横山武司

2012.12.21 更新

中国で初めて焼かれた釉陶(上薬がかかった焼き物)は、青磁であるとの説もある。横山さんは、主にその青磁の器を製作されていて、食器と茶道具の両方を手がけられる。
釉陶は、古くは中国が殷(紀元前1600年~紀元前1028年)の時代からあるそうで、灰を水に溶かして、すっぽりと器にかけ1200度から1300度の高温で焼き上げたものだが、灰の中に、自然に含まれる鉄分によって、器の表面が青緑色もしくは緑色に発色する。これが青磁の器の原型だ。
横山さんは、この青磁の釉薬を祖父の時代から伝えられた割合で、自家にて調合されている。

 

 

その色合いは、単なる鉄分だけによる青緑色というものではなく、発色剤として微量のコバルトやクロムなども含まれた、青磁としては深みのある発色を呈する。
横山さんの御祖父の時代からの割合で、そのまま同じように調合されているとのことだが、やはり、その時代と比べて、現在では原料の質の変化や、原料によっては、そのものが今では手に入らないなど、昔のものとは焼き上がりの色合いが微妙に違ってくることは否めない。

 

 

 

横山さんは、「原料の質の変化で当時の青磁の色合いと違ってくることは、それはもう仕方がない事ですね。おじいさんの調合ノートを見ても、当時の呼び名で書いてある原料もあり、今となっては、これは何だ?と、思うような不明な原料もあります。」と、笑って言われる。

横山さんの作品で、特に目を見張ったのは、器の側面全体に大胆に透かし彫りを施した作品で、その丁寧に彫られた模様から長い時間をかけて、じっくり作り上げられたことが伺える逸品である。「透かし彫りの作業は、まだ器が土から乾ききっていない、柔らかいうちに彫ってしまわないとできないのです。」と横山さんは言う。

 

 

 

全面に透かし彫りを施す作業は、短時間で完結できないのは明らかだ。湿った布で器を覆い、乾ききらないように面倒を見ながら、彫りの作業を丁寧に進めるのである。この透かし彫りの作品は、中国の耀州窯で焼かれた青磁の透かし彫りの作品に通ずるものを感じる。
横山さんの作品の中には、青磁以外にも黄磁の作品もあり、こちらは中国の郊壇官窯で焼かれていた「米色青磁」に通ずる雰囲気を感じる。浮き彫りで草花模様を施された白磁の器も実に美しい。

 

 

 

浮き彫りによって模様を施され、透明釉(白磁)や青磁の上薬をかけられたものは、その模様の輪郭に透明釉が溜まり、陰影が生まれる。この陰影の部分を陶磁器では影青(インチン)と呼ぶのだが、横山さんの作品はこの影青の美しさが清々しい。
「私がやっているような、こういう仕事は、継いでいこうという若い人が、今はほとんどいません。面倒な作業ですからね。」横山さんは残念そうに言われるが、「簡単に量産できる作品ではありませんから、知り合いやお得意様など、個人的につながりのある方に直接お売りさせていただいています。」
横山さんの作品は、心を込めて作られたものが、横山さんご自身の手で直に、購入者に手渡される。正に、購入者にとって他にない逸品なのである。これからも、長く作品造りに励まれるよう願いたい。

横山武司

京焼・清水焼は永く王城の地、京都に江戸時代初期、仁清・乾山などの名工が輩出して、
その祖を築き、その永い伝統が現在に続いています。私は、この清水焼のなかで、
二代目瑞祥の薫陶を受け青磁、黄磁など、もっぱら色釉の磁器に独特の境地をだしています。

1956年     京都市生まれ
1974年     京都市立日吉ケ丘高校卒
1979年     家業に従事
2006年     伝統工芸士に認定される
京焼・清水焼商工会議所会頭賞
京都青窯会作陶展京都新聞社賞
京都商工会議所会頭賞

京焼・清水焼 瑞祥窯 伝統工芸士 横山武司

〒605-0976 京都市東山区泉涌寺東林町35
TEL:075-561-6263

伊藤圭一

2012.11.17 更新

 

京都市東山区泉涌寺で作陶される伊藤さんは、ハワイやパリでも作品を展示販売されている、グローバルに活躍されている陶芸家だ。

伊藤さんのお父さんは、画期的な技法を用いたデザインの作品を発表されるなど、京焼・清水焼の業界内では先進的な役割を果たされた方だったが、伊藤さんがまだ幼い頃に亡くなられた。「父親が早くに亡くなったことは、世間からすればマイナスに見られるかもしれませんが、そのことからも自分でやっていかないといけないという気持ちが強くなったかもしれませんね。」と、伊藤さんは話される。同時に、このお父さんの血も確かに引き継がれているのだろう、伊藤さんの仕事も先駆的なのである。

 

伊藤さんの作品は、交趾(こうち)と呼ばれる色鮮やかな発色をする釉薬で彩色した磁器の作品が中心だ。焼き物の仕事を始められた頃は、染付の磁器を製作されていたが、染付磁器はプリントによるコピーものの工業製品で市場が溢れかえるようになって嫌気がさし、交趾の作品造りに切り替えられたそうだ。オリジナリティーとクオリティーを追求したかったと話される。

確かに、伊藤さんの交趾の作品は、ピンクに発色するものや宝石のオパールのような発色をするものなど、一般の交趾焼にはない色合いのものがある。正に、伊藤さんオリジナルのものだ。

 

