第六回 京焼と帝室技芸員―三代清風與平―

焼と帝室技芸員―三代清風與平―

 

 

「富本憲吉肖像写真」1960年 京都市立芸術大学芸術資料館蔵
「富本憲吉肖像写真」1960年 京都市立芸術大学芸術資料館蔵

 現代の日本には「人間国宝」と呼ばれる人々がいる。実際は文部科学大臣によって指定される「重要無形文化財保持者」が言葉としてわかりにくかったのだろう、いつしかその名前で呼ばれるようになった。伝統芸能の世界で優れた技能をもつ様々な専門家が選ばれ、それぞれの技能の保全を目的に後進の指導や海外への情報発信を担っている。
 陶芸の分野でも他の芸能分野と同じく「人間国宝」が存在し、これまでに計30名以上が認定されてきた。[1] 京都からは初代の人間国宝として1955年に「色絵磁器」の分野で富本憲吉が選ばれ、以後数名が任命されている。

 

 この制度ができたのは第二次世界大戦後のこと。ではそれ以前はこのような制度はなかったのかと言うと、そうではない。戦前には「人間国宝」の前身ともいえる「帝室技芸員(ていしつぎげいいん)」と呼ばれる芸術家たちがいた。
  1890年(明治23)に施行された美術工芸家の保護政策の中で、国を代表する技術をもった芸術家を指定し年金の支給を支給することが決められた。天皇や皇族のために室内装飾を目的とする調度品を制作する役割も担当した彼らは、日本の文化を守り、次世代に伝える仕事も担っていた。

 

 

「三代清風與平」Harper’s Weekley, 2144(22 January 1898)から転載
「三代清風與平」Harper’s Weekley, 2144(22 January 1898)から転載

 横山大観、竹内栖鳳、黒田清輝、富岡鉄斎、梅原龍三郎など、明治から戦前を代表する芸術家79名が帝室技芸員に任命されている。
 陶芸界からもこの名誉ある立場に選ばれたが、約60年間の歴史の中で、三代清風與平(与平)、初代宮川香山、初代伊東陶山、初代諏訪蘇山、板谷波山の5名しかいない。前述の「人間国宝」に選ばれた陶芸家が64年間で30名以上いることと比べると、帝室技芸員になるのは人間国宝になるよりも遥かに難しかったことがわかるのである。

 帝室技芸員となった陶芸家5名のうち、板谷波山を除く4名は京焼に関わりの深い人物である。
 三代清風与平、初代伊東陶山、初代諏訪蘇山は近代の京焼を代表する陶工であるし、初代宮川香山は、京都から横浜に出て横浜真葛焼を創始した。現在は京都というより、貿易港として栄えた横浜の戦前の歴史を代表する芸術家として知られている。東京国立博物館所蔵の《褐釉蟹貼付台付鉢》[2] が代表作として知られ、2016年に『没後100年宮川香山展』が東京・大阪・愛知の三か所で開催された。宮川家の本家である宮川香斎家は現在も京都で精力的に活動されている。[3]

 

 

三代清風與平《染付龍凰文急須》明治後期~大正初期 而中文庫蔵
三代清風與平《染付龍凰文急須》明治後期~大正初期 而中文庫蔵

 今回はその5人の中でも、1893年(明治26)に帝室技芸員になった三代清風與平(せいふうよへい:1851-1914)について少し詳しく紹介したい。陶芸界からの初の帝室技芸員であり、近代の京焼の発展に重要な役割を果たしたにも関わらず、悲しいことに全国的にはきわめて知名度が低いからだ。

 実は京焼の陶家で、元々の出身地が京都という家は少ない。現在の東京のように、江戸時代の京都には全国各地から優秀な人材が集まってくる場所だった。その例にもれず、三代清風与平は現在の兵庫県姫路市大塩町出身である。
 名は岡田平橘(おかだへいきち)といい、父の岡田良平(?~1878)は代々続く醤油醸造業を営み、儒者として、そして円山派の花鳥画の腕でも知られる人物だったという。
 

三代清風與平《渓山書屋図》1914年 而中文庫蔵
三代清風與平《渓山書屋図》1914年 而中文庫蔵

平橘は子供の頃から絵が好きで絵師になることを希望した。
 そこで、大阪で文人画家として頭角をあらわしていた田能村小虎(たのむらしょうこ:1814-1907、後の田能村直入)に弟子入りすることになった。「京焼と煎茶」の回にも書いたが、田能村小虎といえば、大阪の桜宮で青湾茶会という大煎茶会を主催したことで知られる文人画家である。京阪地方で花開いていた煎茶や文人文化の中心で絵画を学ぶだけではなく、煎茶道具の名品に接したことだろう。後に煎茶道具の制作は彼の活動の一つの柱となるが、その素養を当時最高の環境で養ったといえるのである。

 大阪で修業して2年が経ったころ、大病を患った平橘は療養のために大塩に戻った。春になり病気は完治したが、両親は病の再発を恐れて大阪に戻りたいという彼の願いを聞き入れない。
 そんな時、京都と大塩を行き来する陶磁器商が岡田家を訪れ、京都の清風家が、絵や陶器の好な子を養子にしたいと望んでいるという。
 そうして平橘は時代が明治にかわる2年前(1866)の夏、上京し清風家に養子に入ったのである。

 

 

 

初代清風與平《染付煎茶文急須》江戸時代後期 而中文庫蔵
初代清風與平《染付煎茶文急須》江戸時代後期 而中文庫蔵

 清風家は江戸時代の終わり頃に開業した清水坂の陶家である。初代は金沢に生まれ、文政年間に京都の有名陶工である仁阿弥道八(1783-1855)に弟子入りした。後にその才能を認められ独立を許されて初代清風與平を名乗る。
 師の仁阿弥道八から名付けられたと思われる名「清風」とは、唐の詩人 盧同(ろどう:?-835)の「茶歌」の一節「七椀喫不得也唯覚両腋習習清風生」に由来している。盧同が友人から新茶を貰い、それを淹れて一碗目から飲み進めると、様々な変化が体におこるという内容である。六碗を飲み終わると両腋から習習(シューシュー)と清風が出て、その風に乗って仙人の住むという蓬莱山に飛んでいくという結末。

 腋から風が出て飛んでいく光景を想像するとなかなかシュールだが、この「茶歌」は日本の煎茶文化の根幹であり、それを象徴するのが「清風」なのである。そこから名付けられていることからも分かるように、清風家はその創業時から、当時の煎茶文化の流行を背景とした煎茶道具を専門とする陶家であった。

 

三代清風與平《百華錦胴紐文菓子鉢》明治後期~大正初期 而中文庫蔵
三代清風與平《百華錦胴紐文菓子鉢》明治後期~大正初期 而中文庫蔵

 陶磁器に絵付けをする画工として修業を始めた平橘は、自主的に素材の準備から窯焚きに至るまでの経験を積み、6年程で陶器製造の全ての工程を習得するまでになったという。
 この努力を認めた二代清風は、平橘の独立を認めることとした。

 この独立から約15年間の彼が三代清風与平を名乗るまでの経緯は複雑なので割愛するが、この間に新開清山→清風靖山(せいふうせいざん)→三代清風與平(号:晟山(せいざん))と名前が変わる。

