人の浩臣さんは、芸術大学で図書館司書になるべく勉強をされていたのだが、焼き物 好きの父親の影響もあり、卒業後は陶芸技術の習得のため、京都府陶工職業訓練校に進まれた。奥様は、同じ訓練校の同期で、ご主人が成形科、奥様が図案科で 学ばれていて、そこで出会われたそうだ。
現在、ご夫妻でされている「晋六窯」は、奥様の祖父がされていた窯元で、以前、工房は京都市東山区の日吉町にあったのだが、奥様の実家でありご夫婦が生活されている岩倉の家から通うのに遠いことから、工房も岩倉へ移転された。

 

 

IMGP9242 晋六窯で焼かれる作品の中でも最も注目されるのは、その個性的な形状で知られている「ペリカン急須」と呼ばれる急須で、 その名の通り大きな注ぎ口がペリカンのくちばしのように見える形状が特徴の急須だ。この「ペリカン急須」は、美香さんの祖父が、お茶葉が詰まって、お茶が 出にくくなるのをなんとかならないかとの要望に応えて、考案された形状のもので、50年も前に考えられて、世に出されたものらしい。
口が大きいことから、お湯を口から注ぐこともでき、急須を振って茶濾しにつまった茶葉を戻す必要がなくなり、快適にお茶を入れることができる。また、その 大きな口に急須の蓋を乗せることができるため、再びお湯を入れる際に、蓋をテーブルにおいて、蓋についた水滴でテーブルを濡してしまうことがないとのこ と。普通の急須にはないユニークで便利かつ快適な使い方ができる急須なのである。
このペリカン急須は、晋六窯の作品の中では最も広く知られたものだと考えてもおかしくないのだが、奥様の美香さんは
「ペリカン急須は雑誌などでも、もう過去に何度も取り上げていただいているので皆さんに知ってもらっていると思い込んでいたのですが、そんなことは全然な くて、先日もイベントで展示販売をしたときに、「初めて見る。」とか、「変わった形の急須ですね。」など、多くの方に言われました。見慣れない形の急須と いう印象を受けるためか、数個売るだけでも大変でした。」

 

 

変わった形で一見、不格好な急須にも見えるが、お茶を入れる道具としての急須という機能性の面から見れば非常に理に適った形で、どこにでもある普通の急須に比べれば使い勝手を考えた故に辿り着いた究極の形の急須とも言えるのである。
このペリカン急須は、晋六窯工房にある店舗にずらりと並べて販売されているし、晋六窯のウェッブサイトからも購入することができる。

京焼窯元 晋六窯

また、美香さんは陶磁器や陶磁器の業界に関してのお話しを大変熱く語って下さった。
「陶器が売れない時代になっているので器そのものを売るというよりは、陶芸教室や陶芸体験など陶芸のスタイルを売るとでも言えるようなやり方に陶業界は変 わってきている状況下にあると思いますが、市場開拓ということで考えれば、まだまだキャパシティーは未開拓だと言えると思います。陶芸教室や陶芸体験を売 りにしていくことも大切だと思いますが、私たちは、やはり物作りですから作品を売っていくのが本道だと思いますね。」
正に、言われるとおりで頷くしかないご意見である。

 

 

IMGP9242-2  「私たちが日ごろ、どういう思いで作陶しているか、清水焼はどれだけの手間をかけて作られているものかをちゃんと伝えて いかないと。そして、この器を使うことによって、どのような楽しい生活ができるのかや、より良い生活ができるかということを説いていかないと駄目だと思う のです。作品が自ら語ればよいのですが、見た人は説明がなければ、ただの陶器にしか見えないと思います。作品を見ていただいたときに、単に作品を見るだけ でなく、その先にある、より良くて楽しい生活が見えるように説明をしてあげれば陶器もまだ売れる余地は充分にあると思います。そうやって個々の窯元が売っ ていかないと、私たち個人の問題だけでなく、京焼・清水焼そのものの衰退を招くことになると思います。」
美香さんのこの意見に対して、ご主人の浩臣さんは、
「若い人が陶芸教室や陶芸体験などを通して陶芸に触れることで、こんな風に作るのかと理解してもらい、京焼・清水焼の導入になれば、それはそれで良いこと でしょうね。そして、そのことがきっかけとなって、陶芸の道に入ってくれれば、なお良いことでしょうが、作った物が売れなくて陶芸家になっても生活ができ ないとなれば、陶芸を生業にしようと考えることもないでしょう。やはり、私たち現行の窯元が頑張って売らないと伝統を引き継いでもらうことも期待できませ ん。」
この後継者の問題は京都における伝統産業全般に関して大きな問題と言えるが、京焼・清水焼も例外ではない。