ラピットプロトタイピングというコンピューターグラフィックの技術を応用し、正確に八角に面取りされた水指の原型を作り、それを元に作品に仕上げる。今までの焼き物作りにはない革新的な技法を考え付かれたりするなど、クオリティー追求にも余念がない。
「コンピューターグラフィックで原型を作るというと大量生産と勘違いされる人もいますが、そうではないんです。私にとっては器の素地を轆轤で作るのと同じように、それをただ、コンピューターグラフィックで作ることに置き換えただけ。素地を轆轤で作るのもコンピューターグラフィックで作るのも同じことなんです。」

 

現代には、現代であるからこそ存在する新しい技術がある。それを焼き物に応用することは、なんら不自然なことではない。伊藤さんの焼き物に対する積極的な見つめ方が、そこにはあるのかもしれない。

 

「やっぱり、人との出会いが大切です。出会いによって人生の方向が変わってくる。10年前には想像もできなかった自分が今ここにいる。」
伊藤さんは、それまでには陶磁器に使われていなかったような技術や材料も、焼き物に応用できるのではないかと感じれば、開発者と親交を深め、新たな出会いを積極的に求めていく。そして、粘り強く研究を繰り返し、陶磁器にその技術や材料を盛り込む術を実現される。
今までにはなかったもの、他人(ひと)に、簡単に真似されないものを如何にして作るかということを、常に考えておられるそうだ。

 

 

いわゆる、伊藤さんの作品はアート的な作品というよりは、オリジナリティーの強い“商品”であるということも言えるかもしれないが、伊藤さんは「私の場合、どのような陶器が売れるのだろうと考えることが出発点かもしれませんが、良いものを作りたいという強い気持ちで突き詰めていくと、とどの詰まりがオリジナリティーやクオリティーにこだわるという、作家が求めるものと同じにものになっていくのです。」と話される。

 

「焼き物を作っているときは、商売やお金のことは考えていません。ただ、良いものを作ろうということだけが頭にあります。」
20年ほど前にフランスの首都パリで「京焼・清水焼パリ展」というのが開催されたことがある。
その展覧会に参加された伊藤さんは、海外で日本の陶磁器を販売することに、それがきっかけで思いを抱くようになられたそうだが、同時に海外で日本人が商売をする難しさも痛感された。

 

数年が経ったとき、パリで店を構えて料理を出そうと考える京都の料理人と出会うこととなる。「パリで日本料理店を営むという高いハードルに挑むような人は、どういう考え方を持っているのか、非常に興味がありました。」伊藤さんは、この人気店を営む料理人との出会いも大切に考え、親交を深めたのである。

 

そして後に、この料理人との出会いがやがて発展し、ハワイでのレストラン&ギャラリー出店に繋がるのである。
伊藤さんは、「料理人の方や世間一般の方から、陶器を作っている人は、人にできない次元の高い仕事をしていると思ってもらえて、一目置かれるようなところがあります。ですから、陶磁器にかかわる者はその期待に応えるべく誇りを持って仕事をしなくてはと思いますね。もっと表に出て行くことも大切なことで、常に向上心を持って取り組めば必ず良い方向へ進むと思います。」

 

ドイツには、マイスター制度というのがあり、高品質な物を作れる職人がマイスターの称号を与えられ、人々から尊敬される風土があるらしい。ただただ、羨ましい国だと指を咥えて思っているだけではいけない。日本でも、そうあるべきと伊藤さんは言われているように思えた。もの作りとしての姿勢、陶器を生業として仕事をして行くにはどのようにすべきなのか。伊藤さんは自らそれを実践されているのだと思えるのである。

 

伊藤さんが工房を構えられる泉涌寺地区は、同じ窯元約50軒が集まる陶業地である。
秋には毎年「紅葉まつり」なる陶器市が開催される。伊藤さんは、このお祭りでも企画立案者として中心的な役割をされている。
焼き物に対しても先駆的な活動をされ、地域の祭りでもリーダー的な存在で、才能豊かな方と言えるだろう。これからも、陶器業界を牽引するリーダーであってほしい。

 

伊藤南山

1959年 京都市に生まれる
1994年 パリにて個展を開催
1999年 伝統工芸士に認定される
2005年 浅黄交趾鳳凰紋皆具が鵬雲斎大宗正の御好物となる
2007年 水指がマレーシア国立美術館のパブリックコレクションとなる
2011年 京都デザイン賞入選

有限会社 平安陶花園 伊藤圭一

〒605-0976 京都市東山区泉涌寺東林町37
TEL:075-561-8223
FAX:075-533-0007
E-mail:nanzan@toukaen.jp

八木徹

2012.10.05 更新

 絵を描きたいとの強い思いから、「父親の大反対を押し切って、陶芸の世界に飛び込んだのは16歳の時でした。」と話す八木徹さん。八木さんは、もともとお茶農家に生まれ育ったが、陶芸の仕事をしたいという希望で、京都市内の陶工職業訓練校に入り、その後、清水焼窯元に住み込みで修業された。「朝の掃除から始まる、内弟子として修業をした5年間は、もう毎日が嫌で嫌でね。」と言われるが、「でも、その頃に覚えたことが今、こうして身についているのが不思議です。」とも話される。
八木さんは、本焼きをした器に色鮮やかな色絵の具を使って絵を施す上絵(色絵とも言われる)を得意とされる。作品は、実にバラエティーに富んでいて磁器に赤絵を施したものや赤土で作った器に上絵を施したもの、染め付けと上絵をコラボさせた器など、八木さんの多才な面を垣間見るような、見事な作品が数多くある。

