マエストロ貴古

2013.11.25 更新

 マエストロとは、ただ物を作るだけの職人という意味ではなく、自分でデザインをし、プレゼンもして、販売までをもする作り手の総称のような意味があって、自分たちもそのようでありたいという気持ちを込めて「マエストロ貴古」と銘打ちました。と、ご主人の今橋剛和さんと奥様の裕子さんは語られる。
 ご主人の剛和さんは、代々続く「貴古窯」の四代目で、奥様の裕子さんとは京都市立芸術大学在学中に知り合われて、結婚された。ご主人が作られる作品は「貴古窯」として世に出されていて、奥様との共同製作の作品を「マエストロ貴古」という銘で世に出されている。
ご主人の剛和さんは、京都市立芸術大学の陶芸専攻科で学ばれ、卒業後家業に就かれた。もちろん、大学では陶芸に関することは全般的に学ばれたが、家業に入られてからは、先代のお父さんから、陶芸に関して手取り足取り指導を受けられたのではないそうだ。

 

 「自分が作る焼き物は自分のものであって、あなたはあなたで、一から自分の物を作り上げなさいと言われて、父からは突き放さたような感じでした。
 私の父は、焼き物に関しては、それはもう、ありとあらゆる事をやり尽くしていたような人でしたから、それ以外のものしかやってはダメと言われたら何をしたらよいのか。当時は、自分自身が何をやるべきなのか自体、見失うような状態でしたね。」 よく、ライオンは我が子を千尋の谷に突き落として、這い上がってきた子だけを育てるということが言われるが、裕子さんは、お父さんから常にそのように言われるご主人のことをそばで見ていて、「そこまで深い谷に落とさなくても良いのに。」と感じておられたと言われる。
  お父さんから「私がやってきた事以外の陶磁器で、自分の焼き物の世界を築き上げなさい。」と言われた剛和さんは、大学を卒業されて1年の後、お父さんが作ってこられた食器を避け、茶陶の製作から始められる道を選ばれた。  

 

 

  「やはり、一からということで始めましたから、大変苦労しました。染付の茶器の製作を依頼されても、呉須色だけをとってみても何百種類という色合いがあるんです。
 例えば、古伊万里の呉須色が良いからその色で作って欲しいと言われても、その色がわかりませんから、当時知り合いの先生が京都国立博物館におられましたので、頼んで所蔵品を見せてもらいました。でも、その本物の色を見たところで、現在売られている染付の呉須の色との判別が付かないんです。」 確かに、呉須色は単に、十把一絡げに藍色であると言ってしまえば、言えないこともないが、黒味がかった藍色もあれば、青味が強い原色に近いような藍色のものもある。また、太陽光の下で見たときと蛍光灯の下で見たときでは違う色に感じたりすることもある。それに加え、同じ呉須でも窯の焼き方によって、出てくる色が変化する。
 本来なら、一番身近な師匠であったであろう父親から、なんの手ほどきも受けなかった剛和さんにとっては、正に手探りで、目的の呉須色を探り当てなければならなかったことは、想像に難くない。

 

    「来る日も来る日も、色の研究を繰り返していました。よく当時は人から、こんな山の中で色の研究ばかりしていてなにが楽しいのかとまで言われましたけど、その当時はもう商売抜きで、そればかりやっていましたね。」と、奥様の裕子さんも言われる。 茶陶の製作に使用する絵の具や釉薬の研究に邁進し、経済的にはお父さんが経営されていた窯元に頼っていたのが現実だったそうだが、やがて、お父さんの年齢的なこともあり、家業の食器製造を剛和さんは手伝われることになった。
  「必要に迫られて、家業の窯元の食器を作るようになりましたが、やはり、そうなっても父親から、この食器に使っているこの色の釉薬はこれだというような、一子相伝のようなものは一切なかったですね。最後まで、自分の釉薬は自分の物という姿勢を父は貫きました。四代貴古を継ぐのであれば、四代の釉薬色でなければならないというのが、父親の哲学でした。でも、そういう父親の厳しい姿勢で、いわば、這い上がるのが難しいような谷に落とされたことで、今になっては色々なことが身になっていますので、良かったとは思っています。」  

 

 

