マエストロ貴古

2013.11.25 更新

 マエストロとは、ただ物を作るだけの職人という意味ではなく、自分でデザインをし、プレゼンもして、販売までをもする作り手の総称のような意味があって、自分たちもそのようでありたいという気持ちを込めて「マエストロ貴古」と銘打ちました。と、ご主人の今橋剛和さんと奥様の裕子さんは語られる。
ご主人の剛和さんは、代々続く「貴古窯」の四代目で、奥様の裕子さんとは京都市立芸術大学在学中に知り合われて、結婚された。ご主人が作られる作品は「貴古窯」として世に出されていて、奥様との共同製作の作品を「マエストロ貴古」という銘で世に出されている。
ご主人の剛和さんは、京都市立芸術大学の陶芸専攻科で学ばれ、卒業後家業に就かれた。もちろん、大学では陶芸に関することは全般的に学ばれたが、家業に入られてからは、先代のお父さんから、陶芸に関して手取り足取り指導を受けられたのではないそうだ。

 

 

 「自分が作る焼き物は自分のものであって、あなたはあなたで、一から自分の物を作り上げなさいと言われて、父からは突き放さたような感じでした。私の父は、焼き物に関しては、それはもう、ありとあらゆる事をやり尽くしていたような人でしたから、それ以外のものしかやってはダメと言われたら何をしたらよいのか。当時は、自分自身が何をやるべきなのか自体、見失うような状態でしたね。」
よく、ライオンは我が子を千尋の谷に突き落として、這い上がってきた子だけを育てるということが言われるが、裕子さんは、お父さんから常にそのように言われるご主人のことをそばで見ていて、「そこまで深い谷に落とさなくても良いのに。」と感じておられたと言われる。
お父さんから「私がやってきた事以外の陶磁器で、自分の焼き物の世界を築き上げなさい。」と言われた剛和さんは、大学を卒業されて1年の後、お父さんが作ってこられた食器を避け、茶陶の製作から始められる道を選ばれた。

 

 

 「やはり、一からということで始めましたから、大変苦労しました。染付の茶器の製作を依頼されても、呉須色だけをとってみても何百種類という色合いがあるんです。例えば、古伊万里の呉須色が良いからその色で作って欲しいと言われても、その色がわかりませんから、当時知り合いの先生が京都国立博物館におられましたので、頼んで所蔵品を見せてもらいました。でも、その本物の色を見たところで、現在売られている染付の呉須の色との判別が付かないんです。」
確かに、呉須色は単に、十把一絡げに藍色であると言ってしまえば、言えないこともないが、黒味がかった藍色もあれば、青味が強い原色に近いような藍色のものもある。また、太陽光の下で見たときと蛍光灯の下で見たときでは違う色に感じたりすることもある。それに加え、同じ呉須でも窯の焼き方によって、出てくる色が変化する。本来なら、一番身近な師匠であったであろう父親から、なんの手ほどきも受けなかった剛和さんにとっては、正に手探りで、目的の呉須色を探り当てなければならなかったことは、想像に難くない。

 

 

 「来る日も来る日も、色の研究を繰り返していました。よく当時は人から、こんな山の中で色の研究ばかりしていてなにが楽しいのかとまで言われましたけど、その当時はもう商売抜きで、そればかりやっていましたね。」と、奥様の裕子さんも言われる。
茶陶の製作に使用する絵の具や釉薬の研究に邁進し、経済的にはお父さんが経営されていた窯元に頼っていたのが現実だったそうだが、やがて、お父さんの年齢的なこともあり、家業の食器製造を剛和さんは手伝われることになった。
「必要に迫られて、家業の窯元の食器を作るようになりましたが、やはり、そうなっても父親から、この食器に使っているこの色の釉薬はこれだというような、一子相伝のようなものは一切なかったですね。最後まで、自分の釉薬は自分の物という姿勢を父は貫きました。四代貴古を継ぐのであれば、四代の釉薬色でなければならないというのが、父親の哲学でした。でも、そういう父親の厳しい姿勢で、いわば、這い上がるのが難しいような谷に落とされたことで、今になっては色々なことが身になっていますので、良かったとは思っています。」

 

 

 

 貴古窯の食器の製作を苦労しながらも続けられた剛和さんだったが、世の中は20年以上続く不景気の時代となる。
ご主人の剛和さんは、京都市立芸術大学の陶芸専攻科で学ばれたが、奥様の裕子さんは、同大学の油絵科で学ばれたそうだ。
「私が、京都市立芸術大学の油絵科を選んだのは理由があって、京都芸大の油絵科は他の専攻科とは違って、色々な素材を扱ってものを作るということをやっていたからなんです。油絵科では陶器も作品を作る上での一素材として見ていました。ですので、陶芸をやっている主人に嫁ぐことで、この世界に入ることに対しても、不自然さは感じませんでした。」

裕子さんは、絵の教室で先生もしておられて、子供達に絵を教えておられる。その教室で子供達に教えておられている上で、一つの思いがあるのだそうだ。
「芸術を専攻した以上、作品を作ることに情熱を注ぐ素晴らしさを生徒にも感じて欲しいのです。お金にならないからやめてしまうというのではなく、子供達に対して恥ずかしくない生き方をしたい。私も作家として頑張っているし、自分たちの目標にしたいと思ってもらえるような生き方をしたいのです。」

 

 

 

 そんな、裕子さんの思いからやがて、一つの作品が生まれ、マエストロ貴古が誕生する。
貴古窯の工房にはいくらでもある土を捻って、ある時裕子さんは素朴な形の兎を作った。その兎を見たご主人は、面白いと裕子さんに告げるのである。

ふと、工房にあったカップを逆さまにして、その上に裕子さんが作った兎を乗せてみたところ、スカートをはいた兎に見えたという。そうして作られたのがマエストロ貴古の作品になっていった。綺麗なドレスをまとった兎だけではない。仲良く3匹の兎がカップの中を覗いているような可愛らしい器も生まれた。物思いにふけっているような馬が、ちょこんと上に座っている香炉も生まれた。器の渕に腰をかけ祈りを捧げているような兎もいる。

ドレスをまとった兎に使ったラスタ彩の絵の具は、後に綺麗なペンダントの作品に使うことで新たな挑戦にもなった。

 

 

 「ドレスをまとった兎は、オペラの蝶々夫人をイメージして作ったもので、これがマエストロ貴古としての第1作目でした。マエストロ貴古の作品は、私と主人とのキャッチボールのような作業で作られていく作品で、最初は人形としての作品だけだったのですが、食器作りを長年やってきた主人の思いから、香炉やカップなどの器も作るようになったんです。」
剛和さんと裕子さんの共同製作作品であるマエストロ貴古の作品は、3年ほど前から作られるようになった、まだ新しいものだそうだが、京焼・清水焼展に初の出品で入賞をしたほど評価は高い。
「私たち夫婦は、二人とも芸大を出ているのに作品を作る上で未だ、何も自分たちの可能性に挑戦していないことに、ある時に気づいたんです。ダメでも、とりあえずやってみよう。自分たちの作品はこれだというようなものが作れれば良いという気持ちで、頑張っています。

 

 

 お二人は、フェイスブックやブログなどを活用し、インターネット上での作品発表や貴古窯の作品を愛好してくださる方との友好にも熱心だ。マエストロ貴古の作品にも、先代や先々代の貴古窯伝統の作風を意識的に盛り込んでおられるそうで、フェイスブックやブログを見ている方にも貴古窯の作品の良さを伝えたいと考えておられる。
「私たちの子供が将来、私たちが残した作品を見て、あの時お父さんとお母さんは頑張っていたなと思ってもらえるような作品が作れれば良いなと思っています。」
この思いは、作品に込められるであろうし、人々にも伝わると思う。作品には必ず、それを作った人の為人が現れる。なにより、人は、そういう個性を持った作品を求めているのだと思う。心を込めて作られた作品、そして、その上で伝統的な技が駆使された良いものは、必ず、一人歩きをするものだ。それを求めている人の手元に辿り着くまで。マエストロ貴古の作品も、きっと一人歩きをするだろう。