 

 

そして、注目すべきは陶磁器に上絵付けを施すに留まらず、ガラスに上絵を施した作品も製作されていることだ。ガラスに上絵付けをして焼くというこの作業は、実は簡単なことではない。本来、上絵付けの絵の具はガラス質の透明な釉薬に、発色剤となる金属元素が調合されたもので、どちらも同じガラスということでは溶ける温度は同じなのである。 つまり、既存の上絵の具では、単純に絵付けをして窯で焼いても、ガラス自体も溶けてしまい、元の形状を保たない形で焼き上がってくる。

 

 

 

ガラスのコップに絵付けをして、コップとして元の形のまま焼き上がるようにするには、ガラスの融点よりも低い温度で溶ける上絵の具を新たに開発、調合しなければならないのだ。八木さんは、この問題をクリアした絵の具を独自に調合し、窯の温度の上げ方や窯内の雰囲気の調整を幾度も繰り返し焼くことで研究して、現在の作品にまで仕上げられるようになった。その独自の色合いや微細な線使いなどは、八木さんのオリジナルの絵の具と高い技によるものだ。「初めの頃は、何回も失敗を繰り返しましたよ。でも、懲りずに何度も焼いている内に、少しずつわかってくる。」と八木さんは言われる。この、より完成度が高い作品になるまで飽くことなく挑戦する姿勢は、16歳の時に抱いた「絵を描きたい!」という強い思いが今でも、八木さんの中にあるからだろう。

 

 

「私が作る焼き物は、清水焼です。」と八木さんは言われるが、陶磁器に施される絵のデザインや他の技法とのコラボレーションなど、清水焼に新しいセンスを取り入れたいという試みを積極的にされている。ガラスの上絵付けもその一つで、陶磁器とは違い、ガラスは裏面からも絵が透けて見え、陶磁器とは違った透明感を味わうことができる。そして、低火度で焼き付けられた絵の具は、プリントされた模様のように剥がれ落ちることはなく、ガラス越しに見る上絵は実に美しく、永く私たちを楽しませてくれる。

 

 

そういった要素を引き出しにして、清水焼に新たなセンスを加えて行こうというのが八木さんの狙いだそうだ。 八木さんがおもしろい話をして下さった。「モノがモノだけじゃない。モノがあるから作り出せる楽しさを伝えるのも、使命かもしれませんね。“アメリカ人が日本の楽しみ方を日本人に教えたら、日本人に喜ばれる。”というパラドックスのような話があるのですが、京都以外の人に京都の楽しみ方を教える、それをまた京都人に教えたら、京都の人が喜ぶかもしれません。陶器においても作り手の私たちよりも、意外とお客さんの方がよく勉強されていて、知っておられることがあります。“研究”と言うより“教養”で知っている感じがしますね。これからは焼き物文化で、いかにお客さんと一緒に遊んで楽しめるかですね。」

 

 

 作り手側からの視点では、つい見落としてしまう盲点のような部分も、使い手のお客さんの立場からは見えることがある。八木さんは、ご自身の焼き物を使う方の意見や視点を積極的に、作品に反映させたいと考えておられる。
16年の内弟子時代を経て、32歳の時に独立。それから30年が経つが、八木さんの創作活動は今も躍動感溢れている。これからの作品造りに注目したい。八木さんの作品は、全国の百貨店や京都陶磁器会館でも展示販売されているが、(株)宇治田原製茶場が発刊している「月刊 茶の間・お茶と暮らしの情報カタログ」や淡交社発行の「淡交センター・カルム」などの通販カタログからも購入できる。

 

 

八木海峰

1950年 京都府山城町に生まれる
1966年 京都府立陶工職業訓練校修了 初代加藤如水氏に師事
1968年 京都信用金庫四条河原町支店において皇后陛下の御臨席を仰ぎ実演
1988年 第10回京焼・清水焼展にて大阪通商産業局長賞受賞
第31回上絵陶芸展にて京都市長賞受賞
1990年 銀座松坂屋美術画廊において作陶展
国際花と緑の博覧会’90政府苑に出品
第12回京焼・清水焼展にて京都府知事賞受賞
1991年 大阪松坂屋美術画廊において作陶展
1993年 フランス日本大使館別館において現代の京焼・清水焼展に出品
同展において絵付け実演
1994年 第23回日本伝統工芸近畿展入選
1995年 第24回日本伝統工芸近畿展入選
フランス・パリにおいて四人展
1998年 京都高島屋において陶芸とグラスアート展 以降毎年開催
2000年 第22回京焼・清水焼展にてNHK京都放送局長賞受賞
2001年 第43回色絵陶芸展にて京都府知事賞受賞
日本橋三越において作陶展
2002年 日本橋高島屋において作陶展
2003年 京焼・清水焼伝統工芸士に認定 山城多賀へ工房を移転
2004年 第46回色絵陶芸展にて京都商工会議所会頭賞受賞
2006年 京都高島屋において作陶展
2007年 第28回京焼・清水焼展にてNHK京都放送局長賞受賞
第49回色絵陶芸展にて京都陶磁器意匠保護協会賞受賞
2011年 伝統工芸品産業功労者に認定