 詳細について興味がおありの方は以前詳しく書いたことがあるのでそちらを見ていただきたい。[4]

 

三代清風與平《太白磁霊芝文巾合》明治後期~大正初期 而中文庫蔵
三代清風與平《太白磁霊芝文巾合》明治後期~大正初期 而中文庫蔵

 そこからの清風與平の活躍は驚くべきものだ。[5] 
 当時の技術ではまだ難しかった様々な色を発色する釉薬を国産の材料だけでつくり出し「百花錦」と名付けた。他にも「太白磁」は温かみのある象牙色の白磁、穏やかな緑色をたたえる「秘色釉」という青磁という具合に次々と新しい技術・釉薬を発表。

 国内外の博覧会・展覧会で受賞を続けた。1890年(明治23)の第三回内国勧業博覧会で妙技一等賞を受賞したことで全国に名前を知られるようになる。このことが評価されたのだろうが、1893年(明治26)に陶工として初の、それも四十代前半で帝室技芸員となる。その2年後には京都の陶磁器業の発展に貢献したことに対して、これも陶工として史上初の緑綬褒章を受章している。

 

三代清風與平《秘色釉柏葉型楊枝入》明治後期~大正初期 而中文庫蔵
三代清風與平《秘色釉柏葉型楊枝入》明治後期~大正初期 而中文庫蔵

 そして清風の名は日本陶磁器に注目が集まっていた欧米にも万国博覧会への出品を通じて広がった。東京国立博物館に所蔵されている《白磁蝶牡丹文大壺》はシカゴ万国博覧会の受賞作品として知られており、明治時代の京焼で初めて重要文化財に指定された。

 当時の彼の作品への注目を表すかのように、イギリスの大英博物館には約20点[6]、アメリカのボストン美術館には12点[7]、珍しいところではミシガン大学美術館に36点[8]など、各国の博物館・美術館に三代清風與平の作品は所蔵されているのである。

 これだけ評価をされた三代清風与平であるが、国内で知られている作品数は多いとは言えない。近年、近代陶磁の研究が進み、住友コレクションをはじめとする個人コレクションに優品が多く存在することが知られるようになった。

 しかし、宮内庁や東京国立博物館といった以前から知られている作品を含めても、その数はまだまだ少ない。もしも、お宅に「清風」や「大日本清風製」という銘が入った作品がおありの方は是非ご連絡いただければと思う。

 

 

[1] http://www.nihonkogeikai.or.jp/kokuho?bunya=1&honor=kokuhou&keyword=&page_num=1

[2] http://www.emuseum.jp/detail/100519/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=7&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=9&num=4

[3] http://www.makuzu-yaki.jp/

[4]前崎信也編『没後100年 大塩が生んだ京焼の名工 三代清風与平』 ()キャッチボール、2014年、前﨑信也「帝室技芸員としての三代清風与平」『近代陶磁』17, pp7-18

[5] 三代清風與平の陶芸家としての経歴は以下の文献に詳しい。中ノ堂一信「三代清風與平の陶芸」(吉田耕三他『現代日本の陶芸 第一巻 現代陶芸のあけぼの』講談社、一九八五年、一二五~一二八頁)、中ノ堂一信「三代清風与平」(中ノ堂一信『近代日本の陶芸家』河原書店、一九九七年、五八~六五頁)、岡本隆志「三代清風與平について(一)」(宮内庁三の丸尚蔵館編『三の丸尚蔵館年報・紀要』第一一号、二〇〇四年、四五―五四頁)、岡本隆志「三代清風與平について(二)」(宮内庁三の丸尚蔵館編『三の丸尚蔵館年報・紀要』一二号、二〇〇五年、七七~六三頁)、岡本隆志「三代清風與平について(三)1900年パリ万国博覧会出品作をめぐって」(三の丸尚蔵館編『三の丸尚蔵館年報・紀要』一四号、二〇〇七年、五四~四七頁)

[6] http://www.britishmuseum.org/research/collection_online/search.aspx?searchText=seifu+yohei+III&images=true

[7] http://www.mfa.org/collections/search?search_api_views_fulltext=Seifu%20Yohei%20III&f[0]=field_checkbox%3A1

[8] https://exchange.umma.umich.edu/quick_search/query?q=Seif%C3%BB+Yohei+III&op=Submit

著者 : 前崎信也

第五回京焼と煎茶  後編

第5回京焼と煎茶  前編

 

煎茶の大流行

6.	田能村直入題画《急須》高:7.7 cm、田能村直入旧蔵資料、京都市立芸術大学芸術資料館蔵
6. 田能村直入題画《急須》高:7.7 cm、田能村直入旧蔵資料、京都市立芸術大学芸術資料館蔵

 幕末期の関西で煎茶がいかに流行していたかを表す出来事に青湾茶会がある。現在は「桜の通り抜け」で有名な大阪造幣局からほど近い桜宮。
そこで文久2年(1862)、日本の煎茶の祖として知られる売茶翁の百回忌を記念して提唱された茶会が催された。主催したのは後に京都府画学校(京都市立芸術大学の前身)の初代校長となる田能村直入(1814~1907)である。茶席は天・地・人と題された3つの茶会で7席ずつの全21席。それぞれを4、5人が担当するため、おおよそ100名が茶を淹れる。
 結果として会には1200人以上が参加したが、参加できなかった人が数千人もいたのだという。[1] 
 動乱の時代のように思われる幕末期においても、これだけの数の人が大阪で茶会を楽しんでいたとは驚きである。

 流行は関西に限ったことというわけでもなさそうである。1857年2月24日、初代駐日領事のタウンゼント・ハリス(1804~1878)は、下田奉行の井上清直(1809~1868)から接待を受けた。

7.	「第七席 風生」田能村直入編『青湾茶会図録 地』河内屋吉兵衛 他、1862年、提供:国立国会図書館デジタルコレクション
7. 「第七席 風生」田能村直入編『青湾茶会図録 地』河内屋吉兵衛 他、1862年、提供:国立国会図書館デジタルコレクション

その時の様子を日記に以下のように記している。

 「食事が終わると、信濃守[井上]は、私が見たことのない、かわいらしいおもちゃのような茶を淹れる道具を持ち出した。よくできた簡素な木製のケースで、それを開けると、お湯を沸かすための小さなコンロ、ティーポットと二つのカップ、茶の入った容器、ティーポットとカップのためのコースター、茶さじ、水に入れる前に火の上で茶葉を温める興味深い機械を並べた。 そして信濃守は湯を沸かし、茶を計って火で焙り、急須に入れ、沸いた湯をその上に注ぎ入れ、その後、茶碗に注いで私に手渡した。」[2]

 この時使われた煎茶道具一式は食事の後に井上からハリスに贈られ、現在はボストンのピーボディ・エセックス博物館に所蔵されている。
 急須と茶碗は永楽の銘があり、永楽保全の作であると考えられている。[3] 国賓であるハリスをもてなすために、煎茶がふるまわれていることからも、当時の煎茶文化の全国的な流行を知ることができる。
幕末の京都では武家社会の混乱により茶の湯の道具の需要が徐々に衰えたのだが、京阪を中心とする裕福な町人層からの煎茶道具への需要はかわらず続いたようだ。