 

 

 

 

マエストロ貴古・四代貴古

京都個展2012・2013
京展入選
美術工芸ビエンナーレ入選
現代茶道展入選

 

 

今橋剛和

三代貴古の長男として生まれる
京都市芸術大学陶磁器科卒業
宇治炭山にて独立開窯
小川流茶道具にたずさわる
関西地区中心に個展開催多数
工芸展、茶陶展等入選多数
数々の有名茶会・発表会にて道具提供
四代・貴古の継承者

 

 

今橋裕子

京都市芸術大学油絵科卒業
同大学院修了
関西地区中心に個展開催多数
グループ展開催多数
美術コンクールなど入選・受賞多数
アトリエ遊美術研究所主宰
「音楽絵本」によるステージ発表
陶芸家・今橋剛和とのコラボレーション

貴古窯陶房

〒601-1395

京都府宇治市炭山久田2-12

TEL/FAX 0772-32-5903

貴古窯ちゃわん坂店

〒605-0862

京都市東山区清水一丁目287-30

貴古窯のホームページ

http://www.maestro-kiko.com/

川尻潤

2013.11.02 更新

 江戸時代中期から代々、陶業に携わる家柄にお生まれになった川尻潤さんは、現在、陶芸作家として活躍されている。
家に残る古文書に記された家系図によると、陶業に就いた初代は加賀藩の九谷焼御用窯で工場の長をされていた記録が残されているそうだ。
川尻さんは、東京芸術大学の美術学部、デザイン科を卒業され、その後、同大学の大学院で修士課程と博士課程の両方をデザイン専攻で修了されている。修了後は同大学のデザイン科で助手を勤められ、後に非常勤講師もされていた。
東京芸術大学には陶芸専攻もあるそうだが、川尻さんは、陶芸専攻ではなくデザイン科で学ばれた。
「最初は、家業を継ぐためにデッサンを習いなさいと言われたのですが、デッサンをやっている内にデザインが面白くなってきて、父親にデザインをやりたいと申し出たところ、陶芸は家でも覚えられるから、大学ではデザインを習った方が良いと言われてデザイン科に入りました。決して、陶芸をやりたくないから、デザイン科に入ったというわけではないんです。」

 

 

 

 

大学及び大学院では、陶芸については一切学ばず、陶芸はお父さんから伝授されたのだそうだ。
川尻さんの家は、禎山窯という窯元でもあるのだが、お父さんは日展で作家としても活躍された。日展作家であったお父さんの作品は、美しいフォルムを持った白磁の作品であったが、子供の頃からそれらの作品を見ていた川尻さんは、「白ばかりでつまらない。」とも感じておられたそうだ。
「男の子にはやはり、一時期でしょうが父親に対して反発心を持つ時期がありますからね。でも、そういう白磁に対する反発から今の、私の作風があるということかもしれません。」
川尻さんの作品は、大胆な色使いをしたものが多く、躍動感を感じるような作風で、静的なイメージを感じさせる白磁とは、全く正反対の雰囲気を持っている。今の、色使いを駆使される作風に関して、お父さん以外に影響を受けられた人がいるのか、川尻さんに訊いてみた。

 

 

 

 「大学時代に琳派の勉強をしていたとき、その大胆な作風に、自分なりにとても驚いたんです。それまでは西洋の美術を勉強していて、日本よりも西洋の美術の方が優れていると思っていました。しかし、琳派を学んでみると日本にもこんなにすばらしい美術があったことにびっくりしました。しかも、琳派のものは、決して古くささを感じることがなく、今日的に思います。野々村仁清や尾形光琳・乾山、俵屋宗達などの西洋美術にも引けを取らない芸術性の高い作品、茶の美と見事に融合した琳派の作風にあこがれました。」
美術史研究者の中には、琳派の作品は芸術的なレベルの高さでは世界的に見ても当時の最高峰であったのではないかと評する人もいる。
鮮やかに発色した絵の具や金までをも使った川尻さんの作品は、食器もあれば花生けもあり、オブジェの作品もある。
磁器土を使った作品も、表面はゴツゴツとした土感を残した成形がされており、土味が活かされたものになっている。色合いといい、土味が活かされたフォルムといい、その大胆さを感じさせる作風は、やはり琳派の影響があるのだという。

 

 

 

  「乱暴な作風にも見られるかもしれませんが、表現しているのはやはり、日本美なんです。この大胆な色使いは、元々私の家が九谷焼を祖としていますから、九谷焼の色絵を継承していると言えるとも思います。」
川尻さんの工房がある東山区今熊野日吉町・南日吉町一帯は清水焼の窯元が集まる陶業地で、地元の一角に建てられた「陶器塚」も川尻さんのデザインによるものだ。その陶器塚にも九谷赤や呉須などの絵の具が駆使された、鮮やかな絵付が施されている。
現在は窯元としてではなく、陶芸作家として活躍されている川尻さんだが、窯元として代々受け継がれてきたものが川尻さんの作品には活かされているのである。
川尻さんは作陶活動だけでなく、京都府南丹市園部町にある京都伝統工芸大学校など、大学で伝統工芸論を教えておられる。また、工房を持たない美術系大学出身者などに自らの工房を、製作の場として提供されたりもする、心優しい面も持たれている。

 

 

 

 

 川尻さんは、こんな話もしてくださった。
「将来、陶芸家を目指す若者は現在でも多くいます。むしろ、増えているんです。陶芸が職業として選択されるという面では、今でも人気が高いのです。しかし、陶磁器が購買の対象として選択される割合は時と共に下がっています。お茶を、急須を使って入れて湯呑で飲むのではなく、コンビニでペットボトルのものを買ってきてそのまま飲むスタイルに変わっていることに代表されるように、日本人の生活様式が変化していることや、人々が興味を持つベクトルが陶磁器以外のものに移っている傾向、海外から入ってくる安価な陶器に市場が席巻されていることなどから日本の伝統工芸品である陶磁器が売れなくなってきています。」
京都陶磁器会館で陶磁器を購入される方が、今や外国から来られた方が約半分を占めるそうだ。日本の伝統工芸に興味を持ってくださっている外国の方が増えているのに、日本人の興味が日本の伝統工芸から離れていっているというのは、なんとも皮肉な話である。

 

 

 

 「窯元の皆さんは、別にサボっているわけではないと思うのに、日本における陶磁器の市場が、どんどん狭くなっているが故に、伝統的陶磁器が売れなくなっている。特に、京焼・清水焼に関しては、その必要性を大いに感じるのですが、私は日本の伝統的陶磁器を宣伝する専門の大使のような人物、あるいは機関がこれからは必要なのではないかと思っています。ヨーロッパの伝統的陶磁器であるデンマークのロイヤルコペンハーゲンやドイツのマイセンなどは、広報がしっかりしていて、宣伝媒体に対する働きかけが円滑に機能しているので、現在でもよく売れているんだと思います。」
日本だけでなく、海外に向けてもこれからは、より積極的に日本の伝統的陶磁器を発信していくことが必要なのだろう。
陶芸作家としての顔、大学講師としての顔、そして先祖代々受け継がれてきた陶業家としての顔など、色々な面で川尻さんは、とても有意義なお話をしてくださった。陶芸作品のすばらしさだけでなく、川尻さんには人間力の強さも感じるのである。

 

 

川尻潤

1964年 京都生まれ 清水焼禎山窯 窯元
1987年 東京芸術大学美術学部 デザイン科卒業
1989年 同大学 大学院修士課程 修了 デザイン専攻
1992年 同大学 大学院博士課程 修了 デザイン専攻
1992年~1995年 同大学デザイン科 助手
1998年~2001年 同大学デザイン科 非常勤講師
現在  京都東山にて作陶 日展会友
1985年 京都府画廊選抜展 知事賞受賞
1986年 京展 美術懇話会賞受賞(以後3回受賞)
日本新工芸展 新工芸賞受賞
1997年 国債色絵コンペティション ’97入選
1998年 日展初入選 以後毎年入選
2003年 日本現代工芸 工芸賞受賞
2004年 日展 特選受賞
2005年 日展 無鑑査
2011年 日本現代工芸展 京都新聞社賞
個展 京都高島屋 心斎橋大丸 銀座松屋 横浜高島屋
著作 「歪みを愛でる」 2001年 ポーラ出版