陶芸 海峰窯 八木徹

〒610-0301 京都府綴喜郡井手町多賀帽子田45
TEL/FAX:0774-82-3699

入江ヒロ子

2012.09.06 更新

入江ヒロ子さん
工房に入ると、棚にずらりと並んだ乳鉢の数に、まず圧倒された。入江さんは、陶磁器の絵付けを専門とされるが、絵付けの中でも特に、器を本焼きした後、鮮やかな色を器の表面に施す色絵を得意とされる。
数多く棚に置かれている乳鉢には、独自に調合された色絵の具が入れられおり、その乳鉢の数だけ、色の種類を持たれている。一つ、赤色だけを取ってみても明るい色調の赤から、暗い感じのものまで4種類ほど用意されていて、緑でも5種類以上の色調パターンがあるそうだ。陶磁器の絵の具は、水彩絵の具のように赤と黒を混ぜれば茶色になるというように、単純には色を作り出せない。水彩絵の具であれば、同じ茶色でも、赤に近い赤茶色から黒に近い焦げ茶色など、自分が希望する割合で混ぜ合わせればすぐに色の確認ができるが、陶磁器の色絵の具は実際に焼いて見るまで、どのような色に上がってくるか、わからないのである。

 

 

色絵の具そういう性質を持つ陶磁器の色絵の具で、これほどの色のパターンを自ら作り出され、それを駆使して色絵を施されている入江さんの仕事に、脱帽させられる思いだ。色絵の具は、窯の温度の上げ下げや、窯の中のどの位置において焼いたかによっても、色の出方は違ってくることがある。また前回と同じ色に上がってくるかは、いつも心配だと入江さんは話されるが、長年、色絵の焼き物を焼いてこられて、今現在でも、なかなか満足のいく仕事にならないとも話される入江さんの言葉に、より完璧なものを追求したいという職人魂のようなものを感じる。

 

 

色絵を施されている入江さん器に描かれるデザインも、もちろん入江さんのオリジナルのものだが、その幾何学模様の正確さや、細かさにも驚かされる。手描きで、ここまで描けるのかと思えるほどの、正確で美しい模様が器に施され、見ているだけでも、その世界観にすっと、入り込んでいく感じがする。正確で細かな模様であり、これを手描きするのは、いかにも大変であろうと思うのだが、入江さんは「こういう模様の方が、私は楽なんです。」と話される。おそらく、入江さんご自身がお好きな模様なのだろう。そして、その模様の絵付けをされているとき、楽しく作業をされている姿が想像される。その楽しく絵付けをされた雰囲気までもが、器から伝わってくる。これこそが、入江さんの色絵の器の魅力なのかもしれない。

 

 

四角い電気窯色絵を焼く窯にも、入江さんはこだわっておられる。普通、色絵は「錦窯(きんがま)」と呼ばれる丸形の電気窯で焼くのだが、入江さんの窯は本焼きなどでも使われる四角い電気窯を使っておられる。この四角の電気窯の方が調子が良く、色が綺麗に上がるのだとか。格調高い作品に仕上げられることに余念がない。
入江さんは、仕事上のパートナーである岩國起久雄さんと共に昭和47年に裕起陶芸(ゆうきとうげい)を設立された。もともとカタカナでヒロ、子供の“子”の字でヒロ子が本名なのだが、裕起陶芸設立の際“裕”の字を充てられて裕子とし、岩国さんの起久雄の“起”と合わせ、裕起陶芸とされたそうだ。工房は「清水焼見学ツアー」のコースに入っていて、様々な国からの観光客が見学に来られるとのこと。伝統工芸士でもある入江さんの作品と仕事ぶりを、これからも内外を問わず沢山の人に見て欲しい。入江さんの作品は、「高台寺まほうや」や京都東山茶碗坂の「arts安木」、京都陶磁器会館などで見ることができる。

 

作品 作品

入江裕起

1932年 京都市東山区に生まれる
1950年 京都府立陶工公共職業補導所研究科終了
井野祝峰・小川文斎・高木岩華にて修業
1967年 女流陶芸にて毎日新聞社賞を受賞 京展工芸に入選
1970年 京都府立陶工専修職業訓練校指導員免許取得
1972年 岩國起久雄氏と共に裕起陶芸を創立
1991年 京都上絵陶芸展にて京都府知事賞を受賞
1992年 京都府工芸産業技術コンクールにて受賞
京焼・清水焼展にてNHK賞受賞
京都上絵陶芸展にて知事賞受賞
1993年 現代の京焼・清水焼パリ展に出品
1996年 京都上絵陶芸展にて京都府知事賞受賞
2000年 京都色絵陶芸展にて京都商工会議所会頭賞を受賞
2001年 京焼・清水焼展にて経済産業大臣賞を受賞
2004年 京焼・清水焼伝統工芸士に認定される
2005年 日本伝統工芸士会会長賞第二席、京都市伝統産業技術功労者表彰
2007年 日本伝統工芸士会会長賞特賞、京都色絵陶芸展知事賞受賞

裕起陶芸 入江ヒロ子

〒605-0878 京都府京都市東山区上梅屋町177
TEL/FAX:075-551-0734

出口鯉太郎

2012.07.09 更新

出口鯉太郎さん備前焼の大家で陶芸の修業をされた出口鯉太郎さんが作られる作品は土味を生かした素朴な風合いのものが多い。備前での修業時代は、土作りから教わったそうで、今でも作品はまず、土作りから始めることを大切にされている。山から掘り出された原土を陶芸に使える土にするまで時間を掛けて行われる。
「初心忘れるべからず」の言葉を大切にし、下手に仕事に慣れたプロにはならないことを基本理念とされる。土が持つ自然の風合いを、焼き物に生かすために陶芸家が行わなければならないこと。備前修業時代に教わったことが、そのために活かされる。そして、その土で作ったものを焼き上げる窯焚きも、備前時代に多くを教わったそうだ。窯の中で作品にあたる炎がどのように作用するのか。備前で教わったすべてのことが出口さんの焼き物の基礎になっている。

