京焼・清水焼について
京都で焼かれたやきものは「京焼」と呼ばれます。この言葉が始めて記録に登場するのは1605年(慶長10)のこと。博多の商人神屋宗湛(1551~1635)の日記に「肩衝 京ヤキ」が茶会に使われと記されており、これは楽焼の茶入である可能性が高いと考えられています。本阿弥光悦(1558~1637)を始めとして、楽家代々の陶工たちは楽焼の茶の湯道具を焼き続けました。
一方、三条大橋の東側にあたる粟田口には、1624年(寛永元)に瀬戸の陶工が登り窯を築いたとの言い伝えが残り、この頃に登り窯によるやきもの生産が始まったと考えられます。1647年(正保4)頃には、瀟洒な色絵で知られる野々村仁清が仁和寺の門前で茶器を焼く御室窯を始めました。この前後、洛北から洛東の寺院の領地を中心に、粟田口焼を始め、八坂・清水・御菩薩池・修学院・音羽・清閑寺焼などの窯が創始され、繊細な文様を描いた陶器が焼かれました。
仁清の弟子に尾形乾山(1663〜1743)がいます。彼は1699年(元禄12)に鳴滝に登り窯を築きますが、1712年(正徳2)に二条丁子屋町に移り、兄である尾形光琳(1658~1716)と合作で絵皿や琳派文様の懐石具を製作しました。京都町奉行所の記録から、この頃に窯場は洛東に集約され、粟田口に13基、清水・音羽には3基の登り窯があつたと分かります。乾山の時代、洛東では「古清水」とよばれる青・緑・金の三色の色絵陶器が完成しました。
こうして、粟田口、清水、そして後に五条坂と呼ばれる音羽の三か所が京都の窯業地となります。粟田口では錦光山や岩倉、宝山などの有力な窯元が将軍・禁裏・諸大名家などの注文で、古清水を中心に伝統的な陶器生産を行いました。これが後に「粟田焼」と呼ばれます。清水は清水寺領内の窯場のことで、幕末には3基の登り窯がありました。18世紀の後半には奥田頴川(1753〜1811)が京都で初の磁器生産を成功させます。この技術が伝わった五条坂は徐々に生産量を増やし、幕末には9基の登り窯をもつまでになりました。
初代清水六兵衛(1738~1799)、欽古堂亀祐(1765~1837)、青木木米(1767〜1833)、仁阿弥道八(1783〜1855)、永楽保全(1795~1854)などの名工が次々に登場します。頴川が明末・清初の呉須赤絵・交趾焼を復興したように、彼らは歴史的な中国や日本のやきものを復興します。そこに独自の創造を加え、抹茶具や懐石具、煎茶道具なども手がけました。名工たちは三田焼・珉平焼・東山焼(兵庫県)、春日山焼・九谷焼(石川県)、偕楽園焼(和歌山県)などの地方の窯を指導し、京焼のもつ高い技術が各地に広まっていったのでした。
明治時代になると、廃仏毀釈での寺社仏閣の衰退や、東京奠都でほとんどの公家が京都からいなくなります。粟田焼は新たな市場として海外に目を向けます。丹山青海(1813~1886)、十六代宝山文蔵(1820~1889)、六代錦光山宗兵衛(1824~1884)、帯山與兵衛(八代:?~1878、九代:1856~1922)などの製品は現在も多くの作品が海外のコレクションに所蔵されています。
他方、江戸時代には清水寺の領地であった清水の窯は、維新後に五条坂と一体となり、ここで生産されたやきものは「清水焼」と呼ばれるようになります。清水焼は江戸時代から引き続き流行していた煎茶道具の生産で発展を続けます。そして、1893年(明治26)、三代清風与平(1851~1914)が陶工として初の帝室技芸員に任命されました。帝室技芸員は現代の芸術院会員や重要無形文化財保持者(人間国宝)の前身となった制度です。清風の後、初代伊東陶山(1846~1920)、初代諏訪蘇山(1852~1922)も任命されます。明治初期に京都から横浜に移った初代宮川香山(1842~1916)を含めれば、帝室技芸員の陶工全5名(残り1名は板谷波山)の内、4名が京都出身ということからも、京都が日本陶芸界の中心であったことがわかるでしょう。
1896年(明治29)、国内外での京焼の競争力を高めることを目的に、松風嘉定(1870~1928)や七代錦光山宗兵衛(1868~1927)が主導して、五条坂に京都市立陶磁器試験場を設立します。河井寛次郎(1890~1966)をはじめとする、東京や大阪の工業学校を卒業したエリート技師らが、原料や釉薬、高圧電気碍子や陶歯など当時最新の窯業技術を研究しました。現代まで続く京焼の技術の多くが、この時代に研究・確立されたのです。更に付属伝習所という陶芸家養成学校では20世紀の京焼に名を残す多くの陶芸家を輩出しました。その功績により、陶磁器試験場は1919年(大正8)に市立から国立に移管され、引き続き研究、および後進の指導を続けました。
戦時中には地域の製陶業者が再編成され、軍需的な産業に多くの製品を提供し、芸術としての陶磁器生産は限定的なものとなりました。しかし、戦争が終わるとすぐに生産は回復し、さまざまな陶磁器を生み出し続けました。中でも八木一夫(1918~1979)は、走泥社の一員として初めてオブジェとしての陶芸作品を発表しました。その他にも数えきれないほど多くの個人作家が日展や伝統工芸会等で活躍すると同時に、伝統技術を継承する窯元が高級食器を生産し続けています。
世界的な陶磁器の流れは機械的な量産品が主流となりましたが、京焼は手で作ることにこだわり、現在も日本を代表する陶磁器の産地であり続けているのです。
大手前大学 岡佳子(近世以前)
京都女子大学 前崎信也(近世以後)