    貴古窯の食器の製作を苦労しながらも続けられた剛和さんだったが、世の中は20年以上続く不景気の時代となる。
 ご主人の剛和さんは、京都市立芸術大学の陶芸専攻科で学ばれたが、奥様の裕子さんは、同大学の油絵科で学ばれたそうだ。 「私が、京都市立芸術大学の油絵科を選んだのは理由があって、京都芸大の油絵科は他の専攻科とは違って、色々な素材を扱ってものを作るということをやっていたからなんです。油絵科では陶器も作品を作る上での一素材として見ていました。ですので、陶芸をやっている主人に嫁ぐことで、この世界に入ることに対しても、不自然さは感じませんでした。」 裕子さんは、絵の教室で先生もしておられて、子供達に絵を教えておられる。その教室で子供達に教えておられている上で、一つの思いがあるのだそうだ。
 「芸術を専攻した以上、作品を作ることに情熱を注ぐ素晴らしさを生徒にも感じて欲しいのです。お金にならないからやめてしまうというのではなく、子供達に対して恥ずかしくない生き方をしたい。私も作家として頑張っているし、自分たちの目標にしたいと思ってもらえるような生き方をしたいのです。」

 

      そんな、裕子さんの思いからやがて、一つの作品が生まれ、マエストロ貴古が誕生する。 貴古窯の工房にはいくらでもある土を捻って、ある時裕子さんは素朴な形の兎を作った。その兎を見たご主人は、面白いと裕子さんに告げるのである。 ふと、工房にあったカップを逆さまにして、その上に裕子さんが作った兎を乗せてみたところ、スカートをはいた兎に見えたという。そうして作られたのがマエストロ貴古の作品になっていった。綺麗なドレスをまとった兎だけではない。仲良く3匹の兎がカップの中を覗いているような可愛らしい器も生まれた。物思いにふけっているような馬が、ちょこんと上に座っている香炉も生まれた。器の渕に腰をかけ祈りを捧げているような兎もいる。 ドレスをまとった兎に使ったラスタ彩の絵の具は、後に綺麗なペンダントの作品に使うことで新たな挑戦にもなった。

 

 

    「ドレスをまとった兎は、オペラの蝶々夫人をイメージして作ったもので、これがマエストロ貴古としての第1作目でした。マエストロ貴古の作品は、私と主人とのキャッチボールのような作業で作られていく作品で、最初は人形としての作品だけだったのですが、食器作りを長年やってきた主人の思いから、香炉やカップなどの器も作るようになったんです。」
 剛和さんと裕子さんの共同製作作品であるマエストロ貴古の作品は、3年ほど前から作られるようになった、まだ新しいものだそうだが、京焼・清水焼展に初の出品で入賞をしたほど評価は高い。 「私たち夫婦は、二人とも芸大を出ているのに作品を作る上で未だ、何も自分たちの可能性に挑戦していないことに、ある時に気づいたんです。ダメでも、とりあえずやってみよう。自分たちの作品はこれだというようなものが作れれば良いという気持ちで、頑張っています。

 

    お二人は、フェイスブックやブログなどを活用し、インターネット上での作品発表や貴古窯の作品を愛好してくださる方との友好にも熱心だ。マエストロ貴古の作品にも、先代や先々代の貴古窯伝統の作風を意識的に盛り込んでおられるそうで、フェイスブックやブログを見ている方にも貴古窯の作品の良さを伝えたいと考えておられる。
 「私たちの子供が将来、私たちが残した作品を見て、あの時お父さんとお母さんは頑張っていたなと思ってもらえるような作品が作れれば良いなと思っています。」 この思いは、作品に込められるであろうし、人々にも伝わると思う。作品には必ず、それを作った人の為人が現れる。なにより、人は、そういう個性を持った作品を求めているのだと思う。心を込めて作られた作品、そして、その上で伝統的な技が駆使された良いものは、必ず、一人歩きをするものだ。それを求めている人の手元に辿り着くまで。マエストロ貴古の作品も、きっと一人歩きをするだろう。    

 

 

    マエストロ貴古・四代貴古

京都個展2012・2013
京展入選
美術工芸ビエンナーレ入選
現代茶道展入選

    今橋剛和

三代貴古の長男として生まれる
京都市芸術大学陶磁器科卒業
宇治炭山にて独立開窯
小川流茶道具にたずさわる
関西地区中心に個展開催多数
工芸展、茶陶展等入選多数
数々の有名茶会・発表会にて道具提供
四代・貴古の継承者

    今橋裕子

京都市芸術大学油絵科卒業
同大学院修了
関西地区中心に個展開催多数
グループ展開催多数
美術コンクールなど入選・受賞多数
アトリエ遊美術研究所主宰
「音楽絵本」によるステージ発表
陶芸家・今橋剛和とのコラボレーション

 

貴古窯陶房 〒601-1395 京都府宇治市炭山久田2-12 TEL/FAX 0774-32-5903
貴古窯ちゃわん坂店 〒605-0862 京都市東山区清水一丁目287-30
貴古窯のホームページ http://www.maestro-kiko.com/