 

 

窯出口さんが現在、作陶を続けられるのは亀岡市内。工房は市街地の中矢田というところにあるが、宮前町神崎三泥という周囲を山に囲まれた所に穴窯を持っておられて、その窯で作品を焼かれている。松割り木で熾される炎で焼かれる出口さんの作品は、その炎が当たることで作り出される色合いや光沢が自然で素朴な味わいの作品だ。正に炎芸術である。 出口さんに、作品を作る上でのコンセプトは何かと尋ねると「あるがまま」という答えが返ってきた。我が意図するところ以上に炎が作り出す焼き物であり、無意味な奇をてらわないあるがままの作品なのである。

 

 

出口鯉太郎さん地面に直接煉瓦を積み上げて作られる穴窯は、雨が降れば地中に染み込んだ水分で湿気を持つ。年に数回の窯焚きの間には雨が降る日も当然あるので、窯を焚くためには最初、窯に含まれる湿気を抜くことから始めなければならない。その湿気を抜くための”焙り(あぶり)”は雑木を燃やして行う。
湿気が抜けた後、いよいよ松割り木で炎を熾し、窯の温度を少しずつ上げていく本番の焙りが始まる。焙りによりある程度の温度まで上がれば次に本焼きに入り、小割にされた松のさし木を窯の中へ投げ込む作業へと移っていく。
出口さんによると、本焼きの時の最高温度は1300度近くまで上げるそうだ。しかも、松割り木だけでこの温度まで上げるので、4日もかけて窯焚きをするのだという。さすがに、この全作業を一人で行うのは無理なので、何人もの応援を得て行われるのだそうだ。

 

 

出口鯉太郎さん出口さんに生い立ちのことを訊いてみた。出口さんの祖母は石黒宗麿に陶芸を教わった女流陶芸家の先駆けであったそうで、出口さんの窯名である東白窯は石黒宗麿が名付け親だそうだ。
母親は出口さんが修業をされた備前焼の大家である金重家から出口家に嫁いでこられた方で、代々、焼き物の一流の家柄である。しかしながら、そんな焼き物の一流の家柄であることは鼻にも掛けない。素朴であるがままの出口さんなのだ。
昔、京都に「あなたが作られている焼き物は、やはり京焼・清水焼ですか?」と尋ねられて「いいえ、私の焼き物は“おのれ焼”です」と答えた陶芸家がいた。出口さんが作られる作品も、出口さんの人柄がそのまま反映された“おのれ焼”だと強く感じる。

 

 

ウリズン出口さんの窯場の敷地内には、「ウリズン」という名称の施設が隣接している。この「ウリズン」とは、あるNPO団体が建てたもので、宿泊や会合に誰でもが利用できる施設になっている。長閑な山中にあるこの施設は周りの森の景色にすんなりとけ込むような木造の建屋で、休暇をこの施設で過ごしたいと思えるようなところ。
自然豊かな環境で作陶し、自然の炎で作品を焼き上げる。実に羨ましいような出口さんの陶芸ライフだ。

 

 

 

作品 作品 作品

出口鯉太郎

1960年 京都府亀岡市に生まれる
1983年 金重愫(まこと)氏(備前)のもとで陶芸の道に入る
1986年 京都市工業試験場陶磁器研修専修科終了
1995年 日本橋三越本店にて初個展
1996年 広島天満屋にて金重一門展
1997年 日本橋三越本店にて個展
1999年 岡山と広島で金重一門展
日本橋三越本店にて個展
2001年 日本橋三越本店にて個展
2002年 岡山高島屋にて個展
2003年 日本橋三越本店にて個展
2005年 京都高島屋にて個展
2006年 日本橋三越本店にて個展
岡山高島屋にて個展
2007年 大阪高島屋にて個展
名古屋松坂屋本店にて個展
2008年 岡山高島屋にて個展
2009年 日本橋三越本店にて個展
大阪高島屋にて個展
2010年 名古屋松坂屋本店にて個展
2011年 神戸にて二人展
岡山高島屋にて個展
2012年 日本橋三越本店にて個展