8.	初代清風與平《染付唐子文水注》個人蔵
8. 初代清風與平《染付唐子文水注》個人蔵

 初代清風与平(1803~1861)、初代清水七兵衛(1818~1891)、初代真葛香斎(1819~1865)など、この頃に一家を創始した京焼陶工の多くも、現存作品から見る限り、その主力製品は煎茶道具だったと言って間違いはない。

 

 

 

明治時代の煎茶道具

9.	三代清風與平《珊瑚釉小花瓶》個人蔵
9. 三代清風與平《珊瑚釉小花瓶》個人蔵

 十五代将軍徳川慶喜から明治天皇へ政権を返上した大政奉還(1868)の後、京都の工芸界は多くの困難に直面したと言われている。明治天皇と公家の東京への移住や、廃藩置県による武家の没落、廃仏毀釈による寺社仏閣の困窮により、多くの工芸品に対する需要が失われた。しかし、京阪を中心とする裕福な町人層からの煎茶道具への需要は止まることはなく、煎茶の人気は変わらず続いたようだ。

 明治期に清水・五条坂で活躍した陶工は皆、煎茶の道具を制作している。では、江戸時代との違いは何かといえば、それは優れた中国清朝の磁器に接する機会が増えたということだろう。江戸時代の日本の煎茶道具がお手本としたのは明代・清代の民窯、つまり中国の一般市場に向けて作られたものであり、質が良いものではなかった。それが明治時代になり、海外との自由な交易の道が開かれる。その時中国は清朝末期の混乱の時代であり、お金さえあれば皇帝が使っていたような歴史的作品を手にすることさえできるようになっていた。
 つまり、写すことのできるお手本の種類が格段に増えたのである。

10.	初代三浦竹泉《釉下彩蝶牡丹文花瓶》David Hyatt King Collection
10. 初代三浦竹泉《釉下彩蝶牡丹文花瓶》David Hyatt King Collection

 更に、欧米から新しい技術も導入された。明治初期にはドイツから輸入したエナメル顔料でこれまでになかった多彩な表現が可能になった。皇室の御用品を制作したとされる幹山伝七(1821~1890)の作品は当時の色絵磁器の最高峰とされており、三代清水六兵衛らもカラフルな絵付けを施した作品を遺している。
 このように、明治時代になると清朝の中国磁器を手本とした作品や、新たな技術を使ったさまざまな色絵をほどこした作品が増える。その中から、三代清風与平(1851-1914)や初代三浦竹泉(1853-1915)ら、新奇な煎茶道具の制作で有名になる陶工も生まれていくのである。

 

海外コレクション所蔵の煎茶道具

 海外の陶磁器コレクションはちょうど煎茶が流行していた時代に収集されたものが少なくない。そういうわけで、実は海外の美術館・博物館にも多くの煎茶道具が収蔵されている。しかし、そんな作品が展示されているのを見ることは珍しい。
これはひとえに日本人が、江戸時代の後期から明治時代にかけての煎茶文化の大切さを発信してこなかったことが原因といえる。その結果として、この時期の京焼は「よくわからないもの」であるという印象を生み、歴史的な評価を低いものとし続ける理由となってきた。京焼、特に清水・五条坂の歴史を考える上で、煎茶の流行とその道具の生産が果たした役割。それが今後、日本陶磁史における大切な歴史として広まっていくことを願ってやまない。

 

[1] 田能村直入編『青湾茶会図録』1863年

[2] Harris, Townsend. The Complete Journal of Townsend Harris: First American Consul and Minister to Japan, Revised Edition. Rutland, Vermont; Tokyo, Charles E. Tuttle Company, 1959, 307-308. 日本語訳は筆者による。

[3] 佃一可「ハリスに送った茶道具発見―幕末の日米交渉の証人」朝日新聞夕刊、2016年9月12日、14面。

著者 : 前崎信也

第五回 京焼と煎茶  前編

1.	《売茶翁肖像》田能村直入 編『青湾茶会図録 天』河内屋吉兵衛 他、1862年、提供:国立国会図書館デジタルコレクション
1. 《売茶翁肖像》田能村直入 編『青湾茶会図録 天』河内屋吉兵衛 他、1862年、提供:国立国会図書館デジタルコレクション

急須で淹れる茶

 現代の日本で「伝統的なお茶は何か」と聞けば、多くの人は粉末の抹茶をお茶碗に入れて茶筅で点てる(たてる)「茶道」とお答えになるだろう。陶磁器も茶道具の器として発展したと広く信じられている。
 では、もう一つの茶、「煎茶」と呼ばれている急須で淹れた(いれた)透きとおったお茶を日本人が飲み始めたのはいつ頃のことかご存知だろうか。

 

 江戸時代のはじめ、京都の宇治にある萬福寺を開いた隠元(1592-1673)が日本に急須をもたらした人物であると言われている。江戸時代の中頃、京の南に位置する宇治で茶園を営んでいた永谷宗円(1681~1778)は煎茶用の茶葉の製法を開発した。
 ちょうど同じころ、長崎で中国式の茶の淹れ方を学んだ禅僧の売茶翁(1675-1763)が京の各所で簡素な席を設けて茶をふるまった。

2.	《京焼煎茶道具一式》撮影場所・道具組:一茶庵宗家
2. 《京焼煎茶道具一式》撮影場所・道具組:一茶庵宗家

 すると、京、大坂、そして西日本の港町の裕福な町人や知識人がこの急須を使って淹れる新しい茶に注目し始めたという。京では絵師の伊藤若冲(1716-1800)、池大雅(1723-1776)、俳人の与謝蕪村(1716-1784)らが売茶翁と親交があったことで知られている。このように煎茶を淹れる道具が一般の人々の間に普及したのは江戸時代の終わりの頃のようである。

 当時の日本人にとっての海外といえば中国だった。国外への渡航は禁止されており決して行くことはできない憧れの地。そこから、絶えず新しい文化がもたらされ続けていた。
 実際に中国人が居住していた長崎はもとより、歴代の住職の多くが中国からの渡来僧であった宇治の萬福寺は先進文化の発信地という役割も担っていた。海を渡ってもたらされてくる珍しい書籍や絵画・文房具などに触れ、江戸時代の知識人は彼の地に思いを馳せていたのである。
 同じように煎茶用の道具も多くは長崎を通じて日本に輸入されていた。しかし、その人気は日に日に高まり輸入品だけでは足りなくなったらしい。やがて中国製品を模倣した日本製の急須や茶碗がつくられるようになる。

3.	初代清水六兵衛《涼炉・ボウフラ》個人蔵
3. 初代清水六兵衛《涼炉・ボウフラ》個人蔵

ここで活躍したのが清水寺の麓に位置する五条坂の陶工たち。例えば、代々続く京焼の名家、六兵衛家の初代清水六兵衛(1738~1799)は急須の腕前で名を上げたことが知られている。こうした京焼の陶工の役割は、煎茶の茶書『清風瑣言』を著したことで知られる上田秋成(1734-1809)の言葉にもみられる。

 

「古渡の茶瓶たまたま得るたらば、京師の名工に模さしめ、破壊の厄に備ふべし」
                         『清風瑣言 巻之下』

 