日展作家 川尻潤

〒605-0953 京都市東山区今熊野南日吉町146-2

TEL:075-541-0515

FAX:075-541-6688

森俊次

2013.09.15 更新

 京都市東山区の泉涌寺地区で工房を構えられる森さんは、その地で3代続く窯元のお生まれだが、若き日々は日展に作品を出展し、入選を重ねられた陶芸作家として活躍された。

高校を卒業してから陶工訓練校、京都市工業試験場の陶磁器研修コースで学ばれ、この世界に入られたのだが、一旦は家業を継ぐべく短期間、窯元の仕事をされたものの、思うところがあって、日展作家の宮下善寿氏の下に弟子入りをする。

「地味な窯元とは違い、作家の方は優雅というか、高級車に乗って美味しいものを食べてというように、若い頃は、そういう風に見えたんですよ。自分もそうなりたいと考えたんですね。今思うに、決して窯元が悪い、作家の方が良いというような、もちろん上下はないですし、窯元はつまらない、作家の方が楽しかったとも思いません。若気の至りというやつですかね。」 と、森さんは言われるが「家にいる                                  と、どうしても甘やかされますから。」

 

 

とも言われる。若いが故に、単に楽な方の道を選んだということではない。窯元の3代目で後継ぎという甘い環境から、弟子入りという外の厳しい環境へ自らを追いやり、自分自身を律されたということも言えると思う。
28歳の時に、結婚を機に独立。作家としての活動を本格的に始められる。森さんは、日展に出展された当初から入選を重ねられ一気に注目を集められた。
森さんが、日展作家時代に主に制作されていた作品は、手捻り技法によって作られる花器の作品だ。どの作品も形が非常にユニークで暖か味を感じるようなフォルムを持ち、眺めていると心が和む。表面は光沢のある釉薬をかけて仕上げるのではなく、焼き締めに近いようなマットな質感があり、尖った感じがしない。日本的で古風な空間というよりも、現代的でシックな空間に置かれると、マッチするような作風に感じる。

 

 数々の作品で入選を重ねられ、意欲的に作家活動をされていた森さんだったが、32歳の時に父親が病気になったことで、窯元としての仕事もされるようになる。しばらくは、窯元としての仕事をこなす半面、日展作家としての仕事も続けられた。
窯元の仕事をされるようになると、作家的な仕事である一品製作ではなく、同じ物をいくつも作る数物製作の仕事にも興味が湧くようになる。
「バブル景気に入った頃で、上り調子の良いときでしたから、見本を出せば必ずと言って良いほどよく売れました。やっぱり、売れれば商売としての窯元の仕事も面白く思いましたね。それと同時に、伝統的な食器製作の難しさもわかってきて、その奥の深さに面白味を感じました。」
二足のわらじではないにしても、森さんは窯元としての仕事と作家としての仕事の両立を続けられる。

 

  45歳になったとき森さんはふとしたことで、作家としての活動に疑問を持たれるようになったことから、窯元の仕事一本に絞られることになる。窯元の仕事一本に絞られてからも、それまでに作家として作品を作られていた頃の技術や焼き物に対する考え方が役に立っているのか、森さんに尋ねてみた。
「それは、やっぱり役に立っているでしょうね。伝統的な食器を作る場合でも独創性は大事ですし、伝統工芸品であっても従来の古いデザインの物をただ、真似て作るようではだめですからね。食器を作る上でも創作性が必要になってきます。日展はまず、創作を大事にする世界ですから。」
日展作家時代に培った創作性を森さんは、窯元として作る食器にも盛り込んでおられるのだが、窯元を継がれた最初の頃は、そうではなかった。

 

  「私が家業の窯元を継いだ時は、問屋さんの下請けのような仕事をしていたんです。器の形だけを作って焼き上げ、その状態で問屋さんに納める。その器に施す絵付けはその後、問屋さんが上絵をする職人さんに預けて、絵付けをされるのです。日展で創作の仕事をしてきた私にとっては、その下請けのような仕事に甘んじることができなかったんです。」
注文通りの形に仕上げた器を、なんの絵付けを施すこともなく、無地のまま卸業者に納める。その器には、なんら独創性のかけらもなく、森さんの個性は、ただ一つも盛り込まれない。そんな仕事に安住することに森さんは我慢ができなかったのだ。
「自分でデザインした絵を付けていかないと、窯元オリジナルのものは作れない。これではだめだという危機感のようなものがありましたね。」
窯元としてのオリジナルの器を作っていくのだという決意の元、                                            次々に新作食器を森さんは作り出していく。そこには、日展作家                                            時代の創作が活かされ、森さんの独創性が盛り込まれていった。

 

 こうして、食器においても数々のヒット作を森さんは世に出されていったのだが、いかんせん、時代は食器が売れない世の中となる。
「最近は、食器が売れなくなってきましたね。これからの私の課題は、清水焼の技術を食器以外の物にどうやって活かすかということだと思っています。」
そう言って森さんは、見慣れない形をした陶片のようなものを見せた。
「中国に“かっさ”というものがあって美顔に使う物なのですが、それを陶器で作ったものです。元々は、動物の骨を加工して作ったものだそうです。」

 

 なんでも、美顔ローラーのようにそれを顔に押し当てて、なでることにより皮下の血行を促すことで、美顔に効果があるらしい。森さんの食器以外の物を陶器で作った作品は、それだけではなかった。ふと、後ろの棚を見ると、金属の棒の先に陶器がくっついた物が置かれてあった。一見、何かはわからなかったので、森さんに尋ねると
「ゴルフクラブのパターです。自分の趣味を活かしてパターも陶器で作ってみたのですが、パターの場合、重さとか角度とか微妙な調整があって難しいですね。」
陶器でゴルフのパターを作ろうというのは、かなりユニークな発想で、思いつく人はまず、そうは多くないと思う。しかも完成品にまでしてしまうというのは、すごいとしか言い様がない。全くもって、驚嘆してしまった。
森さんの清水焼を応用した新商品は、それら以外にもある。時計や楽器のオカリナなども陳列棚には置かれてあった。
「オカリナも音の調律が難しいのです。土で作りますから、作っているときと乾いてからの音が違ったり、焼いた後でも音が違ったりしてくる。穴の大きさの違いや微妙な位置のずれで音程が変わります。パターにしてもオカリナにしても時計でも、なかなか、商品として流通に乗るところまで持って行くのが難しいですね。」

 

 

 

 また、森さんが自家の窯元の作品を販売される店舗「わくわく」に置かれてあった起き上がり小法師も清水焼を応用して作られた新商品だ。この起き上がり小坊師は、伝統工芸品的な要素が他の物に比べて強い感があるからだろうか。
「私としては今、これを食器以外の一押しの商品として考えています。陶磁器で製作したアクセサリーなんかも、ドイツのマイセンが作り始めていますし、世界的にも陶磁器の食器以外の物への応用という動きがあるようです。」
食器に留まらず、清水焼を応用した新商品開発へ、森さんの創作意欲は留まるところを知らないようだ。

 

 

 

 

森俊山

1957年 清水焼窯元に生まれる
1976年 京都市工業試験場 陶磁器研修コース修了
1977年 京都府立陶工高等訓練校修了
1978年 京都市工業試験場陶磁器課修了
1979年 日本陶芸展 入選
日展 入選(以後10回入選)
1981年 全関西展 第三席受賞(以後3回受賞)
1985年 京都府画廊選抜展 知事賞受賞
1986年 京展 美術懇話会賞受賞(以後3回受賞)
日本新工芸展 新工芸賞受賞
1987年 ギャラリーマロニエ 個展
1988年 八木一夫現代陶芸展 入選
1990年 美濃国際陶磁器フェスティバル 入選
1991年 京都府工芸美術展 優秀賞受賞
1992年 京都大丸 個展
1993年 新宿伊勢丹 個展
1997年 日工会展 日工会会員賞受賞
2001年 大阪成蹊大学美術学部 非常勤講師
2005年 京都栄養専門学校 特別講師
2006年 京都陶磁器協会 理事
2007年 京都青窯会協同組合 理事長
2008年 経済産業省認定 京焼・清水焼伝統工芸士に認定
2012年 京都市伝統産業「未来の名匠」に認定