東白窯
出口鯉太郎

〒621-0855 京都府亀岡市中矢田町岸ノ上34
TEL/FAX: 0771-22-6339
e-mail: koitaro@mekiki.ne.jp

田中宣夫

2012.06.25 更新

住宅街の中にあるバス停から、たった15分ほども歩いただけで、周りは長閑な山村のような風景にガラリと変わった。田中宣夫さんの工房は都会の喧噪から離れるように、その地に建っている。
田中さんは元々、茶道具の清水焼窯元に生まれた。京都府立陶工職業訓練校(現、京都府立陶工高等技術専門校)で轆轤(ろくろ)の技術を習得された後、10年間、窯主であるお兄さんの下で茶道具の轆轤職人として携われる。次男であった田中さんは、その後独立。一人で作陶に励む日々を過ごされていたとき、現在の奥様と運命的な出会いを迎える。
「なんか、吸収合併されたようなもんやね。」と田中さんが、にこやかに話されるのには訳がある。
元々、田中さんは田中姓ではなかった。結婚される際、奥様の籍に入る形を取られて田中姓になられたのだが、そのことに迷いはなかったそうだ。現在は、ご夫婦で仲良く作陶を続ける日々を過ごされている。ご主人の田中さんが主に轆轤で器を作り、それに奥様が絵付けをする共同作業で作品が作られていく。
現在も、作られる作品は茶道具が主で、茶道具問屋に作品を納める仕事をされているが、田中さんは徐々に食器に移行させていきたい旨を語られる。常に日々、新作見本を考えておられるとのことで、ヒントになる図案を求めて図書館に頻繁に通うことも多いそうだ。
茶道具は季節感を盛り込んだデザインを要求されることが多い。春は桜、夏は紫陽花、秋は紅葉、冬は椿や牡丹といった、その季節を表す草花の図案を施すことが多いが、去年の桜と今年の桜では、テーマが同じ桜でも少しずつ違った図案を考案して絵を描かなければならない。毎年、違った桜の図案、紅葉の図案を幾パターンも考え続けていかなければならない厳しい面もある。
食器の新作には、デザインに洋風なテイストを加えた、実験的な試みもされており、これらの作品は、メルヘンチックと自ら称されているが、持ち手の部分がト音記号の形になった陶製のスプーンや可愛い猫が並んで夜空を眺めている絵のフリーカップなど、女性に好まれそうな楽しいデザインの作品と成っている。茶道具とはまた違った世界観を食器には表現されているようだ。
田中さんは、これら次々と産み出される作品を発表する場を意欲的に求められている。昨年は、京都市内の町屋で展覧会を開催されたり、全国各地で開催される陶器のイベントにも積極的に出展されている。実際に作品を使って頂く方との直接の関わりを大切に考えておられるのだ。ご自身の作品を購入して下さる方と直に接してのやりとりを、心から楽しいと感じておられる。
作品には、それを作った人の人柄というものが必ずと言って良いほど反映されるものである。作品が醸し出す雰囲気に、その作者の人柄も感じて、人は作品を愛でるのかもしれない。「作品が一人歩きをする」という境地が、最終到達点とする陶芸家もいるが、作品だけではない。作品とそれを作った人物両方に、人は価値を見出すのである。
田中さんは、近々、陶芸教室も開かれる予定をされている。人々との交流をますます広げられることにも意欲的だ。

田中宣夫

1960年 京都に生まれる
1986年 陶器に魅せられ山科で修業
1988年 京都府立陶工高等技術専門校に入校
1989年 同校卒業後、茶陶を中心に修業
1997年 京都東山に開窯
1998年 京焼・清水焼展入賞 以後数回入賞
1999年 東京新宿小田急百貨店にて個展
以後、茶陶を中心に製作活動をし現在に至る

深山窯 田中深山

〒612-0812 京都市伏見区深草坊山町19-2
TEL:075-643-7603

北川宏幸

2012.06.13 更新

京都府綴喜郡井手町で作陶される北川宏幸さんは、とても穏やかなお人柄で、優しさがにじみ出るような方だ。北川さんは、この地で雅号を「陶房 弥三郎」と銘打ち、作陶を続けられている。さて、弥三郎の名前の由来はなにか?ふと、疑問に思ったので北川さんに訊いてみたところ、北川さんの生家は代々この井手町に続く家柄で、その家の屋号なのだそうだ。元々は農家であったが、北川さんのお爺さんは、竹細工の名工でもあったらしい。やはり、その物作りの血を受け継がれたのだろう。北川さんが、陶芸の道を志すことを決められたのは高校生の時。当時、流行であった民芸ブームの中、加藤唐九郎や荒川豊蔵といった花形の陶芸作家の作品を見てあこがれ、心に決められたそうだ。そして、京都造形芸術学院陶芸科に進み、在学中に天目釉の名匠である陶芸作家、木村盛康氏に弟子入りされた。     そんな、北川さんの作品は天目釉と飛び鉋、櫛目を組み合わせた作品で、土が持つ可塑性と釉薬の窯変性を生かしたものになっている。特に釉薬は油滴天目釉の表面に析出する金属の微細な結晶により、微かな金属光沢を放つ。北川さんは、これを耀変鉄釉と呼んでいる。飛び鉋と櫛目で模様付けされる部分は焼〆象嵌と呼び、その二つを対比させることで、金属的でシャープな感覚の作品に仕上げておられるそうだ。この耀変鉄釉と焼〆象嵌を組み合わせた作品は「焼〆鉄黒様」と名付けておられる。 北川さんの作品は、この「焼〆鉄黒様」以外にも素朴な土ものの柔らかさが表現された作品も作られている。取材の折、作業風景を撮らせて欲しいとお願いしたところ、快く黄瀬戸の抹茶碗をろくろ挽きして下さったのだが、この時に驚いた。突然、茶碗を挽く北川さんの手がブルブルと大きく震えだしたのだ。  
「五十歳を過ぎてから手が震えるようになってねぇ・・・、ガハハ」と北川さんは笑っておられたが、いや、そうではない。茶碗の側面に変化を付けて味を出すため、意図的に手を震わせて起伏を付けておられたのだ。筆者もろくろを回して器を作るし、今までに何人もの同業のろくろ師の作業を見てきたが、北川さんのような技は見たことがない。普通なら熟練の職人でも、ろくろで回転する土に対して触れている手を、あのように震わせたら当然の如く、器はグチャグチャになって潰れてしまう。それを、いとも簡単にこなしてしまう北川さんの技は、容易には真似のできない面白い技だ。  
北川さんは個展だけでなく、日本各地で行われている焼き物市にも積極的に出展される。直に、器を買いに来られる人と触れ合って作品を提供することに意気を感じておられるのだ。第一回目として今年から開催される「やきものフェアinみやぎ」にも出展されるそうだ。今まで出展したことがない焼き物市にも、あえて赴かれるのは、東日本大震災の被災地である宮城で初めて開催される焼き物市だからこそ、応援する意味でも参加したいのだとのこと。やはり、ここでも、心優しき陶芸家の北川さんなのである。