 

 

 

IMGP9509  「京都府や京都市も行政が若い人向けに補助金を出して、伝統産業を受け継いでくれる人を応援してくださっています。これ はとてもありがたいことですが、未来永劫に補助金をいただけるわけではありません。補助金支給が無くなっても自らの力で売っていける土壌を自分自身で作る ことが大切です。その土壌づくりをバックアップしてくれるシステムがあることの方が、必要なのではないでしょうか。昔のように個々の窯元に力があった時代 なら、そういうバックアップを窯元ができたのでしょうが、今の時代、窯元自体に職人さんを雇う力が弱くなっている現状では、新しく陶業界に入ってくる若い 人たちにとっては厳しい環境なのでしょうね。」
清水焼に限らず、伝統産業とされる業界は、どこでも新しい世代への移行が難しくなっている。これも時代の流れと言ってしまえば簡単なことだが、何世代にも渡って脈々と受け継がれてきた伝統を絶やしてしまうとなれば、なんともやるせない、忸怩たる思いがある。

 

 

 そんな現状であっても、京谷さんは希望を持って前へ進むべきと語られる。
「桃山時代に焼き物を作っていた人は、 その時代の世の中に求められていた焼き物を作っていただろうし、江戸時代、明治時代になってもやはり、その時代の世の中が求める焼き物を作っていたのだろ うと思います。ですので、平成の時代に焼き物を作っている私たちは、この平成の世の中が求める焼き物を作れば良いと思うのです。陶磁器が売れなくなった今 の時代でも、このような陶器があれば欲しいと思えるものがあるはずです。」
食器という面で陶器を考えてみても、時代時代で食の様式が変化する。現代では、江戸時代以前に比べて、圧倒的に洋食が家庭でも外食でも食べられるように なっていることは言うまでもないことで、そういう食のスタイルに合わせた食器が当然求められる。器に施される装飾に関しても、今の時代が求めるものがある に違いない。

 

 

IMGP9460 「これは先日新聞で見たのですが、西陣織メーカーが、日本刀を題材にした人気インターネットゲームの関連グッズとして、がまぐちなどの小物を製作し、2万個の大量受注につながったそうです。ネット上で話題になり、人気に火が付いたとありまし た。今、アニメのキャラクターの関連グッズが人気で、これもまた、今の時代が求めるものの一つと言えると思うのです。伝統を受け継ぐということは、昔から 使われてきた技法を受け継ぐということに等しいですが、なんら応用もなく昔にデザインされた同じ物を何の考えもなしに作っていれば良いということではない と思います。陶磁器も今の時代に求められるデザインを取り入れて作っていくことがないと、現代の世の中に受け入れてもらえません。そのための感性を磨く努 力を惜しまないことが大切なのでしょうね。」
自分たちが作る焼き物に関しても陶磁器の業界に対しても、これから先のことを大いに見据えて自らの仕事を考えておられる姿勢を京谷ご夫妻から強く感じ取られたのであった。

 

 

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晋六窯

京谷浩臣

1963年  兵庫県姫路市に生れる
1985年  大阪芸術大学芸術計画学科卒業
1986年  京都府立陶工職業訓練校成形科修了
1987年  同 専攻科修了
4月より  ㈱平安春峰にて煎茶器製作に従事
1991年  晋六陶房に従事の傍ら自身の作品を制作。現在に至る
2014年  京焼・清水焼 伝統工芸士に認定

京谷美香

1960年  辻 勘之の長女として京都に生れる
1981年  京都精華大学短期大学部卒業
同  年  株式会社 京都銀行入社
1985年  株式会社 京都銀行退社
同  年  京都府立陶工職業訓練校 図案科入学
1986年  京都府立陶工職業訓練校 図案科修了
父の元 晋六陶房にて従事
1988年  作陶グループ『職器流』を結成 以後毎年作品展を開催
1995年  第50回記念姫路市美術展に入選
2001年  法人化 現在に至る
インターネットサイト「晋六陶芸館へようこそ!」をオープン
2005年  オンラインショップの本サイトをオープン