俊山窯 伝統工芸士 森俊次

京都市東山区泉涌寺東林町20

TEL:075-561-9333

FAX:075-541-6688

加藤正史

2013.06.22 更新

 

 京都府宇治市の市街地区から東方の山中にある炭山地区。その自然あふれる地で、焼かれている加藤正史さんの工房を訪ねた。
この炭山地区は、京都府内で最も後にできた窯業地である。
京都府内には、現在窯業地である地区は数カ所有る。
清水寺および五条坂界隈に、最初に起こった五条地区、それより少し南にある日吉地区、またその日吉地区の南に位置する泉涌寺地区、京都市山科区の清水焼団地地区、そして、新たな窯業地を求めて、当時過疎化が進んでいた炭山村の村人に迎え入れられ、昭和48年、数人の陶工達が東山より移り住み窯を開いたのが炭山工芸村の始まりである。加藤正史さんのお父さんは、そんな、炭山村に移って窯を開いた陶工の一人であった。もともと、加藤さんのご先祖は岐阜で陶業に就かれていたそうで、より高度な陶磁器技法を求めて加藤さんのおじいさんが京都に移ってこられたらしい。

 

 

 

 この岐阜県や愛知県の瀬戸市、土岐市、瑞浪市などで焼き物をされていて、京都に移って陶業に就かれている方は多くいるが、中でも伊藤姓や加藤姓の方が多い。
加藤さんは、高校を卒業された後、京都市工業試験場で釉薬の知識を学ばれ、その後、府立陶工訓練校で轆轤の技術を習得された。
昭和52年よりお父さんの下で作陶を始められ、平成元年に「永峰」を襲名。京焼・清水焼展で入選されるなど、陶歴を積み重ねて来られたのだが、加藤さんの作品を見ると、その多様性にまず驚く。ご本人は、「磁器物から荒土までなんでも」と言われるのだが、正に、磁器から土物の作品まで、様々な器が陳列棚に並べられている。

 

 

 

  「興味が湧くとどんな物でも作りたくなるんですよ。でも、ほんとうに磁器でも土物でも、何でも作りますから結局、すべてが中途半端なんです。」と加藤さんは謙遜して言われるが、あくまでもそれは、ご本人の謙遜であって、全く中途半端ではない。一つ一つの作品が、どれも完成度が高いのである。
加藤さんは、平成11年に通商産業大臣指定、伝統工芸士の認定を受けられた。加飾の一技法である陶彫の技術力を認められての認定だ。
その陶彫により模様を施された青磁の作品は、釉薬が溜まった部分がコントラストを産み出す「影青(いんちん)」が非常に美しい作品だ。

 

 

 

 南蛮の器に鬼板(鉄分を多く含む粘土)で塔が描かれた作品などは、しっくり落ち着いた雰囲気で、まるで塔のシルエットを眺めているような景色になっている。交趾釉で彩色された器は、中国の唐三彩を思わせる雰囲気がある。加藤さんの作品は、実にバラエティーに富んでいるのだ。
「私は、色々な作品を見て良いなと感じたら、そのイメージを具現化した作品を作りたくなる。ですから、まず完成品が頭に浮かんでくるんです。そして、その作品に磁器土が合うと思えば磁器で作りますし、荒土が合うなら荒土を使います。私にとって、磁器で有らねばならないとか、必ず土物でといったこだわりはないんです。」

 

 

 まず完成品が頭にありきで、それを作るためにはこの材料をという選択で、加藤さんは作陶に挑まれるのだ。加藤さんの陶器を作られる上でのポリシーは「興味から起こるチャレンジ」だと言われる。
「なにかを突き詰めたいとか、一つのものに対する執着はないんです。」と仰るように色々な作品に挑まれているが、これだけ多種多様な器を作られて、しかも、どの作品もここまで完成度の高いものに仕上げられる加藤さんの技術力には感服させられる。
平成14年には当時の通商産業省から「通商産業省奨励賞」を受賞されている。加藤さんの陶工としての仕事は、今正に円熟を迎えられているように感じる。

 

 

 

 

加藤永峰

1956年 京都市東山区に生まれる
1976年 京都市工業試験場 陶磁器研修コース修了
1977年 京都府立陶工高等訓練校 成形課修了
炭山にて父・永峰(伝統産業功労者賞受賞)の下で作陶を始める
1989年 三代目永峰を襲名
1993年 京焼・清水焼展入選 以後2回入選
1999年 通商産業大臣指定 伝統工芸士に認定される
2000年 東福寺塔頭 明暗寺平住住職より「明暗寺窯」の称号を頂く
2002年 通商産業省奨励賞受賞

明暗寺窯 加藤永峰

京都府宇治市炭山久田2-4

TEL:0774-32-5907

涌波隆

2013.05.02 更新

 京都市東山区清水に工房を構えられる涌波隆(わくなみたかし)さんは、清水焼の名前の由来でもある、その地で作陶活動を続けておられる。

涌波家は代々続く陶芸家の家柄であるが、涌波さんは、早くして高校生の時に父親を亡くされ、その時、陶芸の手ほどきを父親から全く受けていなかったことから一時期、陶芸の家柄を継ぐかどうかを迷われたそうだ。

そんな考えもあり、大学は陶芸の専科ではなく、造形美術科・芸術計画群という科目を専攻され、広く芸術学に関する勉強をされた。
「陶芸の家を継ぐかどうかは、正直かなり迷いました。でも、自分自身が、もともと陶芸が好きだったんです。」

 

 

 大学卒業の時点で進路を考えたとき、幼いときから見ていた両親が陶芸に携わる姿が頭の中にあった。 陶芸家の家に生まれたこと、そしてやはり、自分自身、陶芸が好きであることを再確認し、自らも陶芸の道に進むことを決心されたのだそうだ。

涌波家は、現世の隆さんで四代目に当たり、陶芸を最初に始められたのは隆さんの祖父である。隆さんの祖父は、格調高い青磁の作品を数多く残した初代、諏訪蘇山氏に師事された。当時、諏訪蘇山氏の弟子に当たる人物は数名いたそうだが、一人前として独立する際、“蘇”の一時をもらい請け、隆さんの祖父は「蘇嶐(そりゅう)」と名乗られた。二代目蘇嶐は隆さんの父親で、三代目が母親、隆さんは四代涌波蘇嶐である。

 

  隆さんが作られる作品は、その諏訪蘇山氏の作風を汲む青磁の作品が中心であるが、生きておられれば最も身近な師匠であったであろう父親からの薫陶がなかったことから、作品造りは苦労の連続だったそうだ。

「祖父や父親が作っていた作品に使われている青磁の釉薬の調合などはノートに残ったものはあります。しかし、当時の原料と今のものでは、やはり質が変わっていますので、同じ調合にしても、同じ色合いには決して焼き上がらない。窯の違いや焼き方の違いによっても変わってきます。」
釉薬の調合だけではない。もともと涌波家が代々受け継ぐ青磁は、諏訪蘇山氏の流れを汲む釉薬にも磁土にも調合を加え、独特の深い色合いの青磁に仕上げるのだ。
「最初は、全くこの色合いは出ませんでした。何度も繰り返し調合や窯の焼き方を研鑽してやっと、この色合いが出るようになりました。」
と隆さんは語る。

 

 隆さんは、ほぼ、一年に一度のペースで個展を開催され、グループ展も含めると年に数回の展覧会を開催されているが、展覧会をされる毎に新しいことに挑戦することをモットーとされている。

「この青磁の器に施している模様も、新しくチャレンジして模索の結果、得たオリジナルの技法なんです。」
一見すると磁胎に施されているその龍の模様は浮き彫りのように見えるが、彫ってあるのではなく、土を貼り付けて立体感のある模様にされているのだそうだ。器を形作った後にまた、土を貼り付ける作業は特に、磁器の場合は困難な作業となる。