4.	奥田潁川《色絵麒麟鳳凰文花器》高:24.6 cm、京都市立芸術大学芸術資料館蔵
4. 奥田潁川《色絵麒麟鳳凰文花器》高:24.6 cm、京都市立芸術大学芸術資料館蔵

 この一文を現代風に訳せば「外国産の古い急須を手に入れた場合は、万が一の場合に備えて京の陶工に模倣品を作らせるように」である。京都以外の産地でも煎茶道具を造ったところはあるが、その質・量ともに江戸後期の京焼に勝るところはない。
 これは、お手本にする中国産の「本物」が京や大坂の裕福な町人や寺院に集まっていたこと。そして、大都市に近く最新の流行に敏感に対応できたことが原因だろう。

 当初、京都では煎茶で使う茶碗や花瓶の素材として必要な磁器を焼くことはできなかった。そこで研究を重ねて、初めて磁器の焼成に成功したのが奥田潁川(1753~1811)であるという。その技術を弟子たちに受け継いだ彼の功績により、京焼の主力製品に磁器が加わることとなった。 江戸時代の後期に活躍した欽古堂亀祐(1765~1837)、青木木米(1767~1833)、仁阿弥道八(1783~1855)、尾形周平(1788~1839)、永楽保全(1795~1854)等の作品からは彼らが模範とした外国製の陶磁器に対する憧れや、その再現を目指す真摯な情熱を垣間見ることができる。

5.	青木木米《銹絵雲鶴文急須》高:8.8 cm、京都市立芸術大学芸術資料館蔵
5. 青木木米《銹絵雲鶴文急須》高:8.8 cm、京都市立芸術大学芸術資料館蔵

 

 

 

 

第5回京焼と煎茶  後編

著者 : 前崎信也

第四回 明治時代の外国人にとっての「京焼」

明治時代の外国人にとっての「京焼」

先日のこと女子学生に「京焼と聞いて何を思い出すか」と聞いてみた。すると、皆さすがに陶磁器であるというのはわかったようだが、そこで言葉が詰まってどう答えていいか困ってしまう。仕方ないので、「陶器ですか?それとも磁器ですか?」と尋ねると、皆「磁器」との答え、そして、「きれいな絵が描かれている磁器のイメージです」というのが、一番多い答えだった。おそらく、色絵の磁器を思い浮かべているのだろう。

 

1: 初代伊東陶山《色絵鳳凰文鉢》1917~1920年、個人蔵
1: 初代伊東陶山《色絵鳳凰文鉢》1917~1920年、個人蔵

前回は「京焼とは何か?」という悩ましい問題に私なりに答えてみた。その中で、「京焼」という言葉が一般的に使われるようになったのは戦前・戦後の頃なのでそれほど古い事ではないということをお伝えした。そうすると、明治時代に海外で京都の陶磁器を収集していた外国人にしてみても、当初は「京焼」という区分を持っていたわけではなかったということがわかる。

あらためて述べる必要もないかもしれないが、明治期は欧米諸国で日本陶磁器が蒐集の対象となった。日本の陶磁器を収集する上において、日本国中にあまたある窯を種類分けしなければいけない。そこで、海外では当初は万国博覧会に出品された区分で論じられたようだ。

以前紹介した1875年(明治8)に出版のボウズの『Keramic Art of Japan』(1875年)という本を見てみよう。目次にはその当時、ボウズが理解していた日本陶磁器の勢力図を垣間見ることができる。Hizen(肥前・佐賀県)に始まり、次がSatsuma(薩摩・鹿児島県)、Kaga(加賀・石川県)と続き、Kyoto(京都)が登場するのは四番目である。その次はOwari(尾張・愛知県)で以下はMinor Provinces(地方)となり、Awaji(淡路・淡路島)、Bizen(備前・岡山県)等、23の産地が続く。

肥前が1位となっているのは、有田焼、鍋島焼があり、江戸時代から広くヨーロッパで愛好されているので当然といえば当然である。次にくる薩摩は、いわゆる薩摩焼が輸出で大成功をしていた時のことなので、地位もそれを象徴している。その後に、赤絵金襴手の輸出で台頭してきていた九谷焼の石川県、そして、薩摩焼の人気にあやかった京薩摩 の輸出で成功しはじめていた京都という順番。こうして見ると、当時の欧米人の日本陶磁器に対する格付けがよくわかる。

では、この本の京都に関する記述の中でどのように種類分けされているのかというのも面白い。ボウズは京都の陶磁器を3種類に分類している。それは「楽焼」、「粟田焼」、「磁器」なのである。前回は「楽焼」が江戸時代から明治時代にかけての日本人にとっての「京焼」であったというお話をしたが、明治初期のイギリス人コレクターにとっても「楽焼」こそが「京焼」を代表するものであるとされているのだ。

 

 

京都の陶磁器の代表は楽茶碗

2: 丹山青海《色絵龍文蓋付壺》高34cm、明治前期、個人蔵
2: 丹山青海《色絵龍文蓋付壺》高34cm、明治前期、個人蔵

ここでいう楽焼とは、楽家代々の楽焼に限らず、京都の陶工が制作した楽焼という意味である。数ある日本の陶磁器の中でも、欧米の人々にとってこの楽焼との出会いは印象深いものだっただろう。日本には「茶の儀式 (Tea Ceremony)」という謎の風習があり、そこで使われる道具は極めて高価なものだと紹介されていたからである。ひとつひとつが手で成形された楽焼の容貌は、更に彼らを驚かせた。既に産業革命を果たしていた欧米では、規格化された磁器の大量生産が基本。そこに、技術的には何の変哲もなく、規格化などとはおよそ無縁の楽茶碗が「高価」、それも時に一国一城と変わらない程の価値となると知ったのである。

こうして、欧米で京都の陶磁器について書かれた京焼の章にはまず楽焼が紹介されるようになった。京都府立総合資料館にある明治五年に粟田焼の陶工丹山(たんざん)青海(せいかい) (1813~1886)が著した『陶器辨解』では、二種類の焼物が図解されているが、それは「楽焼」と煎茶用の「急須」であるというのも、「楽焼」が京焼であるとされていたことの証明になるだろう。しかしながら、所々の歴史的な事情があり現在の京焼には楽焼を含めないのが一般的となっている。ただ海外を相手にするのならば、今後は楽焼を前面に出して京焼を売り込むというのはどうかと考えさせられてしまう。

 

 

 

 

清水焼

3: 六代錦光山宗兵衛《色絵草花文蓋付鉢》、明治前期、個人蔵
3: 六代錦光山宗兵衛《色絵草花文蓋付鉢》、明治前期、個人蔵

楽焼の次に語られるのが、粟田焼と磁器である。粟田焼とは京都の粟田口周辺で制作された陶器で、細かくひびの入った釉薬の上に赤、青、緑、金で装飾がされている。磁器とは清水・五条坂地域で生産されていた清水焼のことである。ボウズの時代にはまだ清水焼という言葉が英国まで達して居なかったのだろう。現在、京焼と併用して使われることが多いこの清水焼という言葉。明治時代の外国人はどのように理解していたかを見てみよう。