有限会社 晋六
〒606-0015
京都市左京区岩倉幡枝町322番地
TEL:075-721-3770
FAX:075-721-6237
E-mail:kyoto@shinroku.com
フェイスブック:https://www.facebook.com/kyoto.mika
手作りの陶器を製造販売:http://kyoyaki.net
毎日使う器を作ろう!陶芸教室:http://shinroku.com

伊藤竜也

2015.10.05 更新

IMGP8066大正時代から続く、清水焼の陶業地である日吉地区で作陶をされる伊藤竜也さんを今回は訪ねた。伊藤さんは、高校を卒業さ れたあと、ロクロの技術を身につけるために京都府立陶工高等技術専門校に入られた。ただ、伊藤さんの場合は、家業が清水焼の窯元であり、子供の頃からロク ロを回して器を作るということはされていたとのこと。
「小学生の頃は、よくロクロをしていました。中学の頃と高校生の頃はあまりしませんでしたが、それこそ、小学生の頃は何度もロクロを前に座って、遊びの延 長という感じでやっていました。遊びでロクロを回していたという感覚もあり、特に、父に教わることはなかったのですが、父の見様見真似で手さばきを工夫 し、それなりの器は作っていました。」
いわゆる、“門前の小僧習わぬ経を読む”といったところである。
高校を卒業されたあと、陶工技術専門校に入られる前、半年ほどの間準備期間があり、その時は父親に付きっきりで教わりながらロクロの練習をされた。その後、陶工技術専門校で本格的に技術を習得されたのである。

 

 

DSCN7147伊藤さんは陶工技術専門校に2年通われ、1年目はロクロ技術の修練、2年目は釉薬研究にウエイトを置かれて学ばれた。現在、伊藤さんが焼かれる作品は、陶工技術専門校での釉薬研究の成果を元に調合される天目釉がかけられたものだ。
天目釉であっても、ただ単に、全体的に黒く発色する天目釉ではなく、乳濁色を帯びているというのか、黒色をベースに、黒以外の発色が各種入り混ざったよう な複雑な表情をもった釉薬である。複雑な表情と言っても見て受ける印象は難解というものではなく、窯で焼かれる時に色々な要素から自然に生み出された色 で、その発色が実に美しい。
それも、同じ大きさで同じフォルムの器でも、それぞれに発色の状態が違っていて、全く同じというものがない。これは、窯で焼かれる時に、それぞれの器が窯 の中の置かれた位置の違いから起きる、還元炎の当たり方の違いや釉がけの時に個々の器に生じる釉薬の厚みの違いなどから、そういった個性が生まれるのであ ろう。
当然ながら、焼成時の偶発性から生み出される作品の個性であって、それであってこそ、一つ一つ、個性を持った作品であることが面白いのである。

 

 

DSCN7160 ただ、天目釉というと、鉄分が比較的多い赤土系の陶土で作られた素地に施されていることが普通はほとんどだが、伊藤さんの作品は素地が白いものに天目釉がかけられている。
「私の作品は、磁器の素地に天目釉をかけています。私自身もともと、陶器よりも磁器の方が好きで、磁器の素地にかけて、天目として発色する釉薬を研究して、この天目釉を作り出しました。」
通常、陶磁器を焼く時の焼成温度は、陶器よりも磁器の方が高いことが多い。それ故、陶土の素地にかける天目釉よりも、伊藤さんの作品のように磁器にかける天目釉は融点が高い調合にしなければならない。
「家が磁器を作る窯元ですので普段焼いている、磁器を焼く窯に一緒に入れて焼ける天目を目指しました。陶器を焼く窯よりも温度が高いですから、赤土素地で すと素地自体にブク(温度が高すぎて土に含まれるガラス成分が溶融し、素地が部分的に発砲する現象)が出たりします。ですので、素地も磁器を焼く窯に合わ せて磁土で作ったものになりました。」

 

 