北川宏幸

1955年 京都府に生まれる
1977年 京都造形芸術学院陶芸科卒業 在学中に木村盛康氏に弟子入り 以後四年間 京都クラフト展入選 以後三回
1978年 京都府陶工訓練校成形科卒業
1987年 京都府綴喜郡にて弥三郎窯を開窯
1988年 朝日現代クラフト展入選 新匠工芸会展入選
1991年 朝日現代クラフト展入選
1992年 サントリー美術館大賞’92 -挑むかたち- 入選 札幌芸術の森クラフト展入選 朝日陶芸展入選
1994年 京展入選
1995年 新美工芸会展奨励賞
1996年 日清めん鉢大賞展入選
1997年 新美工芸会展シンポ工業賞
2017年 2月 62歳没
その他 東武百貨店池袋店アートサロンにて平成七年より毎年個展を開催 京都・大阪・東京にて個展

 

 

福田翔

2012.05.07 更新

福田翔京都府と奈良県の県境に接する自然豊かな木津川市鹿背山で作陶される福田翔さんの工房は、あらゆる題材をモチーフにした絵が描かれた焼き物であふれている。福田さんは、ご自身のことを“絵付け職人”と自ら称されるが、与えられた既存の模様を施すだけの絵付け職人の域に留まらない、オリジナリティーに富んだ絵付けをされた焼き物がずらりと並ぶ。
福田さんは島根県のご出身。学生の頃、将来どのような職業に就くかを考えたとき「一人でできる仕事をしたい」との強い思いを持ち、陶磁器を作る仕事を選ばれたそうだ。
ふるさとの島根県を離れ、京焼の作家、手塚充氏の下、修業を積まれることになった。その後、同じ京焼の窯元、瑞昭窯で絵付け職人として従事されていた時期、福田さんに大きな影響を与える人物と出会うこととなる。

福田さんに、多大なる影響を与えたその人物とは、村田幸之介という絵付け師で、独自の水墨画法を持ち、たたみ一畳ほどもある大きな陶板に、瞬く間に風景画を描いてしまうほどの名人であったらしい。福田さんは、この村田幸之介氏から水墨画法を吸収し、それを自らのものとして焼き物に施す技法を身につける。独立する際には、単色の濃淡だけで表現する南画風の絵付けに加え、色絵も取り入れたオリジナルの画風を完成させた。福田さんは、この画法をご自身で「墨彩画」と称されている。
“一人でやる仕事”というのが福田さんのポリシー。絵付けだけでなく、ロクロ挽きやタタラ技法などによる成形も行い、全くの土から陶器としての完成まで福田さんの手による、正にすべてがオリジナルだ。

福田翔福田さんの絵の題材となるものは、ありとあらゆるもの。工房のすぐ脇に咲く花や野草、近くの木に停まる小鳥、町に出たときにスケッチした大阪中之島の風景、勇壮な龍、それこそ福田さんの絵の題材は事欠かない。そして、焼き物の素地は福田さんにとってカンバスなのである。
様々な絵付けの焼き物に囲まれた福田さんの工房にいると、いつしか、心なごやかに癒されるような気持ちにさえなる。日常の食卓を福田さんの焼き物で満たせば、食事がより楽しいものになるに違いない。良いものを見ることは目の肥やし。良い陶器を見極める目を持てるようにも心がけたいものだ。

福田翔

1951年 島根県平田市(現、出雲市)生まれ
1971年 京焼作家手塚充氏に師事し、茶道具、花器等広く陶を学ぶ
1975年 六斉陶房にて陶画を学ぶ傍ら、水墨画家村田幸之介氏(日本南画院理事)より墨絵を取得する
1984年 木津川市鹿背山にて「楽土窯」を開窯する
京都日本画家協会会員、元日本南画院院友
日本南画院展奨励賞、特選、会長賞受賞
1987年 滋賀県立信楽窯業試験場非常勤講師となる
1990年 信楽各窯業所三年間巡回デザイン指導
1997年 四日市窯業試験場デザイン指導
1998年 瀬戸市窯業試験場デザイン指導
京都、奈良、大阪にて個展

楽土窯
福田翔

京都府木津川市鹿背山西大平45
TEL:0774-72-3619
e-mail:rakudogama@dance.ocn.ne.jp
楽土窯のホームページ

藤田瑞古

2012.04.05 更新

伝統工芸士である藤田瑞古さんは、広島県の生まれ。陶器とは何ら関係のない家庭に生まれ、高校卒業時も進路は金融機関に就職が決まっていた。しかし、祖母から「これからの時代は手に職を付けた方がいい。」と言われ、親戚である京都では有数の規模を誇る大きな製陶所で一転、職人を目指すこととなった。