一旦、形作った器の乾き具合と、貼り付けるための土の乾き具合が、双方ほぼ同じ乾き加減でないと、うまく貼り付かない。乾燥の加減が違えば単に貼り付けてもその後、完全に乾燥させる段階で剥がれ落ちたりするのである。

涌波家が代々受け継いできた青磁の器に、土を貼り付けるという技法で、ここまでの大きな模様を施す加飾は隆さんの代で始められた技法とのこと。父親からの指導を受けられなかったことを隆さんは残念に思っておられるが、新しいことにチャレンジして、自身の作風を作り上げようとするその精神は代々受け継いでおられるのだろう。

 

 隆さんは、自身の工房で陶芸教室を開いておられて、指導をされている。兵庫県の芦屋市にある規模の大きな陶芸教室にも指導に行かれているそうだ。
「まず、陶芸自体に馴染んでいただきたいんです。そして実際に作っていただくと陶芸に対する見方が変わられる。そして私の作品を見ていただくと、以前とは違った見方で作品を捉えていただけます。私自身、人と人とのつながりを大切にしたいと考えています。」
隆さんは、積極的に人との交流を持ちたいと言われる。
「陶芸教室でも展覧会でもそうですが、そういう機会で人と交流することにより、私の作品に対して色々な意見をいただけます。その意見から作品へ良い影響を受けることも多々あります。」

 

  多くの意味で、それらのことも隆さんの作品に、その影響が集約されるのだ。
人との交流を積極的に持ち、新たな作風にも果敢にチャレンジされ、陶芸家の道を前進されている隆さんだが、今でも、父親がそばにいてくれたらと思うときがしばしばあるそうだ。

そんな、父親への思いが込められ、四代涌波蘇嶐として代々涌波家の陶芸が受け継がれて今も尚、隆さんの祖父や父親は、隆さんの胸の中や作品に生き続けているのだろうと思う。

 

 

四代 涌波蘇嶐

1977年 京都市に生まれる

成安造形大学 造形美術学 芸術計画群卒業
京都府立陶工高等技術専門校 陶磁器成形科・研究科修了
京都市伝統産業技術者研修(旧京都市工業試験場) 陶磁器コース本科修了

2005年 四代蘇嶐を襲名
2008年 松坂屋 高槻店 四代襲名展
2010年 松坂屋 高槻店 個展
2011年 松坂屋 高槻店 個展
2012年 大和 香林坊店 個展
〒605-0862
京都市東山区清水四丁目170-22
075-561-8004

守崎正洋

2013.02.15 更新

今回、取材にお伺いしたのは、京都は嵯峨野で作陶されている守崎正洋さんの工房。守崎さんは、釉薬(うわぐすりとも言われる)により彩色をされた食器を専門に作られている。
嵯峨野で生まれ育った守崎さんは、京都府園部市にある京都伝統工芸専門校(現在 大学校)で陶磁器の勉強をされ、卒業後、二年間大覚寺陶房を主宰される和泉良法氏に師事された。
その後、京都市工業試験場陶磁器コース専修科で釉薬全般について深く学び、修了後、嵯峨野工房を開窯され現在に至っている。
現在、守崎さんは母校の京都伝統工芸大学校では助手として、姉妹校の京都美術工芸大学では助教として生徒に陶芸の指導もされている。

 

 

 

そんな、釉薬に関して高い知識をお持ちの守崎さんが作られる焼き物は、様々な釉薬がかけられ焼かれた美しいものだ。
辰砂釉や天目釉、乳白釉、あるいは青磁釉など、どれを見ても、綺麗に発色している。
もちろん、全ての釉薬は守崎さん自らが調合されたオリジナルのものだ。京都市工業試験場の陶磁器コース専修科で学ばれた知識と、実験で焼かれた数多くの試験体(テストピース)に基づく知識が活かされている

 

 

「釉薬の発色は、窯によってぜんぜん違ってきます。電気窯で焼く場合とガス窯で焼く場合で違うのは当たり前で、同じ電気窯でも異なる窯で焼くと、発色が違って出てくる。
窯の焼き方でも変わってきます。」と、守崎さんは話される。釉薬は調合も大事だが、狙った発色で焼き上げるには窯の焼き方も非常に重要になってくる。
守崎さんは、還元焼成といわれる焼き方をされるのだが、この還元焼成とは窯の温度がある程度以上になった時点から、炉内をガスの炎で満たし、酸素濃度が低い炉内雰囲気にすることで釉薬の発色を促す。
釉薬によっては、窯の温度を下げるときにも、この還元状態を保つ、いわゆる「冷却還元」という焼成技法も用いられるそうだ。

 

 

 

 

作品を拝見すると、天目碗にかけられた釉薬の表面に茶色い結晶がいくつも析出した禾目(のぎめ)天目と呼べるようなものや銀青色の結晶が析出している油滴天目と呼べるもの、鮮やかな赤い色を呈する辰砂の器、透き通るような青緑色を発する器など、どれも実に美しい。
また、釉薬の乳濁が、まるで雪化粧をした木々で覆われた雪山の景色を創造させるような美しいものもある。この釉薬は黒天目と乳白釉を二重がけすることにより産み出される発色で、ご本人は「流天目」と名付けられている。そして、これら釉薬作品を目の当たりにすると、釉薬そのものの魅力で圧倒される思いだ。

 

 

守崎さんに作品を作られるときのコンセプトを訊いてみたところ「私の場合は、食器が中心ですから使いやすいもの、主役の料理が栄えるような器を作っていきたいと考えています。」という答えが返ってきた。
呉須や色絵の具をふんだんに使い、絢爛豪華な絵付けを施された皿などは飾り皿とされ、料理を盛ることを嫌う。豪華な絵が主役の料理の邪魔をするからだ。飾り皿は、工芸作品としてはその存在の意味を持つが、食器本来の機能性から考えると本末転倒のような性質を持つものと言えるのかもしれない。

 

 

 

守崎さんは、食器本来の使命を兼ね備えた、あくまでも料理を引き立たせる控えめな加色、それでいて美しい発色の器を作られているのだ。守崎さんの食器に料理が盛られ、写真掲載されている料理誌がいくつも存在することが、料理を活かす食器として守崎さんの作品が広く認識されている証であると思える。
守崎さんは主に展覧会で作品を販売されており、高島屋京都店、朝日陶庵(京都)では、定期的に個展を行われている。また、日本橋高島屋、池袋西武、新宿伊勢丹などの企画展にも出展されたことがある。作陶活動のみならず、京都伝統工芸大学校と京都美術工芸大学での教鞭も合わせ、これからもますます活躍されることと思う。

 

 

 

 

守崎正洋

1999年 京都伝統工芸専門校(現在 大学校)陶芸本科修了
1999年 以後二年間、大覚寺陶房にて和泉良法氏に師事
2002年 (株)たち吉主催『京都陶芸の新しい芽』入選
2003年 京都市工業試験場陶磁器コース専修科修了
2003年 京都、嵯峨野にて開窯 独立
2004年 伝統産業「京の若手職人」海外(イタリア)派遣事業に選出
2006年 2006『めし碗グランプリ展』入選
2008年 第26回『朝日現代クラフト展』入選
2012年 第10回『ローディ陶器コンクール』(イタリア)入賞
2012年 京都美術工芸大学工芸学部助教に就任