IMGP8094 伊藤さんは、磁器がお好きで磁土ベースの天目釉になったと言われるが、天目釉を磁土に施すことによって思わぬ好結果が得られているということもあるように思う。
伊藤さんの天目釉のように、乳濁を起こす釉薬は、磁土に施した時は綺麗な乳濁になるが、同じ釉薬を陶土に施すと乳濁を起こさないという現象があったりする。
また、器一つ一つに表情が違う焼き上がりになるのも、釉薬の厚みによる微妙な差異から出るものだと仮定すれば、地色が白い磁土に施された天目釉であるが故、発生する個性ということも言えるのではないだろうか。
陶工技術専門校を修了されてからは、家で作陶を続けて現在で5年目になるそうだが、陶工としてのキャリアが5年というのは、一般的には陶工として、まだ新 米の部類に入るかもしれない。しかしながら、5年目にして、これだけの作品を焼き上げられているのはすばらしい。
伊藤さんは、この天目の作品で、平成26年に開催された「日吉開窯100周年記念コンペティション」において最高得票数を獲得され「一般投票で選ばれる最優秀グランプリ賞」を受賞されている。

 

 

IMGP8212 伊藤さんにこれからの作品造りの方針についても尋ねてみた。
「新たに、黄色味がベースの釉薬を研究したいと考えています。清水焼窯元としての家の作風は、染付のものが主流なのですが、私自身一人だけで手がける作品となると、釉薬だけで表現できるものになると今は思っています。」
今後も、釉薬のバリエーションを増やし、作品の幅を広げていこうと伊藤さんは考えておられるようだ。
「今の仕事のスタイルとしては、主に家の窯元としての仕事をしながら、時間を作っては自分の作品造りに励むというやり方です。とにかく今、仕事をしていて、とても楽しいです。今が一番、毎日が楽しくて充実しているように思います。」
職人としても、一人の陶芸家としても伊藤さんは今、ノリに乗っているといったところなのであろう。楽しいと感じて作っておられる作品には、その思いが一つ一つの作品におのずと、反映されてくると思う。
伊藤さんは現在、力を入れて作っておられる天目釉の作品で、初めての展覧会を12月に京都陶磁器会館の2階ギャラリーで開催される。
希望に満ちた伊藤さんの作品に喜々としたものを感じられる展覧会になるに違いない。陶芸家として、まだまだこれからの伊藤さんの活躍に大いに期待する。本当に、心から頑張っていって欲しいと願う。


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紫峰窯  伊藤竜也

1988年 京都に生まれる
2009年 京都府立陶工高等技術専門校 入学
2011年 京都府立陶工高等技術専門校 修了
修了後、父(紫峰)に師事する
2014年 日吉開窯100周年記念コンペティション 一般投票で選ばれる最優秀グランプリ賞受賞

〒605-0953
京都府京都市東山区今熊野南日吉町76番地136
TEL/FAX 075-541-7159
E-mail:ta05tu10@gmail.com

 

 

 

 

加藤清昌

2015.03.30 更新

 「職人仕事に高い芸術性と魅力を感じて、私も絵付け職人として頑張りたいと思うようになりました。」と語られる加藤清昌(かとうせいしょう)さんは、京都市東山区泉涌寺地区で工房を構えて作陶をされている。今は、ほぼ絵付けを専門として日々の仕事をされているが、高校を卒業されたあとに進まれた京都府立陶工職業訓練校(現、京都府陶工高等技術専門校)では二年間、ロクロ成形を学ばれた。しかしながら、父である先代の加藤清昌氏がロクロの専門であったことや、良い作品を作り出していくためという理由から、絵付けの必要性を強く感じ、ロクロから絵付けの仕事へと移行されていく。絵付けの技術に関しては陶絵師の水谷光年氏に師事されて絵付けを習得されていった。 加藤清昌さんは、二代前であるお祖父さんが、瀬戸から京都に移られて、清昌窯を開かれ、現、加藤さんで窯元としては三代目となるが、現在は煎茶器を主とする茶陶を専門として作陶されている。父である先代清昌さんが作られる白磁の素地に色絵で絵付けをされて作品に仕上げていかれるのだが、その施されている絵付けが、非常に細かくて緻密な絵となっている。

 

 

 

 「最近の陶芸をやっている若い人は、絵を描かないように感じるのですが、どうなんでしょうかね。手間がかかり、熟練した技術を要する絵付けよりも、奇抜な形状の物を作品としたり、絵よりも釉薬で勝負するというようなものが若い人の作品には多いような気がします。私は毎年、日本煎茶工芸展に作品を出品しているのですが、年々、もっと良い物をと求められるようなところがあって、それに応えるべく、私自身の絵付けや他の装飾技術も高めていったと思っているんです。」 加藤さんが、磁器の素地に施される絵付けは、染付、色絵、交趾など複数の技法を用いて行われる。職人技として一つの技法を習得するだけでも、かなりの努力を必要とするところを複数となれば、加藤さんの技法習得のための修練は相当なものであったに違いない。 「父親がロクロをして作った素地に絵を付けますが、高齢にもかかわらず、今でも元気で仕事をしていてくれますので、私の仕事も成り立っていると、父親には感謝しています。清昌窯の作品として作っているものは茶道具なのですが、その茶道具の中でも煎茶道具が専門です。ですので、比較的小さな物ばかりを制作しています。物が小さいので高齢の父親でも、今でもロクロ仕事が続けられる。そういう意味でも窯の作品として、茶道具を選択したのは正解だったと思っています。」

