森俊次

2013.09.15 更新

 京都市東山区の泉涌寺地区で工房を構えられる森さんは、その地で3代続く窯元のお生まれだが、若き日々は日展に作品を出展し、入選を重ねられた陶芸作家として活躍された。

高校を卒業してから陶工訓練校、京都市工業試験場の陶磁器研修コースで学ばれ、この世界に入られたのだが、一旦は家業を継ぐべく短期間、窯元の仕事をされたものの、思うところがあって、日展作家の宮下善寿氏の下に弟子入りをする。

「地味な窯元とは違い、作家の方は優雅というか、高級車に乗って美味しいものを食べてというように、若い頃は、そういう風に見えたんですよ。自分もそうなりたいと考えたんですね。今思うに、決して窯元が悪い、作家の方が良いというような、もちろん上下はないですし、窯元はつまらない、作家の方が楽しかったとも思いません。若気の至りというやつですかね。」 と、森さんは言われるが「家にいる                                  と、どうしても甘やかされますから。」

 

 

とも言われる。若いが故に、単に楽な方の道を選んだということではない。窯元の3代目で後継ぎという甘い環境から、弟子入りという外の厳しい環境へ自らを追いやり、自分自身を律されたということも言えると思う。
28歳の時に、結婚を機に独立。作家としての活動を本格的に始められる。森さんは、日展に出展された当初から入選を重ねられ一気に注目を集められた。
森さんが、日展作家時代に主に制作されていた作品は、手捻り技法によって作られる花器の作品だ。どの作品も形が非常にユニークで暖か味を感じるようなフォルムを持ち、眺めていると心が和む。表面は光沢のある釉薬をかけて仕上げるのではなく、焼き締めに近いようなマットな質感があり、尖った感じがしない。日本的で古風な空間というよりも、現代的でシックな空間に置かれると、マッチするような作風に感じる。

 

 数々の作品で入選を重ねられ、意欲的に作家活動をされていた森さんだったが、32歳の時に父親が病気になったことで、窯元としての仕事もされるようになる。しばらくは、窯元としての仕事をこなす半面、日展作家としての仕事も続けられた。
窯元の仕事をされるようになると、作家的な仕事である一品製作ではなく、同じ物をいくつも作る数物製作の仕事にも興味が湧くようになる。
「バブル景気に入った頃で、上り調子の良いときでしたから、見本を出せば必ずと言って良いほどよく売れました。やっぱり、売れれば商売としての窯元の仕事も面白く思いましたね。それと同時に、伝統的な食器製作の難しさもわかってきて、その奥の深さに面白味を感じました。」
二足のわらじではないにしても、森さんは窯元としての仕事と作家としての仕事の両立を続けられる。

 

  45歳になったとき森さんはふとしたことで、作家としての活動に疑問を持たれるようになったことから、窯元の仕事一本に絞られることになる。窯元の仕事一本に絞られてからも、それまでに作家として作品を作られていた頃の技術や焼き物に対する考え方が役に立っているのか、森さんに尋ねてみた。
「それは、やっぱり役に立っているでしょうね。伝統的な食器を作る場合でも独創性は大事ですし、伝統工芸品であっても従来の古いデザインの物をただ、真似て作るようではだめですからね。食器を作る上でも創作性が必要になってきます。日展はまず、創作を大事にする世界ですから。」
日展作家時代に培った創作性を森さんは、窯元として作る食器にも盛り込んでおられるのだが、窯元を継がれた最初の頃は、そうではなかった。

 

  「私が家業の窯元を継いだ時は、問屋さんの下請けのような仕事をしていたんです。器の形だけを作って焼き上げ、その状態で問屋さんに納める。その器に施す絵付けはその後、問屋さんが上絵をする職人さんに預けて、絵付けをされるのです。日展で創作の仕事をしてきた私にとっては、その下請けのような仕事に甘んじることができなかったんです。」
注文通りの形に仕上げた器を、なんの絵付けを施すこともなく、無地のまま卸業者に納める。その器には、なんら独創性のかけらもなく、森さんの個性は、ただ一つも盛り込まれない。そんな仕事に安住することに森さんは我慢ができなかったのだ。
「自分でデザインした絵を付けていかないと、窯元オリジナルのものは作れない。これではだめだという危機感のようなものがありましたね。」
窯元としてのオリジナルの器を作っていくのだという決意の元、                                            次々に新作食器を森さんは作り出していく。そこには、日展作家                                            時代の創作が活かされ、森さんの独創性が盛り込まれていった。