主な活動として・・・

2003年 京都高島屋美術工芸サロンにて初個展
2004年 新神戸ギャラリー田中美術にて個展
2004年 HANDICRAFTS BAZAAR
2005年 京都高島屋美術工芸サロンにて個展(二回目)
2006年 近鉄枚方店『暮らしのうつわ展』
2006年 日本橋高島屋『伝統家具とクラフト展』
2007年 近鉄枚方店『近鉄枚方のアートフェスティバル』
2007年 京都高島屋美術工芸サロンにて個展(三回目)
2007年 第26回『朝日現代クラフト展』入選
2008年 和のぎゃらりー昌の蔵(京都)『京の現代工芸 芽ぶきのころ』
2008年 朝日陶庵アートサロンくら(京都)にて個展
2008年 京都匠塾のお店『いぶき東山』(京都)にて個展
2008年 ギャラリー「一ツ家」(京都)『京の陶 四人展』
2008年 西武池袋店『京都からの風-京都若手工芸作家による作品展』
2008年 近鉄阿倍野店『手わざ手しごと展』
2008年 ギャラリーたちばな(奈良)にて個展
2008年 Mirrors Usa(愛媛)『冬のプレゼント』
2009年 伊勢丹新宿店『大人のひな祭り』
2009年 朝日堂ものづくり工房(京都)『若手作家の伝統工芸展』
2009年 大阪髙島屋『陶・ガラス・布 三人展』
2009年 ギャラリーたちばな(奈良)にて『京の陶 三人展』
2010年 ギャレリア ピアノピアーノ(神戸)にて個展
2010年 カフェダイニングnear(京都)にて『おもし2010』(京都匠塾選抜三人展
2010年 朝日陶庵アートサロンくら(京都)にて個展(二回目)
2010年 伊勢丹新宿店『かわいい色とサイズの器 ~箸置き50人展~』
2010年 都島工芸美術館にて個展
2010年 ギャラリーたちばな(奈良)にて『京の陶 小野空女・守崎正洋二人展』
2011年 『MAISON ET OBJET メゾン・エ・オブジェ』(パリ)
2011年 伊勢丹新宿店『モダンに楽しむ ひなまつりパーティ』
2011年 日本橋三越本店『京 たしなみ道具
2011年 伊と忠GINZA『京都伝統工芸BOX』
2011年 ギャレリア ピアノピアーノ(神戸)にて個展
2011年 『豆皿1000展』(伊勢丹新宿店・三越銀座店・日本橋三越本店ほか)
2011年 ジェイアール京都伊勢丹『ガラスと陶器』
2011年 『関西伝統工芸品スーベニアフェスタ京都’2011』
2011年 三越銀座店『日本のお米を美味しく食べる展』
2011年 京都髙島屋美術工芸サロンにて個展(五回目)
2011年 朝日陶庵アートサロンくら(京都)にて個展(三回目)
2012年 くらふとギャラリー集にて『第二回震災復興支援ギャラリー〈思い、形に〉』
2012年 ギャラリーカフェ京都茶寮にて『京の伝統工芸 新しい息吹』
2012年 HAND WORKS『motte』(京都)にて個展
2012年 Gallery FUKUTA(東京)にて『京のいっぴん展』
2012年 ジェイアール京都伊勢丹『母への小さなプレゼント15人展』
2012年 ギャラリーたちばな(奈良)にて『京の陶 小野空女・守崎正洋二人展』
2012年 『豆皿1000展』season-Ⅱ(伊勢丹新宿店ほか)
2012年 くらふとギャラリー集にて『工芸綯交(ないまぜ)十人展』
2012年 伊勢丹新宿店『手土産にしたい そば猪口』
2012年 大阪三越伊勢丹『秋の彩』

横山武司

2012.12.21 更新

中国で初めて焼かれた釉陶(上薬がかかった焼き物)は、青磁であるとの説もある。横山さんは、主にその青磁の器を製作されていて、食器と茶道具の両方を手がけられる。
釉陶は、古くは中国が殷(紀元前1600年~紀元前1028年)の時代からあるそうで、灰を水に溶かして、すっぽりと器にかけ1200度から1300度の高温で焼き上げたものだが、灰の中に、自然に含まれる鉄分によって、器の表面が青緑色もしくは緑色に発色する。これが青磁の器の原型だ。
横山さんは、この青磁の釉薬を祖父の時代から伝えられた割合で、自家にて調合されている。

 

 

その色合いは、単なる鉄分だけによる青緑色というものではなく、発色剤として微量のコバルトやクロムなども含まれた、青磁としては深みのある発色を呈する。
横山さんの御祖父の時代からの割合で、そのまま同じように調合されているとのことだが、やはり、その時代と比べて、現在では原料の質の変化や、原料によっては、そのものが今では手に入らないなど、昔のものとは焼き上がりの色合いが微妙に違ってくることは否めない。

 

 

 

横山さんは、「原料の質の変化で当時の青磁の色合いと違ってくることは、それはもう仕方がない事ですね。おじいさんの調合ノートを見ても、当時の呼び名で書いてある原料もあり、今となっては、これは何だ?と、思うような不明な原料もあります。」と、笑って言われる。

横山さんの作品で、特に目を見張ったのは、器の側面全体に大胆に透かし彫りを施した作品で、その丁寧に彫られた模様から長い時間をかけて、じっくり作り上げられたことが伺える逸品である。「透かし彫りの作業は、まだ器が土から乾ききっていない、柔らかいうちに彫ってしまわないとできないのです。」と横山さんは言う。

 

 

 

全面に透かし彫りを施す作業は、短時間で完結できないのは明らかだ。湿った布で器を覆い、乾ききらないように面倒を見ながら、彫りの作業を丁寧に進めるのである。この透かし彫りの作品は、中国の耀州窯で焼かれた青磁の透かし彫りの作品に通ずるものを感じる。
横山さんの作品の中には、青磁以外にも黄磁の作品もあり、こちらは中国の郊壇官窯で焼かれていた「米色青磁」に通ずる雰囲気を感じる。浮き彫りで草花模様を施された白磁の器も実に美しい。

 

 

 

浮き彫りによって模様を施され、透明釉(白磁)や青磁の上薬をかけられたものは、その模様の輪郭に透明釉が溜まり、陰影が生まれる。この陰影の部分を陶磁器では影青(インチン)と呼ぶのだが、横山さんの作品はこの影青の美しさが清々しい。
「私がやっているような、こういう仕事は、継いでいこうという若い人が、今はほとんどいません。面倒な作業ですからね。」横山さんは残念そうに言われるが、「簡単に量産できる作品ではありませんから、知り合いやお得意様など、個人的につながりのある方に直接お売りさせていただいています。」
横山さんの作品は、心を込めて作られたものが、横山さんご自身の手で直に、購入者に手渡される。正に、購入者にとって他にない逸品なのである。これからも、長く作品造りに励まれるよう願いたい。

横山武司

京焼・清水焼は永く王城の地、京都に江戸時代初期、仁清・乾山などの名工が輩出して、
その祖を築き、その永い伝統が現在に続いています。私は、この清水焼のなかで、
二代目瑞祥の薫陶を受け青磁、黄磁など、もっぱら色釉の磁器に独特の境地をだしています。

1956年     京都市生まれ
1974年     京都市立日吉ケ丘高校卒
1979年     家業に従事
2006年     伝統工芸士に認定される
京焼・清水焼商工会議所会頭賞
京都青窯会作陶展京都新聞社賞
京都商工会議所会頭賞

京焼・清水焼 瑞祥窯 伝統工芸士 横山武司

〒605-0976 京都市東山区泉涌寺東林町35
TEL:075-561-6263

伊藤圭一

2012.11.17 更新

 

京都市東山区泉涌寺で作陶される伊藤さんは、ハワイやパリでも作品を展示販売されている、グローバルに活躍されている陶芸家だ。

伊藤さんのお父さんは、画期的な技法を用いたデザインの作品を発表されるなど、京焼・清水焼の業界内では先進的な役割を果たされた方だったが、伊藤さんがまだ幼い頃に亡くなられた。「父親が早くに亡くなったことは、世間からすればマイナスに見られるかもしれませんが、そのことからも自分でやっていかないといけないという気持ちが強くなったかもしれませんね。」と、伊藤さんは話される。同時に、このお父さんの血も確かに引き継がれているのだろう、伊藤さんの仕事も先駆的なのである。

 

伊藤さんの作品は、交趾(こうち)と呼ばれる色鮮やかな発色をする釉薬で彩色した磁器の作品が中心だ。焼き物の仕事を始められた頃は、染付の磁器を製作されていたが、染付磁器はプリントによるコピーものの工業製品で市場が溢れかえるようになって嫌気がさし、交趾の作品造りに切り替えられたそうだ。オリジナリティーとクオリティーを追求したかったと話される。