 

 

  日本煎茶工芸展に出品されている、加藤さんの作品が載っている図録を見せていただいき、実際に出品された作品そのものも見せていただいたが、良いものをと求められ作り続けてこられたその成果が見て、よくわかる素晴らしい作品である。加藤さんの高度な絵付け技術をもってして施された絵はもちろん、素地自体に加えられた土盛りの成形技法も加藤さん独自の高等技法だ。普通は、素地そのものを作った後に、泥状にした土を素地に盛ると、盛った泥が乾燥する段階で、必ずといって良いほどひび割れができたり、ひどい場合には、盛った土が乾燥による収縮で素地から剥がれてしまったりするが、加藤さんの作品には、それがない。 「この土を盛るやり方は、私の得意技の一つでもあるんですが、ひび割れや剥がれが起こらない盛り土の配合を、随分と何度も繰り返し研究しました。」 日本煎茶工芸展出展期間の数ヶ月前から、出展作品の制作に取りかかり、納得のいく作品ができあがるまで、神経をすり減らしながらでも緻密な作業を繰り返して作品を仕上げていかれるのだそうだ。

 

 

 加藤さんの普段の仕事でも、作品に込める思いは強いものがある。特に、絵付けに関しては一つの技法に留まらず、染付、色絵、交趾など、貪欲なまでに複数の技法を駆使して数々の作品を作られる。 「私のように色々な絵付け技法に手を出すのではなく、一つの技法に執着して極めた人が描かれる絵は凄味を感じるものだと思いますが、そうやって色々な技法に挑戦することができる自分自身の環境がありがたいと感じて仕事をすることが大事だと考えています。」 複数の技法を用いて施される加藤さんの絵付けには、加藤さん独自の世界観が反映されたデザインになっているものが多い。 「私は煎茶器を専門としていますが、最近は器の一周ぐるりと全面に絵を付けてはいけないのではないかと考えるようになりました。器にも表と裏があってしかるべきということや、例えば煎茶の急須なら口のところにくるべき絵というものがあるのではないかと考えるようになっています。特に山水の絵などは、そういう観点が基本にあって、絵を付けないといけない。なぜなら、山水画には、それを見て物語を感じてもらえるようなものでないといけないからです。」 絵付けという作業が、単なる模様を施す作業ではなく、人物画なら人の動き、風景画なら季節というような、器に施された絵からそういう息吹のようなものを感じる絵を付ける作業であるべきなのだろう。

 

加藤さんは、自らの仕事に関して、これからの展開についての話もして下さった。 「海外では、日本酒が注目されていて人気が高まっているそうです。イギリスの出身で現在アメリカでもデトロイ・トテクノのミュージシャン、DJとして活躍しているリッチー・ホーティン(Richie Hawtin)という人が間に入って、海外で京都の伝統工芸品をアピールしてもらおうという事業が京都市によって「KYO-MONO is COOL!プロジェクト」と題して始まりました。先日、私はその事業の会合で、リッチーさんとお話をさせていただきましたが、海外での日本酒ブームに乗って、お猪口や杯などの日本の酒器も海外で売っていこうという意気込みをリッチーさんのお話から感じました。これは、日本の焼き物が、これからの展開として目指すべき方向の一つの動きであると思います。これからは、海外にも目を向けて、日本の焼き物をアピールしていかないと、いけないのではないでしょうか。」 伝統技法を重視して、作品造りに真摯に取り組まれるだけでなく、海外展開にも目を向けて先に進もうという姿勢も持っておられる。加藤さん仕事は、そういう意味では温故知新的なものがあるのかもしれない。加藤さんのこれからの活躍が楽しみだ。

 

 

 