「26年間、私はサラリーマン職人やっとったんやわ。」と藤田さんは笑顔で話す。よく言われるのは、職人は10年やって一人前ということがあるが、藤田さんは26年間、ロクロ職人一筋で技術を磨き続けた。それは「一尺を超えるような大きな皿からお猪口のような小さなものまで、なんにでも対応できる技術を身につけてから独立しようと考えたから。」と藤田さんは説明する。

そんな藤田さんが仕事をされる工房は、コンパクトに作られた工房だが、非常に効率的に考えられた造りになっている。職人の間でつぶやかれる言葉に「仕事するより段取りせい。」という言葉がある。これは、手作業にかかる前に頭の中で、仕事の順序を事前によく考えてから作業にかかりなさいという意味で、職人の仕事とは、効率良く作業を進めてこそ価値があるという戒めである。藤田さんもコンパクトで効率的な自身の工房で「段取り8分、仕事2分」ということを常に念頭に置いて仕事をされているそうだ。

藤田さんが作られる焼き物は磁器を専門とされる。発注者の希望に添うように形やデザインに気を遣い作られている。「私の技術は問屋さんや小売店さんに鍛えられた技術」と藤田さんが語られるように、藤田さんの作品はとても繊細で美しい。限界まで薄く作られた磁体に華麗な染付や上絵付けが施されている割烹食器がメイン。

「京都は公家文化の土地、力仕事をしないお公家さん、しかも女性は重い器を好まなかった。だから、手の中に、はんなりと収まる軽くて薄い器を求めたのではないか。」というのが藤田さんの持論。職人時代、藤田さんは、共にロクロを回す同僚の職人たちと、競うように「俺の方が、もっと薄い品もん作ってやる」という心意気で技を磨いたそうだ。光にかざすと透けて見えるほどの薄い藤田さんの器は、鉋で、ぎりぎりまで薄く削られる。ただただ闇雲に削るのでは、器は崩れてしまうだけだ。ロクロ引きをした器の内側の形を頭の中で想像しながら外側のカーブを削り出していく。これこそ、藤田さんが26年間の職人経験の中で培った技なのである。

「今までの染め付けや上絵付けだけでなく、漆塗りなどの伝統技法も加え、これからの焼き物を作るということを考えてもいいのではないか。」と、藤田さんは先の展望を語られる。藤田さんの意欲的な仕事は、これからも続くのである。

藤田瑞古

1944年 広島県に生まれる
1962年 京泉窯入社
1984年 東京・椿山荘にて二人展
1988年 京泉窯退社後、瑞古として独立
1989年 京都陶磁器卸見本市<奨励賞>
1993年 現代の京焼・清水焼展パリ展出展
1994年 京都ホテル画廊にて四人展
1997年 京焼・清水焼展<入賞>
1999年 京都陶磁器卸見本市<入賞>
2000年 伝統工芸士の認定を受ける
2001年 京焼・清水焼展<審査委員長賞>
2002年 京都陶磁器卸見本市<知事賞>
2005年 高台寺塔頭、春光院伝統の技展出展
2007年 京都陶磁器卸見本市<市長賞>
2009年 伝統工芸品 功労者褒賞受賞

京焼・清水焼窯元
藤田陶苑
藤田瑞古

京都市山科区大宅古海道町28-17
TEL:075-593-5264

 

高野洋臣

2012.02.22 更新

「若い世代の人に陶器はお洒落と感じてほしい。」と話すのは、昭阿弥窯の高野洋臣さん。精巧で綿密な絵を施す茶器から、割烹、一般食器までを製作する昭阿弥窯の次代を担う若き職人である。 高野さんをあえて職人と呼ぶには訳がある。磁器を専門に製作する窯元では、ロクロの技術が如何に精確であるかを求められるからだ。ご本人も磁器が得意、ロクロ挽きを追求し、こだわりを持って製作していきたいと、自らの方針を話す。

「手仕事は基礎が大切、昔に比べて職人仕事が少しずつ廃れてきているのではないかとの危機感を持っています。」とは高野さんの弁。 確かに、しっかりとした基礎の上に芸術的、工芸的な仕事は成り立っている。かのピカソも若い頃に描いた精巧なデッサンを数多く残している。後の絵からは連想もできないような絵画の基礎を基に対象物を忠実に描いたものだ。精巧な茶器や食器を製作する昭阿弥窯の仕事以外にも、高野さんオリジナルの作品も意欲的に製作している。グループ展も定期的に開催し、高野さん自身のオリジナリティーを盛り込んだ作品を発表しているそうだ。

40代までの若い世代の人にお洒落感覚で陶磁器を生活に取り入れてもらえるような器を提供していきたい。これからも磁器を作り続けていくためにも、常にこのことを心がけて製作に臨まなければ先が見えてこないと高野さんは語る。 新たな作風に鋭意挑戦する高野さんの焼き物に対する前向きな姿勢を強く感じる。

高野洋臣

1974年 京都に生まれる
1998年 京都芸術短期大学専攻科 ランドスケープデザインコース卒業
2001年 京都府立陶工高等技術専門校成形科修了
2001年 昭阿弥窯に勤務
2003年より 毎年グループ展「瓢駒会」
2005年 テーブルウエア展出品 東京ドーム

高野昭阿弥(代表者:高野進二郞)

〒605-0953 京都市東山区今熊野南日吉町148番地の60

TEL:075-561-5566