確かに、伊藤さんの交趾の作品は、ピンクに発色するものや宝石のオパールのような発色をするものなど、一般の交趾焼にはない色合いのものがある。正に、伊藤さんオリジナルのものだ。

 

ラピットプロトタイピングというコンピューターグラフィックの技術を応用し、正確に八角に面取りされた水指の原型を作り、それを元に作品に仕上げる。今までの焼き物作りにはない革新的な技法を考え付かれたりするなど、クオリティー追求にも余念がない。
「コンピューターグラフィックで原型を作るというと大量生産と勘違いされる人もいますが、そうではないんです。私にとっては器の素地を轆轤で作るのと同じように、それをただ、コンピューターグラフィックで作ることに置き換えただけ。素地を轆轤で作るのもコンピューターグラフィックで作るのも同じことなんです。」

 

現代には、現代であるからこそ存在する新しい技術がある。それを焼き物に応用することは、なんら不自然なことではない。伊藤さんの焼き物に対する積極的な見つめ方が、そこにはあるのかもしれない。

 

「やっぱり、人との出会いが大切です。出会いによって人生の方向が変わってくる。10年前には想像もできなかった自分が今ここにいる。」
伊藤さんは、それまでには陶磁器に使われていなかったような技術や材料も、焼き物に応用できるのではないかと感じれば、開発者と親交を深め、新たな出会いを積極的に求めていく。そして、粘り強く研究を繰り返し、陶磁器にその技術や材料を盛り込む術を実現される。
今までにはなかったもの、他人(ひと)に、簡単に真似されないものを如何にして作るかということを、常に考えておられるそうだ。

 

 

いわゆる、伊藤さんの作品はアート的な作品というよりは、オリジナリティーの強い“商品”であるということも言えるかもしれないが、伊藤さんは「私の場合、どのような陶器が売れるのだろうと考えることが出発点かもしれませんが、良いものを作りたいという強い気持ちで突き詰めていくと、とどの詰まりがオリジナリティーやクオリティーにこだわるという、作家が求めるものと同じにものになっていくのです。」と話される。

 

「焼き物を作っているときは、商売やお金のことは考えていません。ただ、良いものを作ろうということだけが頭にあります。」
20年ほど前にフランスの首都パリで「京焼・清水焼パリ展」というのが開催されたことがある。
その展覧会に参加された伊藤さんは、海外で日本の陶磁器を販売することに、それがきっかけで思いを抱くようになられたそうだが、同時に海外で日本人が商売をする難しさも痛感された。

 

数年が経ったとき、パリで店を構えて料理を出そうと考える京都の料理人と出会うこととなる。「パリで日本料理店を営むという高いハードルに挑むような人は、どういう考え方を持っているのか、非常に興味がありました。」伊藤さんは、この人気店を営む料理人との出会いも大切に考え、親交を深めたのである。

 

そして後に、この料理人との出会いがやがて発展し、ハワイでのレストラン&ギャラリー出店に繋がるのである。
伊藤さんは、「料理人の方や世間一般の方から、陶器を作っている人は、人にできない次元の高い仕事をしていると思ってもらえて、一目置かれるようなところがあります。ですから、陶磁器にかかわる者はその期待に応えるべく誇りを持って仕事をしなくてはと思いますね。もっと表に出て行くことも大切なことで、常に向上心を持って取り組めば必ず良い方向へ進むと思います。」

 

ドイツには、マイスター制度というのがあり、高品質な物を作れる職人がマイスターの称号を与えられ、人々から尊敬される風土があるらしい。ただただ、羨ましい国だと指を咥えて思っているだけではいけない。日本でも、そうあるべきと伊藤さんは言われているように思えた。もの作りとしての姿勢、陶器を生業として仕事をして行くにはどのようにすべきなのか。伊藤さんは自らそれを実践されているのだと思えるのである。

 

伊藤さんが工房を構えられる泉涌寺地区は、同じ窯元約50軒が集まる陶業地である。
秋には毎年「紅葉まつり」なる陶器市が開催される。伊藤さんは、このお祭りでも企画立案者として中心的な役割をされている。
焼き物に対しても先駆的な活動をされ、地域の祭りでもリーダー的な存在で、才能豊かな方と言えるだろう。これからも、陶器業界を牽引するリーダーであってほしい。

 

伊藤南山

1959年 京都市に生まれる
1994年 パリにて個展を開催
1999年 伝統工芸士に認定される
2005年 浅黄交趾鳳凰紋皆具が鵬雲斎大宗正の御好物となる
2007年 水指がマレーシア国立美術館のパブリックコレクションとなる
2011年 京都デザイン賞入選

有限会社 平安陶花園 伊藤圭一

〒605-0976 京都市東山区泉涌寺東林町37
TEL:075-561-8223
FAX:075-533-0007
E-mail:nanzan@toukaen.jp

八木徹

2012.10.05 更新

 絵を描きたいとの強い思いから、「父親の大反対を押し切って、陶芸の世界に飛び込んだのは16歳の時でした。」と話す八木徹さん。八木さんは、もともとお茶農家に生まれ育ったが、陶芸の仕事をしたいという希望で、京都市内の陶工職業訓練校に入り、その後、清水焼窯元に住み込みで修業された。「朝の掃除から始まる、内弟子として修業をした5年間は、もう毎日が嫌で嫌でね。」と言われるが、「でも、その頃に覚えたことが今、こうして身についているのが不思議です。」とも話される。
八木さんは、本焼きをした器に色鮮やかな色絵の具を使って絵を施す上絵(色絵とも言われる)を得意とされる。作品は、実にバラエティーに富んでいて磁器に赤絵を施したものや赤土で作った器に上絵を施したもの、染め付けと上絵をコラボさせた器など、八木さんの多才な面を垣間見るような、見事な作品が数多くある。

 

 

そして、注目すべきは陶磁器に上絵付けを施すに留まらず、ガラスに上絵を施した作品も製作されていることだ。ガラスに上絵付けをして焼くというこの作業は、実は簡単なことではない。本来、上絵付けの絵の具はガラス質の透明な釉薬に、発色剤となる金属元素が調合されたもので、どちらも同じガラスということでは溶ける温度は同じなのである。 つまり、既存の上絵の具では、単純に絵付けをして窯で焼いても、ガラス自体も溶けてしまい、元の形状を保たない形で焼き上がってくる。

 

 

 

ガラスのコップに絵付けをして、コップとして元の形のまま焼き上がるようにするには、ガラスの融点よりも低い温度で溶ける上絵の具を新たに開発、調合しなければならないのだ。八木さんは、この問題をクリアした絵の具を独自に調合し、窯の温度の上げ方や窯内の雰囲気の調整を幾度も繰り返し焼くことで研究して、現在の作品にまで仕上げられるようになった。その独自の色合いや微細な線使いなどは、八木さんのオリジナルの絵の具と高い技によるものだ。「初めの頃は、何回も失敗を繰り返しましたよ。でも、懲りずに何度も焼いている内に、少しずつわかってくる。」と八木さんは言われる。この、より完成度が高い作品になるまで飽くことなく挑戦する姿勢は、16歳の時に抱いた「絵を描きたい!」という強い思いが今でも、八木さんの中にあるからだろう。

 

 

「私が作る焼き物は、清水焼です。」と八木さんは言われるが、陶磁器に施される絵のデザインや他の技法とのコラボレーションなど、清水焼に新しいセンスを取り入れたいという試みを積極的にされている。ガラスの上絵付けもその一つで、陶磁器とは違い、ガラスは裏面からも絵が透けて見え、陶磁器とは違った透明感を味わうことができる。そして、低火度で焼き付けられた絵の具は、プリントされた模様のように剥がれ落ちることはなく、ガラス越しに見る上絵は実に美しく、永く私たちを楽しませてくれる。

 

 