三代 加藤清昌

1967年 京都市に生まれる
1988年 京都府立陶工職業訓練校専攻科修了
1989年 京都市工業試験場陶磁器研修コース本科修了
二代、加藤清昌の下で製陶に従事する
陶絵師の水谷光年先生に絵付けを師事
2010年 三代、加藤清昌を襲名
日本煎茶工芸展 工芸協会賞受賞
2013年 京焼・清水焼展 京都府酒造組合連合会会長賞受賞 審査員特別賞受賞
2014年 日本煎茶工芸展 工芸協会賞受賞

煎茶工芸協会正会員

〒605-0976
京都市東山区泉涌寺東林町35
075-561-8982

犬塚陶房

2014.12.13 更新

京都府宇治市内ではあるが、宇治駅よりも北東方面に、直線距離にして3キロほど離れた山の中にある炭山地区で工房を構えられる犬塚陶房を訪れた。

工房名は「犬塚陶房」であるが、お話を伺ったのは奥様の柴田美智子さん。「犬塚陶房」はご主人が独身の時に立ち上げられた工房で、当時の姓の「犬塚」から名付けられたそうだ。結婚により奥様の姓の「柴田」を名乗られており「犬塚勇」氏はそれを期に(号)柴田轆轤とされた。
ご主人の柴田轆轤さんは、炭山地区が現在のような陶芸作家や窯元が集まる陶業地となったきっかけを築いた先導者の河島浩三氏の下で修行をされていた。
ご主人が河島氏の下に弟子入りされた当初は、京都市内の東山五条に河島氏の工房があったそうだが、京都市内では薪窯を条例で焼くことを禁止されたことや、家屋が密集する京都市内よりも広々とした所で作陶を続けようという河島氏の考えから、宇治市炭山の地に行き着いたということらしい。

 

 

この河島氏の思想に賛同した作家や窯元がいくつもあり、何軒もの窯元が同時期に京都市内から宇治市炭山に工房を移した。
「主人も、師匠の河島先生に声掛けをいただき、炭山工芸村(当時)で開窯し、現在もこの地で自身の工房を構えています。」

河島氏の工房での修行を終えられて後、より多くの陶芸技術を身につけたいとの考えから、日本六古窯の一つである愛知県常滑市の常滑焼の窯元に入られた。
常滑焼では、その伝統的な焼き物も生産されているが、京焼・清水焼とは違って、古くは上下水道に使用される陶器製の土管や建築資材としてのタイルの生産なども盛んで、焼き上がった物の規格や寸法の精度が求められる工業陶器の技術が高いことで知られている。

ご主人の柴田轆轤さんは、京焼の河島氏の下で食器の作陶技術を学ばれ、常滑で工業製品的な陶業技術を学ばれたことになる。

 

 

お話を伺った柴田美智子さんは、ご主人と結婚されるまでは、店舗設計のお仕事をされていた。
ご主人と結婚されたことで、奥様の美智子さんも陶芸の世界に入られることになったのだが、作品を作られる際にも、店舗設計のお仕事をされていた時の経験や知識などが、陶芸に役に立っているそうだ。
「新作を作る時は、私がまず大まかなフォルムやデザインを考え、主人が主たる成形をします。それで出来た生地に娘が絵付けしていくという親子三人の共同作業で作っています。つまり、犬塚陶房の作品は私と主人、そして娘の三人の合作です。」と、美智子さんは話される。
美智子さんは、最初に灯籠の作品を見せて下さった。

 

 

 

 

「これは2003年の3月から始まった、京都・花灯籠の企画で制作の依頼を受けて作った灯籠です。京都の窯元は、予め規格が決められた工業製品的な焼き物を作ったり、ある程度以上の大きなものを作ったりすることを得意とされる方が意外に少ないのです。主人は常滑で修行をした経験がありますから、こういう灯籠などの大きな規格の物を作るのが得意でしたので、犬塚陶房に白羽の矢がたったようです。」
電球で明かりを灯す灯籠は、電球を付ける器具を組み込むための穴や電線を通す穴を灯籠に開ける作業を必要とする。
特に電球を付けるソケットを固定するための穴は、焼き上がりの寸法がきっちりとソケット台座の径に合致するように収縮を計算して、焼き上げる前の素地に開けなければならない。
こういう技術をご主人の柴田轆轤さんは常滑で習熟されたのだ。

 

 