1875年のこのボウズの京都の陶磁器の種類分けは、1901年に出版されたフランシス・ブリンクリー(1841~1912)の『Japan: Its History Arts and Literature, Volume III Keramic Art』にも受け継がれている。しかし、 ボウズの本から26年も経過しているので、その内容はとても詳しくなっている。特に本の最後に掲載されている全国の陶工の銘印のリストは貴重なものだ。

この本には清水焼の定義とも呼べる一文が掲載されている。直訳するとこうである。

 

4: ブリンクリー『Japan』扉頁
4: ブリンクリー『Japan』扉頁

粟田、岩倉、御菩薩以外の京都の陶磁器は清水焼という範疇に含まれる。これらは清水坂、五条坂という名で知られ、都の東に位置する地域で生産されている。この地域の歴史は個々の作家の記録である。以前はこれらの通りには工場と呼べるものは存在しなかった。そこはただ、多くが小規模で国内向け製品を生産する陶工たちの家がある地域なのである。[i]

 

ここでブリンクリーは清水坂・五条坂には様々なスタイルで活動する小規模の個人作家の集まりだと述べている。この当時の外国人はすでに清水焼とはスタイルを指しているのではなく、ただその地域を指しているにすぎない言葉だとわかっているようだ。

こうして見てみると「京焼」や「清水焼」ということばは、ただ生産した地域を指しているだけの言葉だと分かっていただけたのではないだろうか。簡単に言えば、Made in KyotoやMade in Kiyomizuというただそれだけの事なのである。だからこそ、京焼の歴史は、仁清・乾山・木米など、日本を代表する個人陶工が綺羅星のごとく登場、それぞれの陶工のお話が中心に語られてきたのである。

 

5-1~5-5: 「京焼陶工の落款印章」ブリンクリー『Japan』付録
5-1~5-5: 「京焼陶工の落款印章」ブリンクリー『Japan』付録
5-1~5-5: 「京焼陶工の落款印章」ブリンクリー『Japan』付録
5-1~5-5: 「京焼陶工の落款印章」ブリンクリー『Japan』付録

 

 

 

[i] Captain F. Brinkley, Japan: Its History Arts and Literature, Volume III Keramic Art, J. B. Millet Company: Boston and Tokyo, 1901, p. 209

著者 : 前崎 信也

第三回 「京焼」とは何を意味するのか?

「京焼」とは何を意味するのか?

 

図1_初代伊東陶山『赤楽茶椀』個人蔵
図1_初代伊東陶山『赤楽茶椀』個人蔵

フィラデルフィア万博で日本の陶磁史を代表する作品に選ばれた中には、樂家五代宗入の黒楽茶碗、七代長入の赤楽・黒楽茶碗二碗*、十代旦入の赤楽・黒楽茶碗二碗 が含まれていた。前回紹介した本阿弥光悦の黒楽茶碗も含めれば、少なくとも六碗の楽茶碗がそこにはあった。しかし、「京焼」の定義の仕方によっては、これら六碗の楽茶碗は京焼ではなくなることをご存じだろうか。

今回で第三回となる本連載、これまであえてこの京焼の定義問題について触れないで話を進めてきたが、ここで少しだけ触れておこうと思う。京都の陶芸家の方々に「京焼を研究しています」と自己紹介をさせていただくと、よく「前から気になっていたのですが、京焼とはどんなやきものを指す言葉ですか?」と聞かれる。一般の方から同じような質問をされて、何と答えるのが正しいのかわからず困っておられるのだそうだ。しかし、実はこれは、真面目に答えようとすると何時間もかかるような、一筋縄ではいかないややこしい問題なのである。なぜなら、時代によって「京焼」の範囲は変わり続けてきたからだ。

大手前大学の岡佳子先生が、この「京焼とは何なのか?」問題について、『近世京焼の研究』(思文閣出版、2011年)という本の中で解説されている。この本に時代ごとに「京焼」という言葉の意味するものがいかに変化してきたかについてや、先程述べたように「楽焼」を「京焼」に含めなくなった背景についても説明がある。これは実に面白い話なのだけれども、詳しく説明していると長くなり過ぎるので、「京焼」問題にご興味のある皆様には是非、岡先生の本を読んでいただきたい。

この連載で「京焼」と述べる際には、岡先生が使われている定義、つまり「近世以後に京都で焼かれたやきもの」に従っている。近世とは日本史では安土桃山時代から江戸時代にあたる。そして、京都というのは京都市街地とその周辺とされている。つまり、安土桃山時代以降に現在の京都市内とその周辺地域で作られた陶磁器が、本連載のいう「京焼」であるということにしたい。

 

粟田口 対 清水・五条坂

「京焼」という言葉が、現在のように使われるようになった背景について少しお話しよう。現在知られている中で、「きょうやき」という言葉が使われた最初は慶長十年(1605年)のこと。『宗湛日記』という書物の慶長十年六月十五日の条に「肩衝 京ヤキ」とあるのがそれだという。しかし、ここで登場する「京ヤキ」が、一体どのようなやきものを意味するのかという問題については、いまだ完全には解明されていない。つまり、この「肩衝 京ヤキ」という記載からわかる事は、何らかの京都に関係した肩衝茶入(肩の張った茶入)がこの頃に使われていたということだけなのである。

以後、野々村仁清、尾形乾山、奥田潁川、木米など、多くの有名陶工が現れた京都。おしゃれな江戸時代の人々を楽しませようと、スタイルを変化させ、またおのおのが競い続けてきた。つまり、「京焼」というような曖昧な言葉を使うよりも、それぞれの地域や窯、陶工の名前を使った方が便利だったことは想像に難くない。

その上、歴史的に見てみると江戸時代後期の粟田口と清水・五条坂の陶工はあまり仲が良くない。清水・五条坂の窯元が粟田焼の陶土を買い占めたり、粟田口の職人を雇って粟田焼のコピーをしていたために裁判になったり、というような記録もある。[1]そして、「粟田の陶家は五条坂に移らない。五条坂の陶工も粟田へは移らない。五条坂の職工は粟田には雇わない。粟田よりの門人は五条坂には受付けない。」[2]というような掟があったという。そういうわけで、江戸時代には、粟田口と清水・五条坂を、「京焼」というような言葉で一括りにするというのはまさにとんでもない話だったのである。

では、「京焼」の存在意義が生まれたのはいつ頃なのかというと、それはやはり明治時代のことである。なぜなら、廃藩置県をきっかけに、国内・国外の博覧会への出品は府県単位にかわった。陶磁器に限らずどのような分野でも、京都府が他の府県よりもいかに優れているかを競うという時代になったのである。こうして、他府県や外国という競争すべき「他者」を意識して初めて、京都としてひとつにまとまる必要性が生まれた。

 

図2_二代真清水蔵六『古陶録』(1925)より転載
図2_二代真清水蔵六『古陶録』(1925)より転載

二代真清水蔵六(図2)は昭和初期に幕末から明治期の京焼について多くの記録を遺した人物である。彼はこの変化について以下のように述べている。

 

「明治維新後に五条坂と粟田との紛議が解けたと云ふのは、貿易奨励の為に政府より外国博覧会へ日本より始めて人民に出品の製品を命ぜられ、旧幕時代には粟田は色絵金彩色は焼いても、五条坂は焼けないと云ふ様な禁止令は未開なることだが、幕政時代の事は次第に消滅をしたのであった。」[3]