そういった要素を引き出しにして、清水焼に新たなセンスを加えて行こうというのが八木さんの狙いだそうだ。 八木さんがおもしろい話をして下さった。「モノがモノだけじゃない。モノがあるから作り出せる楽しさを伝えるのも、使命かもしれませんね。“アメリカ人が日本の楽しみ方を日本人に教えたら、日本人に喜ばれる。”というパラドックスのような話があるのですが、京都以外の人に京都の楽しみ方を教える、それをまた京都人に教えたら、京都の人が喜ぶかもしれません。陶器においても作り手の私たちよりも、意外とお客さんの方がよく勉強されていて、知っておられることがあります。“研究”と言うより“教養”で知っている感じがしますね。これからは焼き物文化で、いかにお客さんと一緒に遊んで楽しめるかですね。」

 

 

 作り手側からの視点では、つい見落としてしまう盲点のような部分も、使い手のお客さんの立場からは見えることがある。八木さんは、ご自身の焼き物を使う方の意見や視点を積極的に、作品に反映させたいと考えておられる。
16年の内弟子時代を経て、32歳の時に独立。それから30年が経つが、八木さんの創作活動は今も躍動感溢れている。これからの作品造りに注目したい。八木さんの作品は、全国の百貨店や京都陶磁器会館でも展示販売されているが、(株)宇治田原製茶場が発刊している「月刊 茶の間・お茶と暮らしの情報カタログ」や淡交社発行の「淡交センター・カルム」などの通販カタログからも購入できる。

 

 

八木海峰

1950年 京都府山城町に生まれる
1966年 京都府立陶工職業訓練校修了 初代加藤如水氏に師事
1968年 京都信用金庫四条河原町支店において皇后陛下の御臨席を仰ぎ実演
1988年 第10回京焼・清水焼展にて大阪通商産業局長賞受賞
第31回上絵陶芸展にて京都市長賞受賞
1990年 銀座松坂屋美術画廊において作陶展
国際花と緑の博覧会’90政府苑に出品
第12回京焼・清水焼展にて京都府知事賞受賞
1991年 大阪松坂屋美術画廊において作陶展
1993年 フランス日本大使館別館において現代の京焼・清水焼展に出品
同展において絵付け実演
1994年 第23回日本伝統工芸近畿展入選
1995年 第24回日本伝統工芸近畿展入選
フランス・パリにおいて四人展
1998年 京都高島屋において陶芸とグラスアート展 以降毎年開催
2000年 第22回京焼・清水焼展にてNHK京都放送局長賞受賞
2001年 第43回色絵陶芸展にて京都府知事賞受賞
日本橋三越において作陶展
2002年 日本橋高島屋において作陶展
2003年 京焼・清水焼伝統工芸士に認定 山城多賀へ工房を移転
2004年 第46回色絵陶芸展にて京都商工会議所会頭賞受賞
2006年 京都高島屋において作陶展
2007年 第28回京焼・清水焼展にてNHK京都放送局長賞受賞
第49回色絵陶芸展にて京都陶磁器意匠保護協会賞受賞
2011年 伝統工芸品産業功労者に認定

陶芸 海峰窯 八木徹

〒610-0301 京都府綴喜郡井手町多賀帽子田45
TEL/FAX:0774-82-3699

入江ヒロ子

2012.09.06 更新

入江ヒロ子さん
工房に入ると、棚にずらりと並んだ乳鉢の数に、まず圧倒された。入江さんは、陶磁器の絵付けを専門とされるが、絵付けの中でも特に、器を本焼きした後、鮮やかな色を器の表面に施す色絵を得意とされる。
数多く棚に置かれている乳鉢には、独自に調合された色絵の具が入れられおり、その乳鉢の数だけ、色の種類を持たれている。一つ、赤色だけを取ってみても明るい色調の赤から、暗い感じのものまで4種類ほど用意されていて、緑でも5種類以上の色調パターンがあるそうだ。陶磁器の絵の具は、水彩絵の具のように赤と黒を混ぜれば茶色になるというように、単純には色を作り出せない。水彩絵の具であれば、同じ茶色でも、赤に近い赤茶色から黒に近い焦げ茶色など、自分が希望する割合で混ぜ合わせればすぐに色の確認ができるが、陶磁器の色絵の具は実際に焼いて見るまで、どのような色に上がってくるか、わからないのである。

 

 

色絵の具そういう性質を持つ陶磁器の色絵の具で、これほどの色のパターンを自ら作り出され、それを駆使して色絵を施されている入江さんの仕事に、脱帽させられる思いだ。色絵の具は、窯の温度の上げ下げや、窯の中のどの位置において焼いたかによっても、色の出方は違ってくることがある。また前回と同じ色に上がってくるかは、いつも心配だと入江さんは話されるが、長年、色絵の焼き物を焼いてこられて、今現在でも、なかなか満足のいく仕事にならないとも話される入江さんの言葉に、より完璧なものを追求したいという職人魂のようなものを感じる。

 

 

色絵を施されている入江さん器に描かれるデザインも、もちろん入江さんのオリジナルのものだが、その幾何学模様の正確さや、細かさにも驚かされる。手描きで、ここまで描けるのかと思えるほどの、正確で美しい模様が器に施され、見ているだけでも、その世界観にすっと、入り込んでいく感じがする。正確で細かな模様であり、これを手描きするのは、いかにも大変であろうと思うのだが、入江さんは「こういう模様の方が、私は楽なんです。」と話される。おそらく、入江さんご自身がお好きな模様なのだろう。そして、その模様の絵付けをされているとき、楽しく作業をされている姿が想像される。その楽しく絵付けをされた雰囲気までもが、器から伝わってくる。これこそが、入江さんの色絵の器の魅力なのかもしれない。

 

 

四角い電気窯色絵を焼く窯にも、入江さんはこだわっておられる。普通、色絵は「錦窯(きんがま)」と呼ばれる丸形の電気窯で焼くのだが、入江さんの窯は本焼きなどでも使われる四角い電気窯を使っておられる。この四角の電気窯の方が調子が良く、色が綺麗に上がるのだとか。格調高い作品に仕上げられることに余念がない。
入江さんは、仕事上のパートナーである岩國起久雄さんと共に昭和47年に裕起陶芸(ゆうきとうげい)を設立された。もともとカタカナでヒロ、子供の“子”の字でヒロ子が本名なのだが、裕起陶芸設立の際“裕”の字を充てられて裕子とし、岩国さんの起久雄の“起”と合わせ、裕起陶芸とされたそうだ。工房は「清水焼見学ツアー」のコースに入っていて、様々な国からの観光客が見学に来られるとのこと。伝統工芸士でもある入江さんの作品と仕事ぶりを、これからも内外を問わず沢山の人に見て欲しい。入江さんの作品は、「高台寺まほうや」や京都東山茶碗坂の「arts安木」、京都陶磁器会館などで見ることができる。

 

作品 作品

入江裕起

1932年 京都市東山区に生まれる
1950年 京都府立陶工公共職業補導所研究科終了
井野祝峰・小川文斎・高木岩華にて修業
1967年 女流陶芸にて毎日新聞社賞を受賞 京展工芸に入選
1970年 京都府立陶工専修職業訓練校指導員免許取得
1972年 岩國起久雄氏と共に裕起陶芸を創立
1991年 京都上絵陶芸展にて京都府知事賞を受賞
1992年 京都府工芸産業技術コンクールにて受賞
京焼・清水焼展にてNHK賞受賞
京都上絵陶芸展にて知事賞受賞
1993年 現代の京焼・清水焼パリ展に出品
1996年 京都上絵陶芸展にて京都府知事賞受賞
2000年 京都色絵陶芸展にて京都商工会議所会頭賞を受賞
2001年 京焼・清水焼展にて経済産業大臣賞を受賞
2004年 京焼・清水焼伝統工芸士に認定される
2005年 日本伝統工芸士会会長賞第二席、京都市伝統産業技術功労者表彰
2007年 日本伝統工芸士会会長賞特賞、京都色絵陶芸展知事賞受賞

裕起陶芸 入江ヒロ子

〒605-0878 京都府京都市東山区上梅屋町177
TEL/FAX:075-551-0734