京都市の企画で始まったこの「京都・花灯籠」は、灯籠を製品化する前に、できあがりの灯籠の正確な図面を先に提出する必要があったそうだが、その図面は店舗設計の経験がある奥様が製図されたとのことで、結婚前のお仕事の経験が生かされたのだ。
「京都・花灯籠」で制作された灯籠を初めとして、後にシリーズ化されたいくつかの灯籠の作品が犬塚陶房には展示してあるが、円筒状の二重構造になった灯籠は、外側の筒がクルクルと回せる仕組みになっていて、明かりの光度を調整できたり、内側の筒に施された絵が見えるように窓枠を合わせられるようにできたりという工夫がなされている。
灯籠以外も、もちろん、ご主人が河島陶房で修行をされた時に習熟された食器類の作品も数多く作られている。

 

 

中でも、まず目を惹いたのは、これぞ辰砂と言えるような赤く発色した器類であった。
「辰砂は、もっとたくさん焼きたいと本当は考えているんですが、やはり、銅を発色剤としている辰砂釉は、高温になると窯の中で銅がある程度揮発して、隣に置いた器に色移りするので、辰砂以外の作品と一緒には焼けません。辰砂だけを焼く専用の窯がほしいですね。専用の窯を築いたら、辰砂の作品をどんどん焼きます。」
と、美智子さんが話されるように、銅を発色剤とする辰砂釉や釣窯釉は窯の中で高温になると揮発し、周りの器の釉薬に溶け込み、周辺の器の一部を赤く発色させてしまうことがある。

 

 

故に、これら銅を発色剤とする釉薬を嫌って、焼くことを避ける窯元が多くなっているのが事実だ。美智子さんが希望されるように、専用の窯で辰砂や釣窯の作品をもっと焼かれて、発表してほしいと願う。
犬塚陶房の作品には、いわゆる土物の陶器の作品だけでなく、半磁器の作品もある。白生地の器に下絵用の色絵の具で彩色された作品が、なんとも色使いが優しくて、可愛らしく、娘さんが描かれた絵が女性らしい雰囲気を醸し出している。絵の題材として取り上げられているものも、バンビやウサギ、草花などであることも女性らしく、メルヘンチックな世界観を持っている作品と感じる。
「この作品に使っている下絵の具は、陶芸材料店で売られているものですが、そのままでは定着や発色が良くないので、助剤や釉薬も犬塚陶房で研究しました。」

 

 

絶妙に調合を施された絵の具が、うまく上薬に溶け込み、優しい色使いとなって、作品を色づけされている。なにしろ、独特の世界観を持った作品群で、正に犬塚陶房オリジナルであり、他の窯元の作品には類を見ない作品と言えるだろう。
半磁器の作品の中には、呉須によって染付の絵付けを施されたものもある。日本庭園に置かれている石灯籠のような形をした染付の作品は、四つに分かれる構造になっており、実は、そのうちの二つがお皿、一つが湯呑で、組み合わせると灯籠になるといった、面白い、遊び心を盛り込まれた作品となっている。

 

 

犬塚陶房の作品は土物もあり、白ものもあり、絵付けに関しては、下絵の色絵のものがあり、上絵の色絵のものもあり、また、染付もありと、実にバラエティーに富んでいる。
成形の技術はもちろん、デザインやそれを器に施す絵付けの技術、どれを取っても高レベルでないと、これほどまでのバリエーションは持てないだろう。
下絵の色絵の具を用いて可愛い動物や草花などを描いた作品には、その優しくて暖かい雰囲気の絵から、親子で焼き物を制作されている犬塚陶房の、それら作品に家族愛さえも感じる。
家族全員の力を合わせ、日々の研鑽を重ねられて、豊かな犬塚陶房作品が産み出されていくのだ。
これからも美しくて、見て楽しくなるような、様々な作品を作り続けて行かれることと思う。

 

 

 

 

 

 

柴田 轆轤

1947年 京都市中京区に生まれる
1962年 河島浩三陶房に入門
1965年 愛知県常滑市の加藤嘉明氏に師事を受ける
1967年 三重県四日市市の三位陶苑に勤める
1969年 協同組合・炭山工芸村にて独立、犬塚陶房を開設
1970年 新陶人に入会
1978年 以来、京都陶磁器協同組合連合会「京焼・清水焼」展覧会に出品し、数々の賞を受賞
1991年 ギャラリー犬塚を開設
1998年 「犬塚 勇」改め雅号「柴田轆轤」とす
2002年 京焼・清水焼伝統工芸士に認定される

 

犬塚陶房 柴田轆轤

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