 

とはいえ、京都の陶磁器を指す言葉として当時一般的であったのは、「山城京都焼」、「京窯」といった言葉だった。「京焼」という言葉が使われはじめたのが大正~昭和初期、一般的に使われるようになったのはさらに遅れて戦後のことである。

こういった背景を知ってあらためて「京焼」を考える。すると、それは一体何なのかという問題についての答えが見えてくる。それは、「京焼」は京都のやきものが他の産地や他の国の製品と闘う時にのみ使われるべき言葉であるということ。そして、その意味は簡単に述べれば「Ceramic wares made in Kyoto」ということでしかないということである。

京都は過去、常に京都の中で切磋琢磨し、種々の新しい陶磁器を生み出し続けてきた。その頃には「京焼」という地域でひとくくりにする言葉を使う必要などなかった。なぜなら、「粟田焼」「清水焼」の他にも、「仁清」「乾山」「楽」「木米」「六兵衛」「道八」「永楽」「真葛」など、それぞれの窯元が各々の名前だけで勝負をしていたからである。

「うちは京焼とは違う。京都だからといって安易に全部一緒くたにされては困る」というような意識が、江戸後期以降、日本の陶磁器業の中心であり続けた京都の陶磁器業の根幹にあった。私にはそう思えてならないのである。

図3_二代真清水蔵六「京都陶器製埴の圖」『古今京窯泥中閑話』(1935)挿図
図3_二代真清水蔵六「京都陶器製埴の圖」『古今京窯泥中閑話』(1935)挿図
図4_二代真清水蔵六「京都陶器窯焼の圖」『古今京窯泥中閑話』(1935)挿図
図4_二代真清水蔵六「京都陶器窯焼の圖」『古今京窯泥中閑話』(1935)挿図

 

 

 

 

 

 

 

 

[1] 中ノ堂一信『京都窯芸史』淡交社、1984年、90-92頁

[2] 真清水蔵六『古今京窯泥中閑話』永澤金港堂、1935年、50頁

[3] 同上、67~68頁

第二回 京焼の輸出と神戸港

神戸開港

(図1)
(図1)「神戸海岸」『近畿地方写真帖 第一巻』1880-1900

京焼の名が欧米で知られるようになったのは明治時代の始め頃のこと。安政5年(1858)の横浜開港は有名な話だが、京焼をわざわざ横浜まで運んでから外国人相手に商売をするのは効率が悪い。京焼が本格的に海外に出て行くためには、明治元年(1868)の神戸開港を待たなければならなかった。(図1) あまり知られていないことだが、ペリーが開国を迫った際、江戸幕府が最後までこだわったのが大阪の堺港を開けないことだった。皇室とのつながりが深い奈良から京都一帯の防衛を考慮したからである。そこで、堺の代わりとして提案されたのが兵庫港だ。しかし、兵庫港にはすでに外国人居留地を建設するだけの土地が残っていなかったため、兵庫港に近く土地に余裕のあった人口数百人の漁村、神戸が選ばれた。[1] 神戸開港は貿易という観点からすると横浜と同等に重要である。かつて天下の台所と呼ばれた国の経済の中心大阪・京都の外国貿易への参加は、神戸が開港して初めて現実のものとなった。欧米の列強国と渡りあうために必要な近代化と外貨獲得の実現には、たくさん物を売って儲けなければならない。しかし、当時の日本が外国に輸出できるものといえば、生糸や茶、米や石炭といった第一次産品。そんな中、日本唯一の工業製品と呼べるものが、陶磁器や漆器・金属器などの「工芸品」だった。特に陶磁器や漆器は江戸時代の出島での貿易の時代からヨーロッパでの評価が高く、すぐに貿易商人の目に留まったのである。 明治時代の京焼を代表する陶業家として知られる七代錦光山宗兵衛(1868-1927)は、あるインタビューで明治初年頃にアメリカ人と思われる商人が訪ねてきた時のことについて述べている。彼の回想によると、父の六代宗兵衛は英語もできず通訳もいない中で、その商人と相談し外国貿易を始めることを決めたのだという。[2]こうして明治の初め頃から京焼は神戸港の外国商館に販売され、貿易船に乗って欧米諸国に送られはじめた。なぜこの商人がわざわざ京都の錦光山を訪ねて貿易を始めようとしたのだろう。それは実は粟田焼のような金で装飾された陶器は既に欧米で注目をされていたからである。そして、そのきっかけを作ったのが日本の万国博覧会への参加である。       明治初期の万国博覧会と京焼

(図2)ラザフォード・オールコック
(図2)ラザフォード・オールコック

万国博覧会といえば昭和44年(1970)に大阪で開催された大阪万博を思い出す人が多いだろう。しかしその歴史は長く、日本でいう江戸時代の後半から欧米各国で盛んに開催されるようになった国際的なイベントである。参加国が自国の様々な製品を紹介する大規模な見本市で、優秀な製品には賞が与えられた。今よりも娯楽の少なかった当時においては、普段触れることのできない国の文化を知る事のできる数少ない機会。ひとたび開催されれば場所を問わず驚くほど大勢の観客で賑わった。 英国のロンドンで開催された1862年(文久2)の博覧会は、日本の品物が展示された最初期の例として知られている。展示されたのは、日英修好通商条約の結果、初代駐日総領事であったラザフォード・オールコック(1809-1897)(図2)が蒐集した日本の品物。出品目録から漆器、木竹器、陶磁器、金属器、染織、紙製品などが展示されたことがわかる。残念なことに産地などの詳細な記録がないため、京焼が展示されていたかどうかは分からない。[3]ロンドンの次はパリで1867年の開催。パリ万博は日本が初めて正式に出品した博覧会として知られている。明治維新直前のことでもあり、江戸幕府とは別に薩摩藩と佐賀藩が単独の“国”として参加しているのが当時の情勢を表していて興味深い。

 

 

(図3)ウィーン万博メインパビリオン
(図3)ウィーン万博メインパビリオン

では京焼が間違いなく展示されたとわかる最初の例はというと、1873年のウィーン万博である(図3)。既にお伝えしたように、英国人コレクターのボウズが万博会場で売られていた京焼の値段の高さを指摘している。(図4)そして、東京国立博物館にはウィーン博覧会事務局収集品として京都・暁山製の「藍地白唐草水次」が所蔵されている。 この時ウィーンで注目された日本陶磁器の筆頭は薩摩焼である。その名が示す通り、薩摩で生産が始まったとされているためその名がある。注意が必要なのは、明治時代以降に薩摩焼と呼ばれたものが全て鹿児島県で造られたかというと、そうではないということだ。薩摩焼とは、白やクリーム色の土に、細かなヒビの入った透明の釉薬がかけられ、其の上から金を主体として絢爛豪華な装飾をされた陶器の総称である。京都では粟田口で生産された粟田焼の多くがこの範疇に入り「京薩摩」とも呼ばれていた。

 

(図4)ジェームス・ロード・ボウズKeramic Art of Japan (London Henry Sotheran & Co., 1881)京焼挿図
(図4)ジェームス・ロード・ボウズKeramic Art of Japan (London Henry Sotheran & Co., 1881)京焼挿図