 

 こうして、食器においても数々のヒット作を森さんは世に出されていったのだが、いかんせん、時代は食器が売れない世の中となる。
「最近は、食器が売れなくなってきましたね。これからの私の課題は、清水焼の技術を食器以外の物にどうやって活かすかということだと思っています。」
そう言って森さんは、見慣れない形をした陶片のようなものを見せた。
「中国に“かっさ”というものがあって美顔に使う物なのですが、それを陶器で作ったものです。元々は、動物の骨を加工して作ったものだそうです。」

 

 なんでも、美顔ローラーのようにそれを顔に押し当てて、なでることにより皮下の血行を促すことで、美顔に効果があるらしい。森さんの食器以外の物を陶器で作った作品は、それだけではなかった。ふと、後ろの棚を見ると、金属の棒の先に陶器がくっついた物が置かれてあった。一見、何かはわからなかったので、森さんに尋ねると
「ゴルフクラブのパターです。自分の趣味を活かしてパターも陶器で作ってみたのですが、パターの場合、重さとか角度とか微妙な調整があって難しいですね。」
陶器でゴルフのパターを作ろうというのは、かなりユニークな発想で、思いつく人はまず、そうは多くないと思う。しかも完成品にまでしてしまうというのは、すごいとしか言い様がない。全くもって、驚嘆してしまった。
森さんの清水焼を応用した新商品は、それら以外にもある。時計や楽器のオカリナなども陳列棚には置かれてあった。
「オカリナも音の調律が難しいのです。土で作りますから、作っているときと乾いてからの音が違ったり、焼いた後でも音が違ったりしてくる。穴の大きさの違いや微妙な位置のずれで音程が変わります。パターにしてもオカリナにしても時計でも、なかなか、商品として流通に乗るところまで持って行くのが難しいですね。」

 

 

 

 また、森さんが自家の窯元の作品を販売される店舗「わくわく」に置かれてあった起き上がり小法師も清水焼を応用して作られた新商品だ。この起き上がり小坊師は、伝統工芸品的な要素が他の物に比べて強い感があるからだろうか。
「私としては今、これを食器以外の一押しの商品として考えています。陶磁器で製作したアクセサリーなんかも、ドイツのマイセンが作り始めていますし、世界的にも陶磁器の食器以外の物への応用という動きがあるようです。」
食器に留まらず、清水焼を応用した新商品開発へ、森さんの創作意欲は留まるところを知らないようだ。

 

 

 

 

森俊山

1957年 清水焼窯元に生まれる
1976年 京都市工業試験場 陶磁器研修コース修了
1977年 京都府立陶工高等訓練校修了
1978年 京都市工業試験場陶磁器課修了
1979年 日本陶芸展 入選
日展 入選(以後10回入選)
1981年 全関西展 第三席受賞(以後3回受賞)
1985年 京都府画廊選抜展 知事賞受賞
1986年 京展 美術懇話会賞受賞(以後3回受賞)
日本新工芸展 新工芸賞受賞
1987年 ギャラリーマロニエ 個展
1988年 八木一夫現代陶芸展 入選
1990年 美濃国際陶磁器フェスティバル 入選
1991年 京都府工芸美術展 優秀賞受賞
1992年 京都大丸 個展
1993年 新宿伊勢丹 個展
1997年 日工会展 日工会会員賞受賞
2001年 大阪成蹊大学美術学部 非常勤講師
2005年 京都栄養専門学校 特別講師
2006年 京都陶磁器協会 理事
2007年 京都青窯会協同組合 理事長
2008年 経済産業省認定 京焼・清水焼伝統工芸士に認定
2012年 京都市伝統産業「未来の名匠」に認定

俊山窯 伝統工芸士 森俊次

京都市東山区泉涌寺東林町20

TEL:075-561-9333

FAX:075-541-6688