このほかにも、出雲の布志名(ふじな)焼、横浜の太田焼(真葛焼)でも類似の製品が作られたことが知られている。更に、大阪で有名だった藪(やぶ)明山(めいざん)(1853-1934、図5)のように、薩摩や京都で焼かれた無地の作品に、横浜・神戸といった外国人の多い土地で彼らの注文に応じて上絵付けを施すという商売まで存在したのである。      

 

 

 

 

(図5)藪明山『大名行列図小皿』高2.0cm、最大径12.3cm、高台径7.1cm、David Hyatt King Collection
(図5)藪明山『大名行列図小皿』高2.0cm、最大径12.3cm、高台径7.1cm、David Hyatt King Collection

この欧米での薩摩焼人気があったからこそ、先程の外国商人は、神戸港が開いてすぐに粟田焼を代表する錦光山に製品の注文に来たのだろう。こうして、全国の薩摩焼生産者に好景気がおとずれた。しかし、この時あまり嬉しくない副作用が生じた。それは、日本の陶磁器の歴史は、薩摩焼が中心であるかのように海外で捉えられてしまったのである。そこで、ウィーン万博の3年後の明治9年(1876)アメリカで開催されたフィラデルフィア万博では国によってその対策が講じられることとなった。文部省主導で収集された、日本陶磁史を網羅する作品216件のコレクションが展示されたのである。   このコレクションは万博閉会後、全作品がロンドンに渡った。ロンドンのサウスケンジントン美術館(現在のヴィクトリア・アンド・アルバート美術館、画像6)が全作品を600ポンドで購入したからである。[4]現在もほとんどの作品が常設展示されているので、ロンドンにお訪ねの際は是非ご覧いただきたい。  

 

 

 

図6 ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館
(図6)ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館

この216点の中には日本を代表する陶磁器として多くの京焼が含まれている。京焼が日本人主導できちんと海外に紹介されたのはこれが歴史上初めてと言ってよいだろう。海外コレクションで唯一ともいわれる本阿弥光悦の黒楽茶碗や、仁清の香合・香炉・水指・火入など歴史的なモノから、当時最新の錦光山や道八、永楽や清風といった窯の製品が含まれていたのである。(続く)          

 
 
 
 
 
 
 
[1] 前﨑信也「明治期における清国向けの日本陶磁器(2)」(『デザイン理論』62号、pp.69-82)pp. 73-76
[2] 黒田譲(天外)『名家歴訪録 上』p.331
[3] Rutherford Alcock, International Exhibition, 1862. Catalogue of Works of Industry and Art, Sent from Japan, London: William Clowes and sons, 1862
[4] 前﨑信也「写真は真を写したか―明治初期の万国博覧会と日本陶磁器―」(松本郁代、出光佐千子編『風俗絵画の文化学 都市をうつすメディア』思文閣出版、2009年、pp. 301-325)pp. 313-314

著者 : 前崎信也

第一回 京焼の今

忘れられた明治の京焼

1.初代清風與平「色絵桜花文蓋物」、江戸時代後期(1828-57)、高10.5 cm、最大径 13.8 cm、高台径 6.3 cm、個人蔵
1.初代清風與平「色絵桜花文蓋物」、江戸時代後期(1828-57)、高10.5 cm、最大径 13.8 cm、高台径 6.3 cm、個人蔵

京都で造られたやきもののことを「京焼(きょうやき)」という。江戸時代以降、高級な茶道具や食器を中心とし、みやこの生活を彩ったやきもの。「京焼」はかつて人々から羨望のまなざしをもって使われた特別な言葉だった。しかし、今の若者はその言葉を聞いてもピンとはこないようだ。京焼を代表する陶工として有名な野々村仁清(生没年未詳)や尾形乾山(1663-1743)という名前を出してみたところで、大抵は「聞いたことはあります」というような、つれない返事がかえってくるだけである。

3年半の間イギリスで日本陶磁器の研究をしていた私にとって、多くの日本人が京焼を知らないことは驚きである。日本の明治時代にあたる19世紀後半の欧米では、日本の陶磁器が人気を集めた。中でも京都は日本を代表する陶磁器の産地として紹介され、京焼は積極的な蒐集の対象になっていた。その結果、イギリスの大英博物館、フランスのギメ美術館、アメリカのボストン美術館など、世界を代表する欧米の多くの博物館には相当な数の京焼が収蔵されているのである。

太平洋戦争によって一旦は下火になった日本陶磁器の収集は、1980年代頃から改めて注目され、外国人コレクターは近年増加傾向にある。陶磁器研究者という職業柄、彼らと話をする機会がよくあるのだが、そんな時に彼らが口を揃えて言うのは「明治の京焼は日本での評価が低すぎる」ということ。そして、「京都のどこに行けば明治の京焼を見ることができるのか」という質問である。

明治の京焼の情報は少ない。1昭和54年(1979)に京都府立総合資料館で開催された『明治の京焼』展以来、このテーマに注目した展覧会はない。なぜこれほど文化に理解のある京都で明治の京焼はこれほどまでに無視されてきたのだろうか。この問題の一因に、日本の博物館行政と京都の文化行政がある。京都には京都国立博物館と京都国立近代美術館というふたつの国立の研究機関が存在する。研究対象の住み分けがあり、基本的に博物館は明治初期までを、近代美術館は明治晩期からを展示や研究の主な対象としている。こうして、日本文化の情報発信の中心である国立博物館では、明治時代をひとまとまりとして発信することがなかなかに難しいのである。

愛知県や岐阜県、佐賀県や兵庫県など、陶磁器産業が盛んな地域には専門の美術館・博物館があり、古代から現代につながる陶磁史の研究発信を続けている。しかし、京都にはそういった施設も存在しない。これは文化遺産があまりにも多すぎるという、京都特有の嬉しくも悩ましい問題に起因している。これまでの京都の文化政策は、やはりロマンを感じさせられる平安時代から室町時代が中心だ。一方、京焼が繁栄した江戸から明治はあたらしすぎる。そして、工芸の分野でも染織や金工、漆などあらゆる分野の製品の産地である京都だからこそ、陶磁器だけをえこひいきするわけにはいかないということなのだろう。こうして、かつて国内でも海外でも人気を博した京焼は、さみしいことに次代を担う若者達に知られる機会が圧倒的に少ない。海外コレクターから注目され、京都文化発信のためのツールとして高い可能性をもっているにもかかわらずである。

京都陶磁器協会

2.清水七兵衛「染付山水図花瓶」幕末~明治前期、高さ29.6 cm、最大径18.0cm、David Hyatt King Collection
2.清水七兵衛「染付山水図花瓶」幕末~明治前期、高さ29.6 cm、最大径18.0cm、David Hyatt King Collection

明治の京焼についての全6回のコラムを依頼されたのは一昨年のことだ。迷うことなくふたつ返事でお受けした訳であるが、それには理由がある。京都陶磁器協会の歴史を遡ると明治19年(1886)に設立された京都陶磁器商工組合にたどりつく。2組合創設の背景は、明治14年から17年迄続いた国内外の不況で京焼が大打撃を受けたことだった。この4年間の総生産額はそれまでの半額近くにまで落ち込み、多くの陶家が廃業に追い込まれたという。3そこで地域内の製陶家、陶画家、問屋が一体となって京都の窯業の新興を図り、組合が設立されたのである。

近年、京焼に限らず、あらゆる工芸の分野でその存続が危ぶまれるような危機的状態に陥っている。バブル崩壊やリーマンショック後の不況を考慮すれば、明治19年の状況と似てはいないだろうか。ならば、日本全国はもとより、世界に改めて京焼を広めて行くための発信の拠点として京都陶磁器協会ほどふさわしい場はないだろう。

 

 

京焼、海を渡る

3.七代錦光山宗兵衛、錦光山和雄氏所蔵
3.七代錦光山宗兵衛、錦光山和雄氏所蔵

このコラムでは、明治の京焼について書こうと思う。なぜなら、京都の文化を海外に発進するために、これほどふさわしい素材は他に見当たらないからだ。先程も述べたように、海外には既に相当な数の京焼が渡っている。例えば、明治時代の京焼を代表する陶業家として知られる七代錦光山宗兵衛(1868-1927)は、最盛期に年間30万個の陶器を生産し、その大半を輸出していた。そしてその一部は珍重され、現在も明治時代の日本文化を象徴するもののひとつとして博物館や美術館で展示されている。

 

 

 

 

4.ジェームス・ロード・ボウズ
4.ジェームス・ロード・ボウズ

19世紀後半、アメリカやヨーロッパで日本陶磁器が語られるときには、有田や瀬戸、九谷や薩摩と並んで京都の陶磁器が必ず紹介された。例えば、イギリスを代表する陶磁器コレクターであったジェームス・ロード・ボウズ James Lord Bowes(1834-1899)(→Wikipedia:James Lord Bowes)は、その著書の中で京焼の特長について述べている。彼によると、京都の陶工は皆「一流」であり、時代の趣味に沿った高級で特別な製品を生産しているとする。そして、日本政府が出品をした1873年のウィーン万博を例に京焼の日本での評価の高さを説明する。有田や瀬戸の同じような製品と比べて、京焼には4倍もの値段がつけられていたというのである。4

 

 

5.ボウズKeramic Art of Japan (London Henry Sotheran & Co., 1881) 表紙
5.ボウズKeramic Art of Japan (London Henry Sotheran & Co., 1881) 表紙
6.ボウズKeramic Art of Japan p.199
6.ボウズKeramic Art of Japan p.199
7.ボウズKeramic Art of Japan 京焼挿図
7.ボウズKeramic Art of Japan 京焼挿図

 

 

 

 

 

 



当時の欧米では、異国の文物を収集して展示する博物館が流行していた。彼らからしてみれば、まさに極東の小国である日本の文物は、好奇心をくすぐる最高の蒐集対象だ。安政5年(1858)の開港まで、欧米人が知る事のできた日本の情報といえば、長崎の出島に医師として勤務したケンペル(1651-1716)の『日本誌』(1727)や、シーボルト(1796-1866)の『日本』(1832-82)といった書物のみ。開国後、徐々に日本の情報が明らかになっていくと、彼らが「Mikado」と呼ぶ歴代の天皇が長年住した「Miyako」で生産される、日本最高の陶磁器に注目が集まるのは当然のことだったのである。

(続く)


1.明治の京焼に関する研究として、中ノ堂一信氏による諸研究がある。本コラムの内容も中ノ堂氏の研究に拠るところが大きい。中ノ堂一信『近代日本の陶芸家』(河原書店、1997年)など。

2.京都陶磁器商工組合は、明治33年に京都陶磁器商工同業組合となる。そして、昭和9年(1934)に商工分離されて京都陶磁器工業組合となった。商工組合はこれをうけて昭和11年(1936)に廃止されている。京都陶磁器工業組合は、戦時下の京都陶磁器統制組合を経て、昭和28年(1953)に現在の京都陶磁器協会となった。

3.藤岡幸二編『京焼百年の歩み』(京都陶磁器協会、1962年)付表一統計表、第3表1及び2。黒田譲『名家歴訪録 上』(1901年)332頁。

4.George Ashdown Audsley and James Lord Bowes, Ceramic Art of Japan, London: Henry Sotheran & Co., 1881, p. 119 and 125.

 

著者 : 前﨑信也

京焼コラム連載にあたって/著者紹介

京焼コラム連載にあたって


一般財団法人 京都陶磁器協会
理事長 山中鍈一


この度、京都陶磁器協会では、京焼について皆様に更にご理解いただこうと、「伝統のはじまり・京焼の明治」と題して前﨑信也氏のコラムを掲載することにいたしました。
ご存じのように、京都には古くから宮廷を中心とした文化が根付き、人々の求めに応じて様々な焼き物が作られてまいりました。しかしながら、近世、明治から戦前にかけての 名作や、それらが生まれた背景を知る資料は少なく、ほとんど取り上げられずに今日まで きてしまいました。国内では知られることの少ない近世の京焼ですが、一方、明治の京焼 の多くが輸出を目的として作られていたため、海外では評価の高いものとなっています。
私たちが知らない、京焼の魅力やその価値を、海外で学業を修め、広い見地から研究している前﨑博士にひも解いていただきたい。そして昔の職人が持っていた気概を思い起こして、これからの若い世代に伝え、奮起する材料としてほしい。また、世界という見地か ら見た京焼の本当の価値を再発見していただきたいと私どもは考えております。焼き物を好きでいてくださる方々の参考として、また、焼き物に携わる人にはルーツを探り、未来へ進む手掛かりとして、このコラムがお役にたてば幸いに存じます。
伝統とは常に変わり続けることの積み重ねです。400年前、仁清は最新の技術をもった陶工であり、文化的にも技術的にも時代の最先端を行く作品を生み出していきました。また、明治の京焼も明治期には先端科学技術を駆使する工業でした。平成の今、この難しい時代を乗り越える、新しい才能の開花を京都陶磁器協会は後押ししていきたいと考えております。

 

著者紹介


前﨑信也(まえざき しんや)

京都女子大学准教授、立命館大学衣笠総合研究機構専門研究員、京都市立芸術大学芸術資源研究センター非常勤研究員。
1976 年滋賀県生まれ。龍谷大学文学部史学科卒業、ロンドン大学 SOAS 修士課程(中国美 術史)終了、米国クラーク日本芸術研究所勤務、中国留学などを経て、2008 年ロンドン大 学 SOAS 博士課程(日本美術史)修了、2009 年に同大学より Ph.D.(美術史)取得。同年 より立命館大学で勤務し、2014 年4月より現職。

編著書に『松林靏之助 九州地方陶業見学記』(宮帯出版社、2013 年)。主要邦語論文に 「近代陶磁と特許制度」(『写しの力―創造と継承のマトリクス』思文閣出版、2013 年)、「明 治期における清国向け日本陶磁器(1)、(2)」(『デザイン理論』60 号、62 号)、「写真は真を 写したか」(『風俗絵画の文化学』思文閣出版、2009 年)等。主要英語論文に、“Late 19th Century Japanese Export Porcelain for the Chinese Market,” Transactions of Oriental Ceramic Society, London, vol. 73, 2010; “Meiji Ceramics for the Japanese Domestic Market: Sencha and Japanese Literati Taste,” Transactions of the Oriental Ceramic Society, London, vol. 74, 2011 など。